祭 辞 典
江戸型山車 江戸の山車 江戸天下祭
山王祭
神田祭
天下祭の祭礼
江戸三大祭り 江戸囃子
葛西囃子
神田囃子
佐原囃子
役小角
役行者
烏帽子
縁 日 淵 源
(えんげん)

(えびら)
円 空
(えんくう)
 (えい)    
恵比寿神
名 前 説   明
江戸型山車
江戸型山車の定義として、「黒牛に牽かせた2輪車の上に3層の構造物があり、3層部の最上部は人形、その下の部分は水引幕に囲まれた枠で、人形はこの層の中へ上下する。また、この枠と人形がその下の見送り幕に囲まれた部分に上下して格納される。すなわち、二段上下可変式のカラクリ(機構)を持つ」との説がある。枠並びに人形を上下するようにしたのは、天下祭では、上覧のために江戸城への出入りするために6〜12回も高さ2間3尺(4.4m)の城門を潜らなければならなかったことによる。このカラクリが山車の奥深さ、見る楽しみを増している。
ガイダンス → 屋台の色々〕
江戸の山車 江戸時代には、山王・神田の山車以外にも、深川八幡祭りに50台、亀戸天満宮祭礼に17台、谷中に12台、新宿・赤城明神に18台、市ヶ谷亀岡八幡宮に11台、三社祭に18台があったと肥後平戸の殿様の随筆の「甲子夜話」に書いてあるといわれる。
江戸三大祭 江戸時代の江戸の三大祭は、「山王祭」、「神田祭」、「深川八幡祭り」をいい、江戸っ子は、「神輿・・深川、山車・・神田、だだっ広いが山王様」と評した。
「山王祭」は旧暦6月15日、「神田祭」は9月15日、「深川八幡祭り」は8月15日に行われた。
江戸天下祭
 (えどてんかまつり)
上覧祭・御用祭
江戸時代に日本三大祭の一つとされ、徳川幕府の権力の象徴として金銭的援助と統制のもとに行われた、山王権現の山王祭と神田明神の神田祭をいう。両神社の氏子地域は異なるが、両祭礼に神幸行列を出す町内も多かった。しかし、行列を出す費用がかさむことから、天和元年(1681)に幕府の命により、両祭が隔年に行われるようになった。
山王祭は、徳川将軍家の産土神であったため、山車と神輿からなる神幸行列は、元和元年(1615)に江戸城へ入ることが許され、その数は71回におよぶ。神田祭はその後73年の元禄元年(1688)にやっと江戸城内へ入り上覧を受けているが、記録では3回しか確認できていない。しかし、神田祭も、年々形を整え盛大な祭りになっていた。
山王祭・神田祭とも祭礼では、神幸行列が中心であった。神幸行列は、大きくは神輿行列の部分と山車行列の部分にわけられ、山王祭では、山車行列が先行し、神輿行列がそれに続いた。
神田祭では、山車行列の間に神輿行列が入った形式が取られていた。
神輿行列に必要な費用は、幕府から支給された。山車や附祭の踊台・地走り踊・練物などの出し物の費用は、町内が負担した。山車の数は、両祭りともだいたいきまっていたが、附祭の出し物は、最初は制限がなく華美になり、幕府により規制された。
徳川家宣の産土神であった根津権現の祭礼が一度だけ天下祭に参加したことがある。
元和元年(1681)以降、山王祭と神田祭が交互に隔年で行われるようになり、天保の改革(1841〜1843)で規模が縮小された。

ガイダンス → 天下祭〕
山王祭
 (さんのうまつり)
千代田区永田町日枝神社(ひえじんじゃ)の例祭をいう。江戸時代は山王権現といわれ、「徳川将軍家の産土神(家光が決めた)」として将軍家から篤い崇敬を受けていた。明治元年(1868)に神名を日枝大神とし、同時に社名を日枝神社と改めた。当時の例祭日は6月15日ときまっていた。現在は、西暦の偶数年に本祭が行われ、6月14日に神幸祭、15・16日に町神輿の渡御が行われる。
江戸時代の山王祭には、160町の55台前後の山車が巡行したが、明治時代に張り巡らされた電線や財政難により、山車は関東地方へ流失したり、廃棄処分されてなくなり、加えて関東大震災と戦災により壊滅状態になっている。現在の山王祭は、神幸行列が中心で、行列に神社の人形固定型の小さな山車が1台参加しているのみである。
神輿祭 → 日枝神社・山王まつり〕
神田祭
 (かんだまつり)
現在の神田神社は、江戸時代は神田(大)明神と呼ばれ、9月15日が例祭日であった。神田神社になったのは、明治元年(1868)とされ例祭日は、西暦の奇数年の5月15日前の土・日曜日に行われる。
江戸時代の神田祭には、60町の37台前後の山車が巡行したが、山王祭と同じように現在は、その姿を見ることはできない。現在は、神輿が中心となっており、山車は再現されたものなど3台のみが神輿の渡御にあわせて巡行している。
江戸っ子は、「神輿・・深川、山車・・神田、だだっ広いが山王様」と評した。
神輿祭 → 神田祭〕
−天下祭の祭礼行列 神輿(宮神輿)を中心とした山車の行列が、江戸城を含む氏子町内(神領)を巡行した。
山王祭の道順:祭礼当日早朝、120カ町の山車が神社門前(首相官邸〜国会議事堂南側)に集合し、番附順に整列後、神輿が加わる。道順は、国会議事堂裏−三宅坂−濠端沿いに半蔵門から城内−代官町通りの吹上上覧所(乾門)−竹橋−大手門−常磐橋門−門外で流れ解散。神輿は、御旅所で一泊後、翌日氏子町内を渡御。
神田祭:氏子町内約40町の山車が、祭礼当日早朝に湯島聖堂前に集合し、神輿が合流。湯島聖堂前−筋違橋門(昌平橋)−神田須田町−鍛治町−鎌倉河岸−神田橋門前−一橋−俎橋−九段中坂−靖国神社−田安門−北の丸公園−吹上上覧所−首塚で神事−常磐橋門−山車は流れ解散−神輿は神田各町を渡御後帰還。
江戸囃子 (えどばやし)
 葛西囃子
  (かさいばやし)
 神田囃子
  (かんだばやし)
 佐原囃子
  (さわらばやし)
一説に、享保(1716〜1736)の初期に、葛西総鎮守香取明神(現葛飾区東金町 葛西神社)の神主の能勢環が五穀豊饒の報謝として神楽囃子を創ったとされ、これが葛西囃子、江戸囃子の始まりとされている。最初、能勢神主は、敬神の和歌に合わせて囃子の音律を創ったため、「和歌囃子」と呼ばれていた。これが近郷の祭礼で奉納されるようになり、さらに宝暦3年(1753)に関東郡代の伊那半十郎が風紀是正の方策として、囃子の技量を競わせたため、江戸を中心とした関東に広く流行ったとされる。
宝暦以前の天下祭では、祇園囃子、邦楽系の囃子、大神楽の道行きの囃子が一般的であったが、葛西囃子の登場後は、「和歌囃子」「馬鹿囃子」と呼ばれ、広まっていった。
神田囃子は、葛西囃子の系統を引くも、江戸でさらにまとめたものとされ、素人の囃子方の取締役の長谷川金太郎の時期に確立したとされている。神田囃子は、大太鼓、締太鼓、鉦、笛で構成され、屋台・昇殿・鎌倉・仕丁舞・神田丸・亀井戸・麒麟・葛鼓などの曲目が演じられる。
昭和28年には、葛飾・江戸川の葛西囃子、神田囃子の3団体が「江戸の祭囃子」として東京都指定無形民俗文化財に指定されている。
その他、静岡県大須賀町三熊野神社祭礼に三社祭礼囃子が伝わっており、また、佐原には江戸文化の影響を受けた佐原囃子がある。 
役小角
 (えんのおづの・
  えんのしょうかく)
役行者
 (えんのぎょうじゃ)
諡号:神変大菩薩。奈良時代に大和国葛城山の麓に生まれた山岳修行者で修験道の祖で、本名は賀茂役君小角(かものえのきみおづの)といい神道の名家賀茂一族の分家。多分に伝説的な人物で、634年に生まれたとの説もあるが信頼性が薄い。葛城山に住んで修行、吉野の金峰山・大峰などを開いたという。また、役小角は、鬼神を使役しいろいろな奇跡をなしたとされ、前鬼後鬼の護法(修験道者が使役した、童子形の守護童子)を従えた姿で表される。699年韓国連広足の讒(ざん)によって伊豆に流された。
烏帽子 (えぼし)
黒く塗った帽子の色が烏のようであることからこの名前が付いた。奈良時代以来、丁髷が一般化するにつれて一般的なかぶり物となった。貴族は、平常に使い、階級・年齢などで形などに差があった。素材は羅や紗で作られていたが、紙に変わり、漆が塗られた。立烏帽子・懐中用烏帽子・平安朝式高烏帽子・風折烏帽子・剣先烏帽子・引立烏帽子・侍烏帽子・後三年折烏帽子・福娘金烏帽子・揉烏帽子などの形がいろいろある。因みに、相撲の行司は、侍烏帽子をかぶる。
昔は、烏帽子の表面のしわ
を錆と呼び、大錆・小錆・柳錆・横錆があり、官位がなどによりしわが違ったという。
この烏帽子の形に因み、烏帽子岳、烏帽子山と名前の付いた岳・山が全国に85あるという。中でも北アルプスの烏帽子岳は、標高2,628mの代表的な山である。
白丁烏帽子 引立烏帽子 侍烏帽子
白丁烏帽子 引立烏帽子(白鉢巻き付き) 侍烏帽子
円 空 (えんくう) 円空仏 円空に関する評伝は、江戸時代の寺島良案の「和漢三才図会」(注1)や明治時代の富田礼彦の「斐太後風土記」など多くの優れた研究書が世にでているが、その出生地や誕生日などには諸説があり定かではない。円空学会常任理事であった棚橋一晃氏によれば、江戸中期寛永5年(1628)に、美濃国郡上中島村(岐阜県)の加藤家に生まれた。17才で出家。23才で金剛、胎蔵両部の密法をうけ、天台宗の僧侶となった。このころから行基の徳風を慕い、宗教的な情熱を傾けて仏像十二万躰の造顕を発願。富士山に登って浅間神社で参籠中に、大権現が出現して悲願達成を励ましたという伝承がある。これから諸国を行脚の旅が始まった。
寛文4〜6年(1664〜1668)頃北海道のシャモ(和人)が住む松前だけでなく、太田、有珠あたりまで行っている。
延宝7年(1679)の52才には、美濃国郡上郡で多くの仏像を造顕している。
天和元年(1681)にはじめて飛騨を巡錫、位山へ登っている。その後天和3年(1683)美濃、貞亭2年(1685)58才で飛騨千光寺で弁財天を刻み、翌年袈婆百首を詠む。6月には木曽国西筑摩郡三留野村で天神像を刻む。
元禄2年(1689)62才には近江国伊吹山麓太平寺、元禄3年63才飛騨国金木戸村、元禄4年64才正月熱田神宮参拝、4月には飛騨国下呂小川村、元禄5年65才正月大峰山、秋には飛騨国吉城郡鶴巣村清峯寺で千手観音(注1)を造顕。その後越中国へ、冬には飛騨へもどり、元禄6年66才大峰山で正月を迎えた。元禄7年67才に美濃国武儀郡高賀神社で大般若経を修覆。元禄8年(1695)68才7月盆の日に飛騨国半田村で生き定に入り遷化した。墓は清峯寺の近くに現存している。
このように円空は、僧侶と言うより特異な仏師と言われ、北は北海道の果てまで旅をしながら仏像を刻んである。飛騨へは比較的老齢になってから来ており、多くの仏像を刻んでいる。
円空仏の特徴を桑谷正道氏が円空の研究家などの感想を次のように集めている。
 @素朴でいて力強い造型。
 A今の時代に失われたおおらかな游魂の魅力。
 Bアルカイック(古典期以前、古代初期の芸術。素朴で、硬直した表現のうちに神秘感をたたえる)でおおらかな笑いの魅力。
 C著しく自由な作風。
 D無駄と虚飾をはぶいた感銘直截(簡単ではっきりしていること)な表現。
 E民族の傑出した精神を強烈で明確に表現しており他に類がない。
 Fダイナミックで、個性的で、人の魂をゆさぶる。
 Gすべてのむだをはぶいた精錬の極地の力の籠もった確かな造型。
 H大きく鋭く削られた面に無限の美と至純な信仰心が生き生きとしている。
 I微笑は薄気味悪く、世をすねた微苦笑ともみられる。木食上人(注2)の仏像の微笑とも似通っているようで、よく見ると違う。
淵 源 (えんげん) 物事の成り立ってきたみなもと。根源、根本。
 (えい) 翳:菅翳・紫翳などの種類がある。もともと中国から渡ってきたもので、従者が高貴な人の顔を隠したり、日差しをさえぎるために使用し、権威の象徴とされた。
宮中の即位式や伊勢神宮でも使われ、伊勢神宮の翳は、柄の長さが13尺(約4m)もある。また、団扇の原型ともいわれる。
恵比寿神 伝統行事・民俗芸能 → 七福神
祭辞典TopPage
Page Last Updated 2008.7.10
This Page Since 1'st of April 2003 go