| 名 前 |
説 明 |
回転台
(かいてんだい) |
回り舞台・廻り舞台と同意語。 |
舁山・舁き山
(かきやま)
担ぎ屋台 |
舁山型屋台と同意語。 |
陰祭・本祭
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江戸天下祭において、祭りの執行には費用がかかるため、幕府の命により山王祭と神田祭を隔年に行ったことに始まる。一方が祭り(本祭)の年に他方の祭りを陰祭という。
現在も東京では隔年〜3年毎に行う祭りが多く、陰祭は、基本的には神事のみであるが、神幸祭がない、本社神輿が出ない、町神輿の渡御も数が少ないなど、寂しいながら行われる祭りが多い。
また、近頃は、地方でも費用や人出の確保が難しいため、屋台を交代で隔年に出したり、市制記念などに行われる祭りを除き規模を縮小する傾向にある。 |
からくり人形
(からくりにんぎょう) |
「からくり」は、糸のしかけであやつって動かすこと、その装置、また、それが転じて、しかけ、しくんだこと、計略、たくらみをいう。
「からくり人形」は、屋台・山車の上で糸であやつられて所作をする人形をいう。
〔 ガイダンス → 屋台のからくり、からくり人形師〕 |
| 花 車 (かしゃ) |
住吉神社青梅大祭などで呼ばれる荷茶屋のこと。水屋とも呼ばれる。〔祭辞典→荷茶屋(にないじゃや)〕 |
花頭窓・花頭口、火灯窓・
火灯口
(かとうまど・くち) |
禅宗建築とともに日本に入った形式で、上部が曲線状になっている形の窓や出入り口。
右絵は、くらやみ祭屋台の楽屋の花頭窓。 |
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| 框 (かまち) |
床の間や玄関の部分に横に入れる化粧材をいい、銘木や塗り物の材料が使われる。玄関の土間から屋敷へ上がるところは、「上がり框」という。 |
かぐらさん
(車地と書くこともある) |
漁の網を巻きあげるために船の前部に据え付けたローラ、船を陸へ引き上げるための綱を巻く轆轤(ろくろ)などのウインチ、巻上げ機。 |
神随・随神・惟神
(かみながら・かむながら・
かんながら) |
天地の真象・大自然・真理、すなわち、神であるまま、神の御心のまま、神のいたすままに倣い人為を加えないこと。 |
| 川中島 |
長野市南部、千曲川と犀川の合流点付近の地。
武田信玄は信濃制覇のため、上杉謙信はその北上阻止のために、1553年(天文22)以来、川中島で5回対陣した。中でも1561年の4回目は、全面的な戦いであった。謙信の関東管領への就任と北条討伐が信玄配下の信濃豪族の動揺を呼び、これに信玄が越中の一向宗を動員したために両者は決定的な敵対関係となった。
両軍の合戦を浄瑠璃の近松門左衛門の「信州川中島合戦」や近松半二の「本朝廿四孝」、歌舞伎の河竹黙阿弥の「川中島東都錦絵」で演じられている。 |
| 加藤清正 |
1562〜1611。秀吉と同郷の尾張国中村(名古屋市中村区)の生まれ。豊臣秀吉に仕え、賤ヶ岳七本槍の一人で有名。秀吉の死後、石田三成との対立などから東軍の徳川家康についた。天正16年(1588年)肥後74万石の領主となり、3重6階の天守閣の熊本城と城下町を建設した。国人・土豪勢力の一掃に努め、領内の治水や干拓事業にも尽力し、麦年貢をルソンへ輸出するなどの積極的な貿易をした。
文禄の役では先陣を勤め、慶長の役での蔚山(うるさん)籠城で活躍した。虎との戦いが有名。
熱心な日蓮宗信者で、日蓮宗寺院の建立をすすめるとともに、キリシタンを弾圧した。
晩年は江戸城普請に率先して協力、縄張りに力を発揮し、徳川家への従属を強めた。文芸や茶道の造詣も深い。慶長16年(1611年)50歳のときに二条城で家康と会見する豊臣秀頼の後見役を果たし、その帰国途上に船中で発病し熊本城内で没。 |
関羽雲長
劉備玄徳
張飛翼徳 |
| 項目 |
関羽雲長 |
劉備玄徳 |
張飛翼徳 |
誕生
没年 |
〜219 |
161〜223
在位:221〜223 |
〜221 |
諡号
法号
など |
字は始め長生、のち雲長。諡は忠義侯。封号は漢寿亭侯。
見事な鬚髯(あごとほほの髭)をたくわえていたため美髭公とも呼ばれる。 |
字は玄徳、諡は昭烈帝。 |
姓は張、諱は飛、字は益コ・張益徳・翼徳、封号は新亭侯、諡は桓侯。 |
| 生国 |
河東郡解の人。 |
前漢の景帝の子中山靖王劉勝の子孫と称した。 |
現在の河北省の人。 |
経歴
偉業
など |
中国三国時代の蜀漢の武将。
23才のとき、劉備の黄巾党討伐のとき、張飛とともに桃園で義兄弟の契りを結び仕えた。
曹操が義理堅いと評したことから、後世に神格化され関帝・関聖帝君・関帝聖君と呼ばれた。 |
中国後漢末〜三国時代の武将。三国の蜀漢を建国。
父に早く死なれ、母と草履売りやむしろ織りで暮らしを立てた。
184年黄巾の乱が起こると、関羽・張飛と桃園で義兄弟の契りを結び、諸葛亮を参謀として義勇軍を率いて黄巾討伐に参加して名をあげ、蜀漢を建国した。 |
17才のとき、劉備の黄巾党討伐のとき、関羽とともに桃園で義兄弟の契りを結び仕えた。
同じ幽州の出身の劉備が黄巾の乱で義勇兵を集めたとき、関羽と共にその徒党に加わった。以後、劉備から兄弟のように扱われた。また、年上の関羽兄のように敬愛した。劉備の出世とともに別部司馬に任じられ、それぞれが一軍を率いる将となった。劉備が呉に対して荊州奪還戦の準備中に張飛に恨みを抱いていた部下の張達・范彊に殺された。 |
参考
山車
人形 |
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| 逸話 |
武将の関羽は、死後、神格化され商売の神として尊祟されている。祀る「関帝廟」は「華僑のいるところに関帝廟あり」といわれるほどである。なぜ、武将が商売の神になったかは、彼は義に厚いイメージがあり、商売の基本である信用(義)が華僑の人たちの信条にマッチしたためという。 |
劉備が最初に挙兵したのは20代半端であったが40才過ぎまで「髀肉の嘆」をかこった。そこで、諸葛亮に「三顧の礼」をもって迎えた。これに挙兵以来苦難をともにした関羽と張飛が不満を口にしたとき、劉備と諸葛亮は「魚と水」の関係で、水がなければ生きられないと諭した「水魚の交わり(すいぎょ)」が有名。 |
身分の高い人には敬意ををはらったが、目下の者には情け容赦なかった。これを知っていた劉備は、張飛の軍の司令官から上奏があると聞いただけで、「張飛が死んだ」とつぶやいたという。 |
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| 鏡獅子 |
日本舞踊のひとつ。正月の鏡開きに、飾ってある手獅子を腰元が持つと、獅子の精が乗りうつる。前半は艶麗な娘姿の踊、後半は石橋(シャッキョウ)仕立の豪放な獅子の舞。 |
| 加 茂 |
能の演目の一つの神話劇。賀茂明神の丹塗矢縁起を脚色、世を祝福する内容。
前半は、京都の賀茂明神を参詣に来た播州室の明神の神職が白羽の矢が立った壇(土を盛り上げて築いた祭場)を見つけ、いわれを水汲みに来た女性に聴いた。女性の話では「昔、秦の氏女(うじめ、奈良・平安時代、諸氏から選んで後宮の女孺として貢進された女性)が、この川辺で水を汲んでいるときに流れてきた白羽の矢を持ち帰り軒に差して置いたところ、氏女は懐妊して男の子を生んだ。この子が、天に上がって別雷神(わけいかづちのかみ)となり、矢と氏女も神となった」という場面。後半は、別雷神が五穀成就を祈り力強く踊る場面になっている。 |
| 諌鼓鳥・諌鼓鶏 |
「諌鼓」は、中国の聖天子の尭帝が、政道にあやまりを諫言しようとする人民に打ち鳴らさせるために、官庁に設けた鼓.。「諌鼓鳥」は、政道にあやまりがない場合には打つことがなく、太鼓に鳥が巣を作るほどの天下泰平の象徴とされた。漢詩に「諌鼓苔深うして鳥驚かず」と詠まれている。 |
唐 子
開襠庫 (かいたんぐ) |
唐子は、中国の子供をいい、開襠庫(かいたんぐ)といわれる独特のズボンをはき、頭上や左右に毛を残して真ん中を剃った髪型の子供をいう。屋台のからくりや彫刻の題材として多いがからくりの人形は、可愛らしさを表現するためか、裏絵のような髪型が多い。
〔 ガイダンス → 屋台のからくり、からくり人形師〕 |
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| 雅 楽 (ががく) |
1200年以上の歴史を持つ日本の古典音楽で、日本古来の儀式音楽や舞踊などと、仏教伝来の飛鳥時代から平安時代初めにかけて、中国や朝鮮半島から伝えられた音楽や舞を取り入れ平安時代に日本独自の様式に整えられた音楽。
元来は祭祀用楽舞を指したが、後には饗宴用楽舞をも含めての宮廷の楽舞の総称となった。 |
| 舞 楽 (ぶがく) |
舞を伴う雅楽。唐楽を伴奏とする舞を左舞(さまい)、高麗楽(こまがく)を伴奏とする舞を右舞(うまい)と呼ぶ。また、日本の古楽の形式による倭舞(やまとまい)・東遊び(あずまあそ)・久米舞(くめまい)なども含む。 |
願人坊主
(がんにん) |
江戸時代後期の文化・文政の頃、門付けをしたり、大道芸能を演じたり、人に代わって参詣・祈願の修行や水垢離(みずごり)などを生業とした乞食僧。願人坊主の芸能の影響を受けた万作踊り・飴屋踊り・粉屋踊り・銭輪踊りなどが現在も伝わっている。
歌舞伎にも「願人坊主」の演題がある。 |
| 還幸祭 (かんこうさい) |
遷宮、または、祭礼に際し、神霊が神輿・鳳輦や御船代などに乗って新殿または御旅所などに渡御する神幸を終えて、本社へ戻ること。また、戻った神霊を神輿から社殿へ移す祭事。
神幸祭参照。 |
| 神 床 (かむどこ) |
神道で家庭などに天照大神や氏神を祀る白木の社(やしろ)。
神床は、南か東向きに清浄で静かな鴨居の上などで下を人が通らない高い場所で、仏壇と向かい合わせにならない場所にで、神棚に載せて祀る。また、タンスの上や床の間などでもよい。
神具は、宮形の扉の正面に神鏡、左右の外側に一対の榊、内側に一対の灯明具、水器・御神酒徳利・土器などを神鏡の手前に並べる。土器には、左に洗米、右に塩を入れる。
御神礼の安置
神礼・護符は、宮型の中に納め、天照皇大神宮を中央に、向かって右に氏神、左に信仰の篤い神礼を祀る。 |
神 戸
(かんべ) |
神社が所有する土地で、皇室が授けたものが多い。 |
| 傘・差掛傘・妻折傘 |
祭りで使われる傘は、主に神幸祭などで神職に差し掛けられる傘がある。
一般に、この傘は、朱色・長柄・妻折の大きなものである。
妻折(つまおれ)は、傘の先端が折れ曲がった形の傘で、古くは僧侶・貴族などへの差掛傘・差し掛け傘に使われた形である。
この傘は、端折傘・妻折傘・爪折傘(つまおりがさ)、妻折れ野点傘、妻折の差掛傘などと呼ばれる。 |
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| 傘 vs.笠 |
傘(からかさ)は、長い柄が付いて、開閉できるように作られた「さしがさ」をいい(上項の絵のようなもの)、笠(かさ)は、柄がなく、頭に被る「かぶりがさ」をいう。 |
| 金具一坪 |
1坪=1寸角=3.03cm角=9.18cm2 をいう。
高山祭の屋台の中には、1坪あたり純金1匁8分(6.75g)を23000坪(約211m2、純金155.25kg)使っているものもある(恵比寿台)。金の価格の江戸時代の相場はともかくとして、2007年の1g=約2700円で換算すると、155.25kg=約4.2億円となる。 |
| 葛飾北斎 |
宝暦10年(1760)、江戸本所割下水に誕生。幼名を時太郎、のち鉄蔵に改名。川村家から幕府御用鏡師中島伊勢の養子になる。
5歳頃から好んで物の形を写す。
20歳頃から勝川春朗を号し役者絵・美人画・浮絵・武者絵・おもちゃ絵、黄表紙の戯作類の挿絵などを制作。
35歳で勝川派を離脱し琳派の俵屋宗理を襲名。
36歳で独立し葛飾辰政と号す。
53歳で「北斎漫画」初編の下絵を描く。60歳で北斎漫画十編を完成。
61歳から為一と号す。
64歳から川柳の号に卍を使う。
72歳頃「冨嶽三十六景」を版行。
75歳で絵本「冨嶽百景」初編版行。画狂老人卍と号す。
嘉永2年(1849)に90歳で浅草聖天町遍照院境内の仮宅で没す。法名:南そう院奇誉北斎居士 |
懸仏・懸け仏・掛仏・掛け仏
(かけぼとけ) |
銅などの円板に仏像・神像を鋳出したものを付けたり浮き彫りにしたりしたもの。柱などに懸けて礼拝した。平安後期の本地垂迹の考え方から生まれ鎌倉・室町時代に盛んであった。 |
傀 儡 (かいらい)
傀儡師 (かいらいし)
傀 儡 (くぐつ)
傀儡師 (くぐつし)
木 偶 (でく) |
傀儡 (かいらい)
@ からくり人形・あやつり人形。傀儡(くぐつ)・木偶(でく)にも同じ意味がある。
A 自分の意志や主義を表さず、他人の言いなりに動いて利用されている者。でくの坊。傀儡政権などという。
傀儡師 (かいらいし)
@ 人形を使って諸国を回った漂泊芸人。特に江戸時代、首に人形の箱を掛け、その上で人形を操った門付け芸人をいう。傀儡(くぐつ)回し・人形つかいなどともいった。
A 歌舞伎舞踊。傀儡師の風俗を取り入れたもので、河東節・長唄・富本節・清元節などにある。
B 陰にいて人を操る者。策士・黒幕などともいう。
傀儡 (くぐつ)
@ 歌などに合わせて舞わせる操り人形。でく・かいらいと同じ。
A 平安時代以降、操り人形を操ったりして各地を漂泊した芸人。のち、一部は寺社に仕え、布教に従事した。
B 傀儡回しの女たちが売春もしたところから舞妓や遊女。遊び女・傀儡女ともいう。
傀儡師 (くぐつし)
傀儡(くぐつ)Aと同じ意味で、平安時代以降、操り人形を操ったりして各地を漂泊した芸人。のち、一部は寺社に仕え、布教に従事した。 |
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邯鄲の夢枕
(かんたん) |
中国の趙の時代に、出世を夢見て旅に出た貧しい青年・廬生(ろせい)が河北省の邯鄲(かんたん)の町の宿に泊まった。飯を炊いているときに同宿の道士・呂翁に栄華が思いのままになるという枕を借りてうたた寝したところ、50年にわたる長い旅と苦難を経て、最後には大成功を収める夢を見た。しかし、夢から覚めると、まだ飯が炊けてないほど束の間のことであったという沈既済「枕中記」の故事による栄枯盛衰のはかないことのたとえを「邯鄲の夢枕・邯鄲の枕・廬生の夢・黄梁一煩の夢・一煩の夢」などという。 |
鎌倉権五郎景政・平景政
(景正とも書く)
通称・権五郎 |
平安時代後期の武将。父は桓武平氏の流れをくむ平景成とするが、平景通の子とする説もある。
父の代から相模国鎌倉(現鎌倉市周辺)を支配し鎌倉氏と称した。16才頃に、後三年の役(1083〜1087)に従軍し、右目を射られながらも奮闘した。千葉県野田市に、戦後、目の療養をした土地に「目吹」の地名が残る。
長治年間(1104〜1106)に相模国高座郡大庭御厨(現藤沢市周辺)を開発し伊勢神宮へ寄進した。
右絵は、鎌倉市腰越:八雲神社例祭で飾られる神戸町の山車の鎌倉権五郎景政。 |
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江戸時代の貨幣制度
金・銀・銭(銅) |
江戸時代に徳川幕府は、貨幣を独占的に発行し、その貨幣の様式を統一し、金・銀・銭(銅)の3種の三貨制度を制定した。
金貨は、「計数貨幣」で、小判1枚を1両とし、1両は4分(ぶ)、1分は4朱の4進法とした。
1両=4分=16朱
銀貨は、重さが貨幣の価値となる「秤量貨幣」で、基本単位は「匁」、1匁は10分(ふん)、1000匁を1貫(かん)とした。
1匁=10分、1貫=1000匁=10000分
銭(せん、銅)は、1個が1文(もん」で、100文が1貫文(かんもん)とした。
銭100分=1貫文
このように金・銀・銭(銅)は、それぞれが別の貨幣体系をもち、単位の名称も異なっていた。
貨幣の交換レートは、時代・相場できまっていたが、幕府の公定レートとして、元禄年間(1688〜1704)は、1両=銀貨60匁=銭貨4000文、また、天保13年(1842)以降は、1両=4分=16朱=6500文であった。 |
土師一流催馬楽神楽
(はじいちりゅうさいばらかぐら)
鷲宮催馬楽神楽
(わしのみやしばらかぐら) |
埼玉県北葛飾郡鷲宮町の鷲宮神社に伝わる「土師一流催馬楽神楽」通称「鷲宮催馬楽神楽」で、関東神楽の源流といわれている古い神楽である。国指定重要無形民族文化財。
鷲宮神社では、毎年、元旦・2月14日・月10日・7月31日・10月10日・12月初酉の日に神楽殿で奉納される。
鷲宮神社の神楽が書物に登場するのは、吾妻鏡の建長3年(1251)で、神社の神前で神楽を行ったところ見事な託宣が現われ、祈願が成就したという。この神楽が今に伝わるものと同じかどうかは不明。
享保11年(1726)の大宮司藤原国久の筆写による「土師一流催馬楽神楽歌実録」に、神楽の中で歌われる催馬楽などの歌詞や神楽で使われる衣装、持ち物などが詳しく書かれている。
また、天保年間(1830〜1843)に鷲宮神社の大宮司藤原国政が書いた「鷲宮古式神楽正録」の写本にも神楽の詳細な内容が書かれている。これによれば、藤原国久が廃れた祭祀を再興しようと「当社奥秘を社人に伝授」し、宝永5年(1708)に十二座神楽を行ったしている。
これらから、現在の十二座の神楽が編成されたのは、宝永5年〜享保11年頃(1708〜1726)と推定されている。
また、神楽は、関東神楽の源流といわれ、江戸の里神楽の基礎を形成した。19世紀前半に著された「海録」によれば、当時、江戸で行われていた十二座の神楽の原形に、「土師の舞」と呼ばれるものがあり、これは17世紀の後半頃江戸に入ってきたものであることがわかる。この「土師の舞」は、十二座に編成される以前の鷲宮神社の神楽のことである。こ
鷲宮神社では、 毎年、元旦・2月14日・月10日・7月31日・10月10日・12月初酉の日に神楽殿で奉納される。(出典:鷲宮神社栞など) |
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| 神々の系図 |
ガイダンス → 神々の系図。。 |
神八井耳命
(かんやいみみのみこと) |
神武天皇の第2皇子。庶兄の多芸志美美命が皇位を狙っていることがわかり、第3皇子の神沼河耳命と討ち取ろうとした、神八井耳命が手が震えて殺すことができなかった。弟の神沼河耳命が武器を取り、討ち取った。このことで、兄は末弟に皇位を譲り、科野国造・阿蘇君の祖となった。末弟は、第2代綏靖天皇となった。 |
迦具土神
阿遇突智神
(かぐづちのかみ)
火之迦具土神
(ほのかぐづちのかみ)
火産霊神
(ほむすびのかみ) |
伊奘冉尊が最後にこの火の神を産んだために、陰所を焼かれ死に、黄泉国へ下った。これを悲しみ怒った父の伊奘諾尊は、十拳剣(長剣)で迦具土神を斬り殺す。その死体の頭から正鹿山津見神、胸からおど山津見神、腹から奥山」津見神、陰から闇山津見神、左手から志芸山見神、右手から羽山津見神、左足から原山津見神、右足から戸山津見神が化生したという。 |
神産巣日神・尊
(かみむすびのかみ)
神産巣霊尊
(日本書紀) |
天地の最初に出現した造化三神の一柱。古事記では天御中主神(あめのみなかぬしのおおかみ)・高御産巣日神(たかむすび)とともに天地のはじめに成った神で生成力の霊妙な動きを、高御産巣日神と二柱を男女のように神格化している。 |
神大市比売命
(かむおおいちひものみこと)
大市比売命
(おおいちひものみこと) |
素戔嗚尊が櫛名田比売命と結婚したあとで、同じ大山津見神の娘である神大市比売命と結ばれた。
素戔嗚尊と一緒に祀る神社が多い。 |