| 名 前 |
説 明 |
| せいご台 |
川越まつりや栃木秋まつりの山車において、車輪が付く台輪(車台・台座)をいう。 井桁台・台輪と同意語。 |
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| せり出し |
重層の山車において、枠・上段や人形が上下する構造で、いわゆる江戸型と呼ばれる山車の構造で、江戸城への出入りのために城門を潜るために工夫された。
繰り出しと同意語。 |
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千社札
(せんしゃふだ・せんじゃふだ)
大奉書
(おおぼうしょ・おほぼううしょ)
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| 貼り札 |
交換札 |
江戸中期に始まったもので、自分の名前や屋号・睦名などを書いた札。銅板・漆塗り板のこともあったが紙が主流。
千ヵ所を参拝すると大きな願いが叶うとされたことから「千社札」というとの説がある。
より盛んにしたのは、雲州松平家の家臣で本名を萩野喜内信敏という愚孔平(てんぐこうへい)だという。松平家の不昧公とその弟君駒次郎が疱瘡にかかり、主君の命により伊勢・多賀両社および武州疱瘡神へ疱瘡送りの札を納めることを仰せつかったのが札に興味を持ったのが始まりといわれている。その後、宗門奉行神掛御頭役となり「鳩谷天愚孔平」と称し、関東の神社・仏閣へ参拝し張った。
デザインは2種類あり、一つは木版摺り墨一色の「貼り札(墨札)」で、札が剥がれ落ちるまで自分の代わりに御本尊と結縁*するために山門や社堂に貼る。
他の一つは、多色摺りの「交換札(色札)」。これは、千社札の好きな人が、時々集まり、新しく作った自慢の色札を交換し合うための札。江戸時代に納札愛好家により盛んに交換会が行われ、士農工商に関係なく洒落たデザインのものが交換されたという。今日でも行われている。
文字は、江戸文字で書かれる。
千社札博物館:東京都墨田区京島2−10−9 電話:03−3612ー1691 |
紙の大きさは、浮世絵版画などに使った大奉書(おおぼうしょ、一尺三寸×一尺七寸五分=39.5×53cm)を基準に十六丁札、16に裁断したものを一丁札、8裁断を二丁札、4裁断を四丁札、2裁断を八丁札という。
この一丁札の中に子持ち枠と呼ばれる罫囲みがあり、この中に文字などを書いた。子持ち囲みは外枠が太枠、内が細枠で、それまでまちまちだった子持ち枠の大きさが明治20年に外寸法で一寸六分×四寸八分(4.8×14.4cm)の1対3に統一された。 |
| 呼 び |
裁 断 |
大きさ |
| 十六丁札 |
大奉書
(おおぼうしょ) |
一尺三寸×一尺七寸五分
395×530mm |
| 八丁札 |
2 |
265×395mm |
| 四丁札 |
4 |
197.5×26.5mm |
| 二丁札 |
8 |
13.25×19.75mm |
| 一丁札 |
16 |
58×173mm
(大奉書の短辺を1/2、
長辺を1/8にしたもの) |
| 子持ち枠 |
− |
一寸六分×四寸八分
(4.8×14.4cm) |
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千社詣で
(せんじゃもうで) |
千社に例えられるほど多くの神社・仏閣に巡拝すること。初午の日に稲荷に巡拝することが多い。江戸時代に流行し、現在も行われているという。 |
| 仙 人 |
人里離れた場所に棲み、不老不死の方法を見つけ、神変自在の術を持つ人。なにも食べなくても生きられるという。 |
| 雑 色 (ぞうしき) |
鎌倉・室町時代の下級役人、雑役・走使いの無位の職、雑役に従う召使いなど。 |
| 践 祚 (せんそ) |
第1位の皇位の継承者(皇嗣)が天皇の位を継ぐこと。天皇の崩御、または、譲位の後に行われる。もともと即位と同義であったが、桓武天皇の代より別の日に行うことが常例となった。現在は、皇室典範で「即位」のみと規定されている。 |
静山流・旭静山流
(せいざんりゅう、あさひ・・) |
香取市(旧小見川町)の阿玉地区に明治初年に活躍した遠藤静山人が創始したと伝えられる祭囃子の流派で、干潟町・旭市などで演奏される。 |
| 星 宿 (せいしゅく) |
古代中国で天の赤道にそって決められた二十八の星座の一つで、南方に位置する。参考:二十八宿。 |
| 施餓鬼・施餓鬼会 |
施餓鬼は、餓鬼道に墜ちて苦しんで災いをなす鬼衆や無縁の亡者などすべての衆生に食物を施して供養することで、その法会を施餓鬼会・施食会・冥陽会といい、お盆の頃に行われる。 |
摂 社 (せっしゃ)
末 社 (まっしゃ) |
本社に付属し本社の神の配偶神や血縁関係を持つ神など縁故の深い神をまつった神社をいう。本社と末社との間に位し、本社の境内にあるものと境外にあるものとがある。神社によっては、多数の摂社が祀られている神社もある。 本来、末社は、本社の管下に属する神社をいうが現在では一般に本社の境内の摂社以外の神社をいう。末社の神は、本社の神と関係のものや氏子が崇敬する神を創立したものなどいろいろである。 |
青龍偃月刀
(せいりゅうえんげつとう)
青龍刀 冷艶鋸
(れいえんきょ) |
冷艶鋸(れいえんきょ)ともいう。「三国志演義」に出てくる武器で、右絵の関羽 雲長が愛用した大刀。「青龍」と頭に付くのは柄に青龍(裏絵)を飾るため。
「三国志演義」では、商人の張世平らから贈られた鉄鋼を使って、劉備 玄徳たちとの挙兵時に村の鍛冶屋に作らせたとある。重さは18kg(82斤)あったという。
荊州が陥落し、関羽は関平・周倉らと共に麦城に籠城したが、呂蒙らに捕らえられ親子ともども斬られた。関羽の青龍偃月刀は、関羽を捕らえた潘璋に孫権から褒美として与えられた。その後、潘璋は関羽の子の関興に追われ、逃げる途中で関羽の亡霊に驚いたところを関興に斬られた。関興は潘璋が持っていた青龍偃月刀を取り上げたとしている。
しかし、青龍偃月刀が出現したのは宋代以降のことで、関羽はこれを実際には使っていないとされ、陳寿の正史三国志にもこの刀は登場しないとの説もある。 |
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| 泉岳寺 |
万松山。江戸の浅野家の香華院。曹洞宗。
曹洞宗の本山は二つあり、一つは道元禅師が開いた福井県永平寺、他の一つは横浜鶴見総持寺。
泉岳寺は、慶長17年(1612)に今川義元の孫である門庵宗関和尚(もんなんそうかん)を拝請して徳川家康が外桜田に創立した寺院である。
寛永18年(1641)の寛永の大火で焼失した後、時の将軍家光が復興がなかなか捗らない様子を見て、毛利・浅野・朽木・丹羽・水谷の五大名に命じ、再建された。
創建時より七堂伽藍を完備した諸国の僧侶200名近くが参学する叢林として、また曹洞宗江戸三ヵ寺ならびに三学寮の一つとして名を馳せていた。現在もその家風は引き継がれ、大学で仏教を学びながら泉岳寺で修行を勤める若い修行僧もいる。
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| 香華院 (こうげいん) |
菩提寺、香華寺。 |