| 名 前 |
説 明 |
祢 里 (ねり)
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遠州横須賀・三熊野神社大祭における、山車の呼び方。一本柱万度型の山車で、江戸時代の神田明神祭礼絵巻などに描かれている山車と同じ形状。 |
| 練 物 (ねりもの) |
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| 根津大権現 天下祭 |
天下祭とは、一般に日枝神社・山王まつりと神田祭をいい、その神幸祭が江戸城内へ入り上覧を受けた。徳川将軍家の産土神であった山王まつりは71回、神田祭は3回城内へ入っている。この間、徳川家宣が産土神としていた根津大権現の祭礼が一回だけ天下祭として城内へ入った。
それは正徳4年の祭礼で、俗に天下祭また宝永祭とも称し、その規模は幕制を以て定められ寺社・町・勘定三奉行がこれに当たり、江戸全町より山車楽車を出して神輿に供奉、行列は江戸城内に錬り入る賑わいで、吹上に於て将軍の拝礼があった。宝永祭と呼ばれるいわれは、宝永3年根津神社の社殿が完成した時に行われる筈であったためであったが、5代将軍綱吉の生母桂昌院の喪により延期され、さらに神社の産子であった6代将軍家宣の在世中にも間に合わず、結局正徳4年の9月22日に行われた。
その祭礼の規模は、未曽有のもので100年以上を経た天保11年にその祭礼の版画が版行されたことでもわかる。
当時の俚謡に「宝永祭は見事の事よ、誰も見にゆけ行なはいさ、ちと叉此世のうさはらし」と謡われた。
この宝永祭までは山王祭と神田祭が隔年に交代で行なわれる定めであったが、この年に根津を加えて3社で交代する定めに改められた。これから江戸三大祭は、山王まつり・神田祭・根津大権現の祭礼をさすこともある。
この正徳4年の根津大権現の神輿渡御の様子を描いた溪斎英泉筆の額が神社拝殿に掲げられていたが戦災で焼失した。
しかし、この額をもとに1/10で描いた版画が天保11年に作られたものが残る。
(出典:根津神社HPなど) |
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