| 名 前 |
説 明 |
| 山 車 (だし) |
「出し物」の意で、神の依代(よりしろ)として突き出した飾りに由来するという。 祭礼の時、種々の飾り物などをして引き出す車。他に「“山”から石や木材を搬出するための車として発生した」とする説もある。
宛字は、車楽、楽車、出車、花車、鉾、壇尻、出しなど多い。
〔 ガイダンス→屋台の色々〕 |
−一本柱山車
(いっぽんばしら だし)
−柱仕立繰出型式山車
−四本柱山車
(しほんばしら だし)
−枠仕立型式山車 |
一本柱山車は柱仕立繰出型式山車ともいい、古いタイプの山車で左絵のように、台輪部に立てた一本の柱に、人形や高欄などを組み付ける。
これに対し、四本柱山車は枠仕立型式山車ともいい、三代目原舟月が作ったとされ、右絵のように、四本柱の枠を組み、それに人形や高欄を組み付けたもので、一般に場面により全高を低くするために四本柱の枠を複数にして、人形や枠を紐などで上下できるようにしたもので、江戸型山車がこれにあたる。 |
−岩組型山車
(いわぐみがた だし)〕 |
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−江戸型山車
(えどがた だし)
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山車の最上層に載せた人形とその下の枠(上段、人形座、中段)が上下する「人形・枠上下型」山車。
この型の基本構造は、いわゆる江戸型山車で、江戸時代「天下祭」に曳き出され、江戸城中に繰り込み、時の将軍の上覧に浴した。このとき城門を通過するために何層かの可動構造になっており、最上段の人形、その下の枠(中段、四方幕など)が、その下の部分に、収納出来るようになっている。
江戸の山車は、天保9年(1838年)には、参加160町、総数45台という記録があり、これらの山車の多くは、明治に入り、将軍の加護がなくなり維持管理などの費用に窮したことや明治末期の電線の架設などにより、関東地方の町に売られたり、廃棄されたりした。その後残っていたものも、関東大震災や戦火でその姿を消した。
したがってこの型の山車は、東京には江戸時代から伝わっているものはないが、復元されたり、地方に残っているものや同じような構造で作られたものであり、主に北関東に多い。
人形・枠が上下する以外の構造は、違いが多く、極端には、1台1台が違う。外観上の主な違いはつぎのとおりである。
G車輪:2、3、4輪
G旋回:心棒で廻る、センターピボット式、補助輪で廻る、無理矢理廻す
G車体:2段目以上が回転する、1段目以上が回転する、回転しない
G羽隠し(車輪隠し):腰幕、腰板
G囃子座上部:欄間仕立て、唐破風造りの屋根が付いている、なにもない
G層数:3層、4層
〔 ガイダンス→屋台の色々〕 |
−諌鼓鳥山車
(かんこどり だし)
(太鼓鶏の山車、
鶏太鼓の山車) |
古代中国において、天子を諫めよう(いさめる)とする人たちに打たせるために、宮廷の門外に設けたという鼓を「諌鼓」といい、「諌鼓鳥」とは、その諌鼓が打ち鳴らされることがなく、即ち天下泰平であるため、鳥が留まることから出た言葉とされている。
このことから天下泰平であって欲しいとの願いをこめて、全国的に祭りの山車に「諌鼓」の上に鳥を配した諌鼓鳥の山車がでる。鳥は鳳凰ではなく、一般的に「にわとり」風の鳥が多い。太鼓は叩かれることはない。
天下祭りが行われていた頃の寛政四年(1792)〜文久二年(1862)の「神田御祭礼番附」や「山王御祭礼付祭番附」には、必ず山車の一番に大伝馬町の「諌鼓鳥山車」が載っており、二番の「猿」の南伝馬町とともに山王祭、神田祭、根津祭にセットで参加していたとされる。山王祭には五彩色の鳥(鶏)を神田祭には白鳥(鶏)を出していた。現在の東京の神幸祭では、天下祭りに見られるような大きなものではないが、諌鼓鳥山車が巡行する神幸祭が多い。
〔 ガイダンス→屋台の色々〕 |
−三重鉾台山車
(さんじゅうほこだいだし) |
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−せいご台付き山車
(せいごだいつき だし) |
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| −名古屋系山車 |
上下する小さめの屋根を4本の柱で支え(屋根屋台)、からくり人形を載せている。名古屋系の発展型として、犬山型、大垣型、竹鼻型、知立型、半田型、また名古屋系と京都系の折衷型とされる屋台と呼ばれる高山型などがある。
〔 屋台祭→静岡・愛知・岐阜→名古屋市出来町・筒井町天王祭〕 |
−人形山車
(にんぎょうだし) |
一般に、最上層に人形が載った山車をいう。人形は上下したり、伸縮したりなどのからくりが施されている。人形が固定されて動かないものもある。
〔 ガイダンス→屋台の色々〕 |
−旗型山車
(はたがた だし)〕 |
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−囃子台天幕型山車
(はやしだいてんまく
がただし) |
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−囃子台欄間型山車
(はやしだいらんま
がただし)〕 |
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−吹貫型山車
(ふきぬきがただし)〕 |
元禄時代から享保時代(1688〜1736)に全盛期の型式で、半数以上がこの型式の祭りもあった。
一般に、2輪の台車の中央に一本の柱を立て、吹貫と頂上に鶏、猿や二股大根などを飾り、牛に曳かせた。 |
−船型山車
(ふながただし)
−お船 |
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−鉾台型山車
(ほこだいがただし) |
中央に1本の柱を立て、その周囲を四角、円形にして幕などで囲い、上部に飾り物を置いた。2輪台車で牛が曳いた。 |
−万燈型山車
(まんどうがただし) |
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−屋根付鉾台型山車
(やねつきほこだい
がただし) |
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−太鼓台
(たいこだい) |
最上段に太鼓を乗せた山車。 |
| −花車 (だし) |
武蔵野と呼ばれる生花を盛っただしで、本来の山車が焼失し、次の祭りまでに再興できない場合などにまにあわせとして巡行した。 |
| −地車・車楽・桜車・檀尻・台尻 (だんじり) |
関西・西日本の祭礼の曳物。太鼓をのせ、車輪をつけて引いたり、かついだりして練って行くもの。東京地方の山車・屋台に同じ。
一般に、山車の関西地方の方言との説が多く、村田了阿の「俚言集賢」では、「ダンジリ、江戸にて祭の山車のこと、上方中国辺ダンジリと云、また台尻ともいへり。大阪にて町方にて車に曳かす作り物を壇尻といふ。尾張島津の舟祭に台尻と呼ぶが転じて用ゐしを傚ひなるべし。ダイジリの天下祭ダンジリなることは恐らく偽りなかろう」
右絵は、大阪市西淀川区姫島の地車。
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| 武蔵野・花篭 |
江戸で山車が焼失し、次の山車が新調できなかった場合などに、生花を盛った花車で代用し武蔵野・花篭と呼んだ。 − |
山車人形
(だしにんぎょう) |
主に山車の最上層に置かれる人形をいう。最上部に人形が載った山車を「人形山車」という。
人形山車の人形の主な題材は、次のものが多いとされる。
@ 民俗・土俗信仰、伝承にちなんだもの。
A 「日本書紀」、「古事記」に登場する神々や英雄。
B 中国の英雄・豪傑。
C 山車を所有する町に因んだもの。
また、人形の衣裳・装束や表現は、徳川幕府の式学(儀式に用いる雅楽や舞などの楽で、主として江戸幕府における能楽を指す)であった“能”の影響を受けたものが多いとされる。
〔 ガイダンス→屋台の色々〕 |
山車・人形の製作者
人形師 |
山車の製作職人は、人形師、衣装師、幕房師、塗師、木地師、錺金具師(かざりかなぐ)、彫刻師、車師など多くの職種が必要である。それらの職人を束ねる請負人を、関東地区の場合一般に人形師が行った。江戸時代幕末の「明治人形師名簿」が残っており、それによれば主な人形師だけでも30以上が載っているとされる。中でも主な職人は、つぎのとおりである。
〔 ガイダンス→人形師の作品〕 |
−鶴雲斎亀作
(俗称:小倉作兵衛、
だし亀) |
江戸山車の創始者といわれ、江戸山車と共に歩んだ16代続いた家柄といわれる。しかし、作者としてハッキリしている山車は少ないとされる。 |
−鼠屋五兵衛
(武岡豊前
、豊斎、武善
、福田万吉) |
十代も続いた名家で、特に人形の頭に優れた技量を発揮し、仲間内からの依頼も多かった。川越まつりの「志多町:弁慶・草刈童子」、「連雀町:太田道灌」、また「喜多町:俵藤太秀郷(近年確認された)」、潮来の「四丁目:天乃岩戸」、「五丁目:源三位頼政ぬえ退治」、「大塚野:加藤清正」、千住氷川神社「千住四丁目山車:静御前」も鼠屋五兵衛の作といわれている。鼠屋は、多くの名をなした弟子を抱えていた。また、明治6年(1873)にウィーンで開催された博覧会に、鎌倉大仏の1/2の座像を出品し大好評を博した。 |
−原舟月
(初代:金五郎
二代:金太郎
三代:古今斎
、金太郎) |
初代は、泉州堺の出身。最初は、通い職人であったが、新しい雛人形を創作し古今雛と称して繁昌した。しかし、仲間の妬みなどから江戸追放となり京都へ移った。
二代目は、江戸の初代の店で修行していたが、初代が京都で没した後、遺骨を谷中妙運寺に葬り、二代目となった。
二代目の一人息子が三代目となり、天性の名人とはやされた。現在関東に残る三代目の作品(山車・人形)は、名品揃いである。
作品は、栃木秋まつり、本庄まつり、川越まつり、住吉神社青梅大祭などの山車に多く残っている。
原舟月の墓がある谷中六丁目の妙雲寺は、谷中霊園の近くの道路から奥まったところにある。
墓は、人形師としての代々の名声の大きさに比べて高さ約60〜70cmの小さな墓である。
正面には、「原舟月先祖代〃」、原舟月の戒名「妙 法舟月真海居士」 寛政三亥年九月九日 の他に三名の戒名が彫られている。二代目もこの墓に入っているが、二代目の一人息子の名人三代目は入っていないとされる。
墓は、二代目がつくったが、当時、経済的に困窮しており、無縁墓の石を流用してつくったとされ、確かに「舟月墓」と彫られた台座の裏側は他人の名前が逆さまになって残っている。
住職は、訪れる人は少ないといっており、墓地の掃除は行き届いているが、花などが供された形跡はない。 |
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−仲秀英
(法橋都梁斎) |
原舟月に劣らぬ山車造りの名人であった。二代目は初代より名人といわれ、川越まつりの元町二丁目:山王猿、幸町:翁、今成町:天細女命、松江町二丁目:浦島、六軒町:三番叟、大手町:天細女命、住吉神社青梅大祭の森下町:日本武尊、宮本町:神宮皇后など残っている作品は多い。 |
| −古川長延 (泰精斎) |
仲秀英に13歳で弟子入りし、10年の年期があけて仲秀真の名前を貰い自分の店を持ったが、作風が師匠に似ておりなおかつ評判がよかったため、師匠の妬みを買い、貰った名前を捨てた。作品は、神田須田町山車・関羽雲長、入谷町・静御前、上野町・経基、初音町・二柱の神、潮来の「八丁目:静御前」、佐原の大祭・秋祭りの「源頼義」など多い。 |
−浪花屋七郎兵衛
(だし七、庄田七郎兵衛) |
G本名庄田七郎兵衛は、元治元年(1864〜1956)生まれで浅草茅場町で三代続いた江戸型山車専門の職人であった。修理・貸出しも行い、第六天榊神社御祭禮、鳥越まつり、三社祭など山車を持っていない町へ貸し出していた。明治時代には、山車の製作の注文を受けると、人形の頭は鼠屋五兵衛、胴は篭徳などの専門の職人へ発注し、浪花屋がまとめた。浪花屋は、製作者というより、スーパバイザーといったところだろうか。東京に山車がなくなってからは、山車製作は廃業した。
G庄田七郎兵衛の縁者のはなし。(2003年)
庄田・内田の経緯を知る女性が5〜6年前に亡くなり、詳細は不明とのことであるが、庄田家の本家は途絶え、分家と思われる縁者が今でも浅草橋で内田武雄商店の名前で紐を商っている。以前は造花を造って販売していたが型がなくなったため紐の商いに替えた。庄田と内田の名前の違いなどわからない。庄田七郎兵衛ゆかりの品などはいっさいない。
G浪花屋七郎兵の作品は、本庄まつりの台町:素盞鳴尊&石橋照若町:桃太郎&本町:石橋、三熊野神社大祭:ち組:須佐之男命など。
庄田と内田の関係はハッキリしないが、東浅草バス停から隅田川方向へ入った台東区今戸の一寸八分正観世音菩薩で名の知られた日蓮宗・深榮山長昌寺に庄田七郎兵衛が入っているとされる墓がある。墓は内田武雄商店のもので、墓標は「
内田之墓 」 となっている。住職の話では、戦災以前の過去帳が残っておらず古いことはわからないという。
本家・分家の話が本当だとしたら、庄田七郎兵衛はこの墓に入っていないと思われる。 |
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| −安本亀八 |
松本喜三郎の弟子。活人形の亀八といわれ一生を風靡した。特に役者人形の出来に優れていたが、作品は残っていない。 |
| −松雲斎徳山 |
本名は永窪倉次郎、日本橋本石町十軒店、浅草三筋町などに居住した。明治26年編纂の「東京諸営業員録」に載る人形師。残っている作品は、栃木秋まつりの倭町三丁目:静御前、青梅大祭の仲町:静御前(改造前の山車)、宮本町:神宮皇后の天冠がある。これらの山車は、日本橋の瀬戸物町、伊勢町、小田原町が持っていた山車であった。 |
| −松本喜三郎 |
活人形の開祖ともいわれる熊本出身の人形師。現存の人形は、桐生市で発見された素戔嗚尊を含め3体といわれている。 |
| −山本鉄之 (だし鉄) |
四代続いた山車人形師で、高崎市の楠木正成、源為朝、藤原定家、小鍛冶が残っている。 |
| −山本福松 |
菊人形の頭を作っていたが、浅草花屋敷の人形展などに刺激され、活人形の安本亀八、初代平田郷陽らをライバルに技を競った。だし鉄の人形の頭はほとんど山本福松のものといわれている。 |
| −村田政親 (宮惣) |
宮惣の名前で代々神輿の名作が多い。三代目は、成田祇園祭の仲之町の山車:神武天皇を明治34年に、明治35年に本町の山車:藤原の秀郷を作っている。四代目は神田松枝町:羽衣の山車、築地四丁目:桃太郎の山車、曳太鼓などを作っている。また、五代目は、成田祇園祭の成田山交道会の山車:日本武尊を昭和59年から3年間かけて作り、東京江戸博物館の神田須田町の山車:関羽を作った。 |
−面六
(初代:田口録三郎、
二代:田口百太郎、
三代:田口俊秀、
四代:田口義男、
五代:岡本央雄) |
初代は、彰義隊士の田口録三郎で生来の手先の器用さから菊人形の頭を作り始めた。佐原の大祭・秋祭りの新上川岸:牛天神は二代目・三代目の作。現在も五代目が菊人形の頭、山車人形の修理などを続けている。 |
| −後藤直光 |
行徳の神輿師。小舟町八雲神社、山王祭・八丁堀四丁目東町会、三鷹八幡大神社、品川区五反田氷川神社、深川神明宮の神輿、室町一丁目町会・龍神山車、我孫子・八坂神社舞台屋台など多くの作品がある。 |
| −その他の人形師 |
大柴徳次郎、桃桝軒玉山、横山友治郎、平田郷陽、自々斎粂一舟、人仙、岩科万燈、だし重、玉村、矢吹健二、だし徳、だし市、花増、西田光治、松雲斎三峯、武村栄太郎など |
| 出し物 |
附祭の踊り屋台・地走し踊、練物など。 |
| 台 輪 (だいわ) |
屋台・山車の車軸が付く部材、いわゆる、シャーシをいう。せいご台・井桁台と同意語。 |
| 高御座 (たかみくら) |
天皇の玉座で、平安時代以来、大極殿または紫宸殿に安置し、即位・朝賀・蕃客引見などの大礼に使われた。今でも即位の礼に使われる。3層の黒塗継壇の上に神輿のような八角形の黒塗屋形を据え、大鳳・小鳳・鏡・御座(椅子)などを飾った構造になっている。 |
| 太平楽 |
唐楽を伴奏とする左方武舞の代表的な演目の雅楽。おめでたい舞として天皇即位式に万歳楽(まんざいらく)と共に必ず奏された。曲は、道行は朝小子、破は武昌楽、急は合歓塩の三曲からなる序破急の合成曲。
甲冑姿で鉾、続いて太刀を手にして舞う舞楽中で最も豪華な装束や持物を使う。 |
| 玉井 (たまのい) |
観世信光作の能の一つ。彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと、瓊々杵尊と木花開耶姫の子)が釣針を求めて海神の宮へ行き、玉の井戸のほとりで豊玉姫(海神の娘)と結婚する記紀の神話を脚色したもの。 |
| 高 砂 |
世阿弥作の神物の一つで、能といえば高砂ともいう。住吉(すみのえ)の松と高砂の松が夫婦であるという伝説を素材とし、天下泰平を祝福する、婚礼の祝賀や正月などの能として有名。上野東照宮、日枝神社、明治神宮などでは、正月に神事として謡い初めをする。
能の高砂には、小尉の面を付けた男、額に三本の皺がある姥の面を付けた女の老夫婦。男は、縁起物の相生の松をかき集める竹杷を持つ。女は、厄を祓い、福を掃き寄せる杉箒を持つ。
背景には、相生の松と真っ赤な太陽が置かれる。 |
谷口 与鹿
(たにぐち よろく) |
| 文政5年(1822)〜元治元年(1864) 。代々大工の棟梁の3代目の父親の谷口延儔の次男。延儔は、従五位下永代権守に任ぜられ、江戸時代末期から明治時代に飛騨で活躍した大工の水間相模守や飛騨一刀彫りの松田亮長などとともに祭屋台の彫刻に腕を振るった。与鹿は、より優秀な腕を持ち一段とその名を高めた。代表作には、高山祭の琴高台・鯉、麒麟台・唐子群遊(右絵)、恵比寿台・手長足長などがある。 |
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| 立版古 (たてばんこ) |
起し絵とも呼ばれ、上方では、「組み上げ燈籠」、「切り組み燈籠」、「組み上げ(絵)」などとも呼ばれた。版古は、版行・板行の意味で、錦絵や摺物などを指す言葉で紙に刷られた絵を切り抜いて灯籠や歌舞伎の名場面、神社・仏閣などを組み立てる「おもちゃ絵」の一種で江戸時代に流行った。北斎も富嶽三十六景の神奈川沖浪裏なども手がけた。
祭り関係では、祭りの町並みや山車や神輿などがある。
右絵は、神田神社発行「神田祭明神資料集」付録の「堅大工町・山車」の立版古。 |
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奪衣婆・脱衣婆
(だつえば) |
三途の川のほとりに立つ衣領樹(えりょうじゅ)の周りに奪衣婆(だつえば)と懸衣翁(けんえおう)という姥と翁の鬼がおり、奪衣婆は三途の川の渡し賃(六文銭)を持たない亡者から、その衣服を剥ぎ取り、懸衣翁にわたす。懸衣翁はその衣服を衣領樹の枝に引っ掛へ、その垂れ方から亡者の生前の罪を計という。
一般に閻魔大王と祀る寺院が多いが、衣領樹をおんばさまなどとも呼び、安産の神などとして道ばたなどに単独で祀ることもある。 |
武内宿禰・(竹内宿禰)
(たけのうちすくね) |
古事記に、300年以上も生き、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の五代の天皇に244年間仕えたとされている。神功皇后の新羅攻略を補佐、景行天皇の時代の蝦夷地視察、応神天皇誕生後の籠坂・忍熊王子の叛乱討伐など功績が多い。
また、霊媒者として能力を持ち、日本書紀によれば、神功皇后が神田に溝を掘るときに邪魔になった大きな岩を、竹内宿禰が祈ると雷が落ち岩を打ち砕いたという。
葛城・巨勢・平群・紀・蘇我は、子孫とされている。
延命長寿、武運長久、厄除けの神。
山車の武内宿禰の人形は、潮満珠を海へ投げようとする場面が多い。
・潮満珠は、潮干珠とともに、兄火照命を懲らしめるため、綿津見の神が弟火遠理命に授けた二つの玉。
・潮満珠・潮盈珠(しおみつのたま、しおみつたま):海水につければ水を満ちさせる呪力があるという珠。
・潮干珠・潮乾珠(しおひのたま、しおひたま):海水につければ水を引かせる呪力があるという珠。
・綿津見の神:海の守護神を祀る海神社(神戸市)や志賀海神社(福岡県)の祭神と祀られている、底津綿津見神、中津綿津見神、上津綿津見神の海神三神をいう。 |
高皇産霊神・高御産巣日神
高御産日神・高御魂神
(たかみむすひのかみ)
高木神 (たかぎのかみ) |
記紀神話の男神。天地開闢で最初の天之御中主神と、高御産巣日神と神産巣日神が高天原に降り立ち、この三神を日本神話の根元神・造化三神としている。
5別天神の一柱。天照大神ともに高天原で重大事を主宰する。 |
建速須佐之男命
(たけはやすさのおのみこと)
素戔嗚尊(日本書紀)
須佐之男命(古事記)
(すさのおのみこと) |
記紀神話の男神。伊弉諾尊の子で、天照大神は姉。性格が凶暴で、天の岩屋戸の事件を起し、高天原から追放された。出雲国で八俣之大蛇(八岐大蛇)を退治し天敢雲剣を手に入れ、天照大御神への服従の意を込め献上した。剣は、三種の神器の一器となっている。
御霊信仰において、御霊会で退治できない御霊神を、素戔嗚尊の強力な霊力で封じ込めてもらうことにより御霊が素戔嗚尊のまわりに集まってくるために、荒ぶる神であり、恐ろしい神とされる。しかし同時に、これらの社会に祟り、災害をもたらす御霊を引き受けてくれるありがたい神である。インドの祇園精舎の守護神である忿怒相をした鬼神の牛頭天王と素戔嗚尊信仰が結びつき、牛頭天王と素戔嗚尊は、本地垂迹の関係で、一体の神仏と信じられるようになった。このことから、祇園御霊会(祇園祭)を天王祭といわれる。 |
玉依毘売命・玉依姫尊
(たまよりひめのみこと) |
神武天皇の母。火照命(海神)の娘で、豊玉毘売命は姉。
姉の豊玉毘売命が子供を出産したときに竜(また、八尋鰐)に化していたところを、夫の山幸彦(火遠理命)に見られたことを恥ずかしく思い、子供を玉依姫命に養育を託した。記紀によれば、子供はうが草葺不合尊で、玉依姫命と結婚したとされる。
玉依毘売命の“ 玉依 ”の玉は神霊、依は人間に憑く(つく)ことで、神霊が憑いた姫、すなわち、巫女をいう。 |
大黒天・大国天
・だいこくさま |
インドのヒンドゥー教のマカカラ(大黒天)を起源とする神で、仏教では帝釈天・多門天などと天部に属する仏とされている。マカカラとは “ 大きな黒い者
” との意味で、暗黒の中に住み死を司り、全てのものを破壊し、またシバ神の化身とする説もあり、恐れられている神である。
大黒天は、仏教の移り変わりと共に戦闘神、あるいは、まったく別の食厨の神となり、中国から日本へ入ってきた。そして、日本古来の大国主命と単に「大黒」と「大国」の音が同じということだけで混同され、篤い信仰を得るようになった。
一般に大黒天像は、大黒頭巾をかぶり、左肩に袋を負い、右手に打手の如意宝珠の模様が描かれた小槌(古くは宝棒)を持ち、米俵の上に座る。
今でもインドではシバ神と同じように性的性格の神で、像は男根(リンガ)の形が多い。日本でも備前焼の大黒天は、背面は男性性器に見えるように作ってあるという。また、大国主命の別名の大物主は巨根の持ち主、大穴牟遅は多くの穴
(膣)、すなはち、多くの妻を持てるとする説もある。また、大黒天の持つ袋は子宮、小槌は陰茎で、男女の和合を表現しているとの説もある。
大黒天は五穀豊穣の神とされ、米を食べる鼠が使いとされている。寺院の大黒天は、三面大国天が多く、仏教の守り神である、正面は大黒天、右は弁財天、左は毘沙門天になっているものが多い。
ご利益は、恵比寿神とともに福の神として商家・農家などで2体揃って祀ることが多い。また、出世開運、財富招来、金運良好、資産増加、厨房守護、子孫繁栄など多い。
〔 伝統行事・民俗芸能→七福神〕 |
建御名方神・南方刀美命
御名方富命・建御名方富命
(たけみなかたのかみ) |
諏訪神社上社が祀る男神。大国主命の子で事代主神の弟。古事記によれば、大国主命が天照大神から地上の国の統治権の禅譲を命令された国譲りの交渉で天降った経津主神と建御雷神は、大国主命の子の一人である事代主神から譲る意志を示されたが、大国主命はもう一人の子である建御名方命の意見も聞いて貰いたいといった。そこへ建御名方命が1000人でも持ち上げられない大石(千引石)を軽々と持って来た。そして力くらべで決めようと提案し、建御雷神の手をつかんだところ建御雷神の手は氷柱になり、次いで剣刃に変わった。驚いて引いた建御名方命の手を建御雷神が握ると葦のように柔らかくなっていた。結局、国譲りに抵抗しきれなく出雲を出て信濃国諏訪湖のほとりへ行き、諏訪大社の祭神となった。武神としての信仰が篤い。
八坂刀売命は建御名方神の妃神。 |
天之手力雄命
天手力男命・手力男之命
(たぢからおのみこと・
あまのたぢからおのみこと) |
手の力の強い神の意味で、天照大神が須佐之男命の暴乱に怒り天の岩屋に籠もったとき、岩戸を開いて天照大神を出した大力の神。天孫の降臨にも従追従して、中津原に下った。長野県の戸隠奥社の他に奉っている神社は少ない。 |
武甕槌大神(命)・建甕槌神
・建御雷之男神・建御雷神
・建布都神・豊布都神
(たけみかづちのおおかみ) |
鹿島神宮・春日大社に祀る神で、伊奘諾尊が迦具土神・火の神を斬ったときに、その血から生まれた神々の一柱。天孫降臨に先立ち天照大神の命令で経津主命と一緒に出雲国に下り、大国主命を説いて、その子の建御名方神を屈服させて国土を奉還させた。そして、神々を鎮撫し、高天原へ帰って報告し、天孫降臨の道を開いた。また、神武天皇が東征したときに、高倉下の夢枕に現れ、神武天皇の危機を救った。宇宙の陰陽の原始の頃の神といわれている。刀剣の神。 |
多紀理比売命
(たぎりひめのみこと)
多岐都比売命
(たぎつひめのみこと) |
宗像三神(むなかたさんしん)の一柱。 |
田心姫神
(たごりひめかみ)
湍津姫神
(たぎつひめかみ) |
宗像三神(むなかたさんしん)の一柱。 |
咤枳尼真天
(だきにしんてん)
咤枳尼天 (だきにてん) |
豊川稲荷は、千手観世音菩薩を本尊として祀る曹洞宗豊川閣妙厳寺の一隅に鎮守としてインド密教の鬼神のダーキニー・豊川咤枳尼真天を祀る鎮守堂をいう。豊川咤枳尼真天は、稲穂を荷い、剣と宝珠を持ち白狐にまたがった天女として描かれている。
咤枳尼真天は、茶吉尼天・茶枳尼天(だきにてん)との関係はわからないが、同一との説もあり、茶吉尼天は浅草伝法院の裏にある大使鎮護堂に祀られる狸神との説もある。
また、茶吉尼天は、中国では美しい女人が野干という狐に似た動物に乗った姿として描かれていたのが日本へ入り、もともとあった妖狐信仰・狐蠱信仰と結びつき茶吉尼天信仰となったとの説もある。この茶吉尼天の呪法は、呪法の中でもっとも強力な力を持つとされ、この呪力を独占しようとした支配者もあり、邪法として自分以外の利用を厳しく禁止した。
後に、真言宗東寺系の高僧等は、この法を王法を守護する法として、天皇が即位するときに修する天皇潅頂の法(輪王潅頂)・金輪の法の中に取り入れ、秘法中の秘法とした。この東寺の鎮守神が稲荷神であったことと、稲荷信仰の使役神が結びつき稲荷信仰が生まれたとの説もある。
インド密教のダーキニーは、人の肝を食う魔女だったが、大黒天に姿を変えた大日如来にさとされて、寿命の来た人の肝だけを食うようになった。そこから人の命運を見分けたり、寿命を延ばしてもらえる力を持つ神として信仰されるようになり、平安末期頃からは狐の精と考えられるようにもなったとの説もある。また、穀物の神で稲荷神社に祀られる宇迦之御魂と同一視される説もある。 |
栲幡千々姫命
(たくはたちぢひめのみこと)
栲幡千々媛
(たくはたちぢひめ)
万幡豊秋津師比売命
(よろずはたとよあきつひめのみこと) |
高木神の女で、天之忍穂耳命と婚姻して天火明命と日子番邇邇芸命を生んだ。 |
武三熊大人命
(たけみくまうしのみこと) |
天穂日命((あめのほひのみこと))の子。
滋賀県・日野町・馬見岡綿向神社(うまみおかわたむきじんじゃ)の祭神。 |
大日如来
(だいにちにょらい) |
梵名:マハー・ヴァイローチャナ。密教で、宇宙そのものと一体と考えられる汎神論的な如来(法身仏)の一尊。その光明が遍く照らすところから遍照、または大日という。三昧耶形は、金剛界曼荼羅では宝塔、胎蔵曼荼羅では五輪塔。種子(種字)は、金剛界曼荼羅ではバン(vaM)、胎蔵曼荼羅ではアーク(aaH)またはア(a)という。
成田山新勝寺の本尊・不動明王は、密教の根本尊である大日如来の化身、あるいは、その内証(内心の決意)を表現したものと見なされている。 |
建比良鳥命(たけひらとりのみこと、古事記)
武日照命(たけひなてるのみこと、日本書紀)
武夷鳥命 ・天夷鳥命(あめのひなどりのみこと、日本書紀)
天日照命(あめのひなでりのみこと、日本書紀) |
日本神話に登場する神である。
古事記は、天照大神と素戔嗚尊の誓約で、天之菩卑能命の子が建比良鳥命であり、出雲国造・无邪志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・津島県直・遠江国造などの祖神であるとしている。
日本書紀は、崇神天皇の御世60年に、天皇が「武日照命(武夷鳥命・天夷鳥命)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」といったとしている。
また、「出雲国造神賀詞」に、「天夷鳥命に布都怒志命を副へて天降し」という一節があり、神名の「ヒラトリ・ヒナドリ・ヒナテル」は「鄙照(ひなてる)」の意味で、天降って辺鄙な地を平定した神の意味であるとの説がある。
右絵は、武夷鳥命を祀る、埼玉県北葛飾郡鷲宮町の鷲宮神社。 |