祭 辞 典
据輪構造 擦鉦・摺鉦 水 干 (すいかん) 助 郷 (すけごう) 水魚の交わり
(すいぎょのまじわり)
筋違紋
(すじかいもん)
 
 素戔嗚尊
須佐之男命
少彦名命          
名 前 説   明
据輪構造
 (すりんこうぞう)
車軸と梶棒の間にベアリングで支えられた二枚の円盤で車軸と梶棒を回転させ梶を取る構造。当HPでいう「センターピボット」式換向装置の構造の一種。八王子まつりの山車では、この構造を「チャ玉」と呼んでいる。
擦鉦・摺鉦
 (すりがね)
囃子で、笛・太鼓に合せて使う響銅(さはり、銅と錫・鉛の合金)・真鍮製の小型の鉦。左手にぶら下げ、右手で撞木・桴などで中央を打つ当り鉦(下げ鉦)といわれる奏法と、左手で鉦を直接持って内側を摺る摺り鉦(つかみ鉦)といわれる奏法とがある。一般に屋台・山車は摺り鉦が多い。当り鉦、ちゃんちき、ちゃんぎり、よすけ、こんちきなどとも呼ばれる。
天満天神
菅原道真
菅 公
 (かんこう)
菅丞相
 (かんしょうじょう)
菅 家
 (かんけ)
天神さま・天満宮・菅原神社
代々学者の家系に生まれ、長じて宇多天皇に仕えて信任を受け、文章博士・蔵人頭・参議などを歴任し政治家として卓越した能力を発揮した。
醍醐天皇の世に55才で右大臣になったが政治的な暗闘、学閥の抗争などに巻き込まれ、延喜元年(901)に藤原時平の讒言により大宰権帥に左遷され、2年後配所で没した。
都を去るとき詠んだ、「 東風吹かば にほひおこせよ梅の花 あるじなしとて 春な忘れそ 」は有名。
門弟の味酒安行により墓所として太宰府天満宮が建てられた。死後、種々の怪異が現れたため、御霊として京都・北野天満宮に祀られた。
その後、朝廷でも罪がないことがわかり、空海・小野道風とともに三聖の一人にかぞえられ、「類聚国史」の編纂、「三代実録」の撰に参与したりして書をよくしたため、人から学問の神として尊崇されるようになった。
天神さま・天満宮・菅原神社は、菅原道真を祀る神社で、全国に14000社ある。
菅原道真
年号 西暦 天皇 概   要
承和12年 845 仁明 6月25日誕生
嘉祥3 850 文徳 5才:和歌を詠む。
斉衡2 855 文徳 10才:漢詩を創作。
貞観4 862 清和 18才:式部省(注1)の試験に合格し文章生(注2)になった。

注1)式部省:律令制の八省の一つで、国の礼儀・儀式・選叙・考課・禄賜などを司る。
注2)文章生(もんじょうしょう):平安時代に擬文章生などから詩賦の試験に合格した者。
注3)擬文章生:律令制の大学で学び、試験に合格した文章生の下位の者。
867 清和 23才:文章得業生(注1)となる。正六位下となり、権少掾(注2)になった。

注1)文章得業生(もんじょうとくごうしょう):文章生の中から2名が、学費を支給され7年間勉強したあと、秀才の官吏採用試験(方略試)を受ける資格を持つ者。
注2)権少掾:太師・太傅・太保の補佐役の、少師・少傅・少保の一つ。
11 869 25才:「貞観格」(注1)を選進した。

注1)貞観格:三代格式(注2)の一つで、弘仁11年(820)より貞観10年(868)までの詔勅官符を編纂したもの。
注2)三代格式:嵯峨・清和・醍醐の3代の天皇の時代に定められた弘仁格式・貞観格式・延喜格式の3格式。神社・仏事などの三代の格式全部を集めた「類聚三代格(平安時代の法令集)」が使われた。
12 870 26才:対策(注1)に合格し、正六位になる。

注1)対策(たいしゃく、たいさく):官吏採用の論文の試験で、漢文の作文を提出する試験。
13 871 27才:玄蕃助に任ぜらる。少内記に任ぜられた。

注1)玄蕃助:玄蕃寮の長官の補佐役。
注2)玄蕃寮:律令制で、治部省に属し、仏寺や僧尼の名籍、外国使節の接待・送迎をつかさどった役所。
注3)小内記:令制の中務省の職員で大内記・中内記の補佐役。
16 874 30才:従五位下、兵部少輔に任ぜられた。
この頃、島田宣来子を妻に迎えた。


注1)兵部省:律令制の八省の一つで、軍政や武官の考課・選叙・訓練、兵馬・兵器などを司る。
元慶元 877 陽成 33才:式部少輔に任ぜらる。文章博士となり、最高の栄進を遂げた。

注1)博士:官名で、大学寮に紀伝(文章)・明経・明法・算・音・書、陰陽寮に陰陽・暦・天文・漏刻、典薬寮に医・針・按摩などの博士があって、それぞれ学業を教え、登用試験などを司る。
879 39才:従五位上に叙さる、藤原基経らが「文徳実録」を作り天皇の奉すにあたり、道真がその序を書いた。
仁和2 886 光孝 42才:讃岐守に任ぜられ、讃岐国へ赴任し、善政を行い住民に慕われた。
寛平2 890 宇多 46才:帰京。
891 47才:蔵人頭の役につく。式部少輔に任ぜらる。
892 48才:従四位下に叙さる。「三代実録」の撰修を任される。
893 49才:参議に任じ式部大輔を兼ねる。左大弁に転じ、勘解由長官・春宮亮を兼ねる。
894 50才:遣唐大使に任ぜらるが、唐の国情不安と文化の衰退を理由に遣唐使停止を建議し、中国へは行かなかった。侍従を兼ねる。
895 51才:近江守を兼ねる。従三位に叙し、中納言に任ず、春宮権大夫を兼ねる。
896 52才:民部卿を兼ねる。
897 醍醐 53才:権大納言に任ぜられ、右近衛大将を兼ねる。正三位に叙され、中宮大夫を兼ねる。
昌泰2 899 55才:右大臣に任ぜらる。従五位下を授かる。
900 56才:「菅家文草」「菅相公集」「菅家集」を献上。
延喜元 901 57才:従二位に叙さる。大宰権帥に左遷される。配流に近い生活で、窮迫の日々を送る。
903 59才:2月25日大宰府で没。享年58才。

年号 西暦 天皇 概   要
承和12年 845 仁明 6月25日誕生
嘉祥3 850 文徳 5才:和歌を詠む。
斉衡2 855 文徳 10才:漢詩を創作。
貞観4 862 清和 18才:式部省(注1)の試験に合格し文章生(注2)になった。

注1)式部省:律令制の八省の一つで、国の礼儀・儀式・選叙・考課・禄賜などを司る。
注2)文章生(もんじょうしょう):平安時代に擬文章生などから詩賦の試験に合格した者。
注3)擬文章生:律令制の大学で学び、試験に合格した文章生の下位の者。
867 清和 23才:文章得業生(注1)となる。正六位下となり、権少掾(注2)になった。

注1)文章得業生(もんじょうとくごうしょう):文章生の中から2名が、学費を支給され7年間勉強したあと、秀才の官吏採用試験(方略試)を受ける資格を持つ者。
注2)権少掾:太師・太傅・太保の補佐役の、少師・少傅・少保の一つ。
11 869 25才:「貞観格」(注1)を選進した。

注1)貞観格:三代格式(注2)の一つで、弘仁11年(820)より貞観10年(868)までの詔勅官符を編纂したもの。
注2)三代格式:嵯峨・清和・醍醐の3代の天皇の時代に定められた弘仁格式・貞観格式・延喜格式の3格式。神社・仏事などの三代の格式全部を集めた「類聚三代格(平安時代の法令集)」が使われた。
12 870 26才:対策(注1)に合格し、正六位になる。

注1)対策(たいしゃく、たいさく):官吏採用の論文の試験で、漢文の作文を提出する試験。
13 871 27才:玄蕃助に任ぜらる。少内記に任ぜられた。

注1)玄蕃助:玄蕃寮の長官の補佐役。
注2)玄蕃寮:律令制で、治部省に属し、仏寺や僧尼の名籍、外国使節の接待・送迎をつかさどった役所。
注3)小内記:令制の中務省の職員で大内記・中内記の補佐役。
16 874 30才:従五位下、兵部少輔に任ぜられた。
この頃、島田宣来子を妻に迎えた。


注1)兵部省:律令制の八省の一つで、軍政や武官の考課・選叙・訓練、兵馬・兵器などを司る。
元慶元 877 陽成 33才:式部少輔に任ぜらる。文章博士となり、最高の栄進を遂げた。

注1)博士:官名で、大学寮に紀伝(文章)・明経・明法・算・音・書、陰陽寮に陰陽・暦・天文・漏刻、典薬寮に医・針・按摩などの博士があって、それぞれ学業を教え、登用試験などを司る。
879 39才:従五位上に叙さる、藤原基経らが「文徳実録」を作り天皇の奉すにあたり、道真がその序を書いた。
仁和2 886 光孝 42才:讃岐守に任ぜられ、讃岐国へ赴任し、善政を行い住民に慕われた。
寛平2 890 宇多 46才:帰京。
891 47才:蔵人頭の役につく。式部少輔に任ぜらる。
892 48才:従四位下に叙さる。「三代実録」の撰修を任される。
893 49才:参議に任じ式部大輔を兼ねる。左大弁に転じ、勘解由長官・春宮亮を兼ねる。
894 50才:遣唐大使に任ぜらるが、唐の国情不安と文化の衰退を理由に遣唐使停止を建議し、中国へは行かなかった。侍従を兼ねる。
895 51才:近江守を兼ねる。従三位に叙し、中納言に任ず、春宮権大夫を兼ねる。
896 52才:民部卿を兼ねる。
897 醍醐 53才:権大納言に任ぜられ、右近衛大将を兼ねる。正三位に叙され、中宮大夫を兼ねる。
昌泰2 899 55才:右大臣に任ぜらる。従五位下を授かる。
900 56才:「菅家文草」「菅相公集」「菅家集」を献上。
延喜元 901 57才:従二位に叙さる。大宰権帥に左遷される。配流に近い生活で、窮迫の日々を送る。
903 59才:2月25日大宰府で没。享年58才。
助 郷
 (すけごう)
宿駅常備の伝馬・人足が不足したするときに、応援の人馬を負担する近隣の郷村の制度。
狩 衣
 (かりぎぬ、かりごろも)
布 衣
 (ほい)
水 干
 (すいかん)
半 尻
 (はんじり)
狩衣:古くは狩などのときに着られ、平安時代には公家が常用した略服。衿はまるえり(盤領)で、脇は縫わずに、袖を紐でしばる。袴は紐で裾口をしばるくくり袴(括袴)。
江戸時代には、文様のないものを布衣、文様あるものを狩衣とした。色はきまっていないが、神事で着る白色のものを浄衣という。
布衣:無文の裏無の狩衣。下級官僚や一般農民、庶民など下地の普段着であった。
水干:古くは庶民が日常的に着ていたが、のちに公卿の私服、元服前の少年の晴着、摂家・清華家の平服として着られた。動きやすさから武士の愛好者も多く、鎌倉時代には礼装として着た。
半尻:狩衣の後部が約一尺短いもので、小狩衣ともいう。のちに年少者用、公家や武家の子供などの童装束になった。
水魚の交わり
 (すいぎょのまじわり)
「蜀志」(諸葛亮伝)。劉備が諸葛孔明と自分との間柄をたとえた言葉で水と魚のように切り離せない関係、非常に親密な交友をいう。
筋違紋
 (すじかいもん)
違棒紋・直違紋ともいい丹羽長秀の家紋。家紋研究家の丹羽基二は、この紋を日本の三大呪符紋のマイナスの呪符紋とし、「災いが起きないよう、来るな」の禁止紋としている。
古代では、死人が出ると直違いで住居を封じ別の住居へ移る事例があり、江戸時代には閉門・謹慎の処分を受けた武家は、門前に青竹を×型に組んで人の出入りを禁じた。現在でも、北陸・東北地方の一部には、死者の出た家で青竹を家の前に立てる風習がある。
このように、直違いは、死者の霊を封じ、外との交流を断つ呪術性があったとされ、その呪術性から、武家が戦場の旗印に使い、やがて家紋にも使われるようになったとする説もある。
絵は、福島県二本松市二本松神社の社紋。
違棒紋
素戔嗚尊(日本書紀)
須佐之男命(古事記)
 (すさのおのみこと)

建速須佐之男命
 (たけはやすさのおの
  みこと)
記紀神話の男神。伊弉諾尊の子で、天照大神は姉。性格が凶暴で、天の岩屋戸の事件を起し、高天原から追放された。その他にも多くの罪を犯し、平安時代の延喜式祝詞の6・12月の大祓詞に「天津罪」として書かれている。その罪は、「畔放ち(あなはち)、溝埋み、樋放ち(ひはなち)、頻蒔き(しまき)、櫛刺し、生け剥ぎ、逆剥ぎ(さかはぎ)、屎戸(くそへ)」で、田植えの障害になるものとされている。
出雲国で八俣之大蛇(八岐大蛇)を退治し天敢雲剣を手に入れ、天照大御神への服従の意を込め献上した。剣は、三種の神器の一器となっている。
御霊信仰において、御霊会で退治できない御霊神を、素戔嗚尊の強力な霊力で封じ込めてもらうことにより御霊が素戔嗚尊のまわりに集まってくるために、荒ぶる神であり、恐ろしい神とされる。しかし同時に、これらの社会に祟り、災害をもたらす御霊を引き受けてくれるありがたい神である。
インドの祇園精舎の守護神である忿怒相をした鬼神の牛頭天王と素戔嗚尊信仰が結びつき、牛頭天王と素戔嗚尊は、本地垂迹の関係で、一体の神仏と信じられるようになった。このことから、祇園御霊会(祇園祭)を天王祭といわれる。
須賀の宮で
奇稲田姫と結婚したが、その次に大山津見神の娘の神大市比売命(かむおおいちひものみこと)と結ばれた。
少彦名命
 (すくなびこなのみこと)
大国主命と国造り、国土の経営にあたった。
Page Last Updated 2006.10.25
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