祭 辞 典
屋 台 屋台の分類 行燈屋台
・行灯屋台
踊り屋台
・踊屋台
舁山型屋台
舁山・舁き山
-担ぎ屋台
芸能屋台 底抜け屋台
・底抜屋台
彫刻屋台
野州型屋台
花屋台 囃子屋台 幌獅子 舞台屋台 引屋台
・曳屋台
笠 鉾
(かさほこ)
幣 台
(やだい)
山 笠 山 鉾 屋台の屋根 山 姥 矢坪・矢壺
矢 所
山岡 鉄周 香具師 (やし) 柳 文朝 流鏑馬
(やぶさめ)
騎射挟物
(きしゃはさみもの)
矢番え
(やつがえ)

(えびら)
屋根神様 胡 簶 (やなぐい)
山幸彦
(やまさちひこ)
日本武尊
倭建命
八坂刀売命
(やさかとめのみこと)
八意思金命
(やごころおもい
かねのみこと)
     
名 前 説   明
屋 台
 (やたい、やてい)
4輪車で、囃子や所作・歌舞伎などの踊りの歌舞音曲ができるようになっている移動できる屋根の付いた舞台。
“祭りだ!屋台だ!”では、すべての山車・曳山・だんじりなどを総称して“屋台”と呼ぶ。
屋台の分類 屋台は、細部まで見ると1台1台すべて違うといっても言い過ぎでない。これらの分類は色々試みられているが、なかなか難しいようである。中には、祭ごと、地区ごとの屋台にそれぞれ名前を付けている例もあるが、分類するには種類が多くなりすぎるなどがある。
そこで、“祭りだ!屋台だ!”では、人形が最上部に載る山車、多層で屋根が載る屋台などの外観で分類し、人形山車・舞台屋台・屋根屋台・太鼓山車・船型山車・その他型とした。
ガイダンス→屋台の色々〕
行燈屋台・行灯屋台
 (あんどん やたい)
踊り屋台・踊屋台
 (おどり やたい)
宝暦時代(1751~1763)以降に踊り手が乗り、車輪が付いて引かれたり、担がれた屋台をいう。囃子手は、屋根が付いた底が抜けた底抜け屋台の中を歩いて演奏した。踊り屋台と底抜け屋台は、ペアーで巡行した。
飾り屋台・飾屋台
 (かざり やたい)
享保年間(1716~1736)以前の屋台をいい、草花や人形を飾っていたものが多い。 
舁山型屋台
 (かきやまがた やたい)
 舁山・舁き山
 (かきやま)
-担ぎ屋台
車輪がなく、人が担いで巡行する屋台。これに対し、車輪が付いた屋台を曳山という。
京都祗園祭の“やま”も最初は舁山が多かったが、改造して車輪を付けほとんどが曳山になっている。博多祇園山笠の山笠はすべて舁山。
右絵は、鴨川合同祭・大浦の担ぎ屋台で、担ぎ屋台は千葉県南房総に多かったが、担ぐ人手の問題などからどんどん減っているという。
担ぎ屋台
芸能屋台
 (げい やたい)
囃子や所作・歌舞伎などの踊りの歌舞音曲ができるようになっている移動可能な舞台。屋台の別名。
獅子屋台
 (しし やたい)
大唐破風屋根の屋台の前に長い幌を付け、先頭に大きな1~2の獅子頭を付けたもの。
茨城県土浦地域にあり、門付けをしながら巡行する。長い幌は、屋台を道路の中央に置き、方向を変えなくても獅子頭を家の中まで入れることができる。
屋台は、4輪1層で吹き抜けになっており、多くの囃子手が乗る。
獅子屋台
幌獅子
 (ほろしし)
獅子小屋と呼ぶ、2輪の馬車の長柄をはすし、車体の上に屋台を組んだ車に、布の幌を掛ける。幌は約十六反を使い、色で町内がわかるように、各町内で独自の色にしてある。この先端に大きなものは幅60cm以上、重量約20kgの獅子頭を付ける。舞手は、かなりの力仕事で5~6分で交代しながら舞う。
獅子小屋には、大若・小若の囃子連が乗り、大太鼓・小太鼓・笛・鉦などで演奏する。
茨城県石岡地区にあり、石岡のおまつりの神幸祭では29台もの幌獅子が巡行する。
幌獅子
底抜け屋台・底抜屋台
 (そこぬけ やたい)
江戸時代宝暦(1751~1764)から明治にかけて江戸から各地で、一般に踊り屋台とペアーで巡行した。構造は、四本柱に日除けの天幕を張り、床はなく囃子は中で歩きながら演奏する。四人で担いで巡行したが、現在はほとんど車輪付きになっている。また、底抜け屋台に床が付いたものも現れた。
飯能まつりでは、現在も盛んに更新されながら伝えられ、2日間の祭りの初日は多くの底抜け屋台だけが出る祭りになっている。
彫刻屋台
 (ちょうこく やたい)
-野州型屋台
 (やしゅうがた やたい)
大唐破風屋根の鬼板・懸魚はじめ、屋台全体を豪華で精緻な彫刻で飾った1層の屋台。
1層目には舞台はなく、彫刻などで囲われた楽屋になっている。
栃木県の鹿沼市・宇都宮市を中心とした野州路に分布しているため、野州型屋台とも呼ばれる。
花屋台
 (はな やたい)
-花 車
 (はなしゃ・はなぐるま)
造花で飾り付けた屋台をいう。

左絵は、山北町道祖神祭の花車。
右絵は、日光二荒山神社例大祭 弥生祭で、一般に家体(やたい)と呼ばれるが、花屋台と呼ばれることもある。
山北町道祖神祭の花車 日光二荒山神社例大祭 弥生祭の花屋台
囃子屋台
 (はやし やたい)
囃子手を載せ巡行することを主目的にしたもので、トラックに仮装したものから、本格的な屋台まである。
形を定義することはできず、他の呼び方と混在したり、同じ祭りでも人や町内により呼び名が違うことが多い。

左絵のような囃子屋台(山車)は、東京の祭りで、町神輿の先頭を渡御することが多い。
日枝神社・山王まつりで町神輿の先頭を渡御する囃子屋台 花園神社で巡行する囃子屋台
引屋台・引き屋台
 曳屋台・曳き屋台
 (ひき やたい)
千葉県、盛岡市、岐阜県、丹後与謝野町など全国的に、綱で曳く屋台を曳屋台・曳き屋台と呼ぶ祭りがある。
幣 台
 (やだい)
佐原の大祭(祇園祭、秋祭り)の山車の呼び方。
幣台とは、祭礼の際に引く山・鉾・人形・鳥獣・草木などを飾った屋台のことで、神がおり立つ、神の依り来る目標(依代)とされている。
幣台
笠鉾・傘鉾
 (かさほこ)
神座を意味する鉾に曳物として車を付けた祭礼の飾り物のひとつで、大きな傘の上に鉾・長刀・造花などをとりつけたもので、軸を中心に放射状に拡がるように作られている。
右絵は、小鹿野春まつり・新原笠鉾。
秩父夜祭にも2台の笠鉾があるが、笠を付けた状態での巡行ができないため、記念行事などの他は笠を付けない。
屋台の屋根 屋台の屋根の形状は、神社仏閣などの建物の屋根と同じような、唐破風屋根・切妻屋根・入母屋屋根などいろいろある。
ガイダンス→屋台の屋根〕
 (やま)
中国伝来の曳山で、大嘗会(祭)標山が変化したもの。
大嘗祭:天皇が即位後、初めて行う新嘗祭。その年の新穀を献じて自ら天照大神および天神地祇を祀る、一代一度の大祭。祭場を2ヵ所に設け、東(左)を悠紀(ゆき)、西(右)を主基(すき)といい、神に供える新穀はあらかじめ卜定した国郡から奉らせ、当日、天皇はまず悠紀殿、次に主基殿で、神事を行う。
標山:大嘗祭に悠紀(ゆき)・主基(すき)の両国司の列立すべき所を標示する飾り物。山形に作り木綿(ゆう)・榊・日月などをかたどって装飾し、卯の日に斎場から供物とともに大嘗宮へ引く。祇園祭の山鉾のようなもの。
山 笠 (やまがさ) 祭礼の時などに、上に種々の飾り物をのせた笠。山車の一種。 
山 鉾 (やまほこ) 山車の一種。屋台の上に山の形などの造物(ツクリモノ)があって、その上に鉾・薙刀(ナギナタ)などを立てたもの。ほこ、やまとも言う。 
山岡 鉄周
山岡鉄周の碑 山岡鉄舟の戒名:全生庵殿鐵舟高歩大居士
高山陣屋前に立つ鉄周像。 戒名「全生庵殿鐵舟高歩大居士」と刻まれた東京谷中・全生庵の墓石。
・ 山岡鉄周の実父の小野朝右衛門高福は、幕末の剣客であり、また政治家でもあった。高福は、弘化2年(1845)江戸御蔵奉行から第21代飛騨郡代として転任し、嘉永5年(1852)に高山で病死するまでつとめた。在任中、宗門人別帳の形式に流れるのを厳重にしたり、長寿者の表彰、丙午迷信を打破したりした。
・ 鉄周の本名は高歩(たかゆき)、通称 鉄太郎、高福とその後妻の磯(鹿島神官の女)との間の五子として、江戸大川端四軒屋敷に生まれた。後に山岡家へ養子に入るが、10才から18才まで高山の陣屋で生活し文武に励んだと言われている。宗猷寺(注1)に小野夫婦の墓と鉄周の碑がある。
・ 鉄舟は、新影流、樫原流槍術、北辰一刀流を学ぶなど武術を好み、一刀正伝無刀流を興した天才的なセンスを持つ剣の達人であった。
また、幕末から明治を代表する書の達人としても知られている。一方落語界の大看板であった三遊亭円朝の理解者でもあった。
・ 鉄周は、勝海舟、高橋泥舟とともに幕末の三舟として知られ、幕末に活躍した。慶応4年(1868)徳川慶喜が恭順の意を示した勝海舟の手紙を駿府にいる西郷隆盛に届けたところ西郷は鉄舟に5つの条件を出した。
 ①江戸城をあけわたす
 ②城中の兵員をすべて向島に移す
 ③兵器をすべて差し出す
 ④軍艦をすべて引き渡す
 ⑤慶喜を備前藩に預ける
鉄舟は①~④の条件をのみ、これにより江戸が戦火にまみえることなく明治維新は終わった。
・明治の鉄舟は、各地の参事、県知事を歴任し、子爵として明治天皇の側近などを経て明治21年(1889)に胃がんで没した。(1836~1888)
・ 鉄周の墓は、三遊亭円朝の墓もある、三崎坂(台東区谷中)の全生庵(ぜんしょうあん)の本堂の裏手に高さ約2間(3.6m)もある大きな石塔である。この寺は、鉄周が明治13年(1880)に開いた。
 全生庵:臨済宗、境内には谷中大観音もある。三遊亭円朝の幽霊画コレクションが毎年8月に公開される。
・ 山岡鉄舟と禅
 禅では、食事そのものが修行であるとされている。修業僧の食事作法の心得を書いた道元禅師の「赴粥飯法」の冒頭に、道を求めることと食をとることは同じといった趣旨のことが書いてある。浄不浄や、うまいとかまずいとかは、食の本質ではなく、食べる行為そのものに極めなければならない何かがある。
 昔の禅僧のなかには、平然と泥水をすすり、蛆のわいた食事をとるものがいたが、それがしごく当たり前に行じられるとき、浄穢不二はその人の血肉になるといわれている。
 山岡鉄舟は、禅について大居士(注1)の名が高かった。剣の門下生との無礼講で、門下生の一人が大量に吐いた吐瀉物を、鉄周は何食わぬ顔ですすってしまった。それを見た門下の内田宗太郎が驚いて「先生、いったいどうしたのですか」とたずねると、鉄周は「浄穢不二(注2)の修行をしたのだ」といったといわれている。
 鉄周が剣の師匠の浅利又七郎と試合をするが何回やっても勝つことができなかった。そこで、一生懸命参禅して、工夫を凝らしたとき、「剣を交えるとき、目の前に敵なく、剣の下に自分がなく、天地の間をひとり行くような、天をも突く意気」で剣が使えるようになり、再度浅利と試合をしたところ、鉄周の気迫に圧倒され、浅利は剣を交えることなく負けを宣した。鉄周は、参禅により気合いを習得したといわれている。
・ 山岡鉄舟の句の一つ
・ 晴れてよし 曇りてもよし 富士の山 元の姿は変わらざりけれ
・ 辞世の句
 腹痛や苦しきなかに明けがらす
 勝海舟へ贈った辞世
 二竪何因煩此躬 大飲暴食害不空 転苦為楽観自在 生死任天臥蓐中
注1)宗猷寺:高山市の臨済宗の寺。本尊は、釈迦三尊。寛永9年(1632)に金森重頼(長近の孫で高山城第三代城主)と弟の重勝が創建した。山岡鉄周が禅学を修めた。境内に大正13年の十一面観音像(石仏)、本堂脇に三十三観音堂が建つ。

右絵は、高山市宗猷寺境内の山岡 鉄周の実父・小野朝右衛門高福と母の墓。別々に納められている。
山 姥
 (やまんば・やまうば)
坂田金時・坂田公時
鬼女・山母・山姫・山女郎・やまばばともいう。深山に棲み、怪力を発揮したりするという伝説的な女・老女。
各地に色々な伝承がありその一つは、足柄山の金太郎の母であるという。
金太郎・坂田公時は、今昔物語によれば、源頼光が976年に、上総国(千葉県)から上京の折り、相模国足柄山にさしかかると、峻険な山に赤い雲気を見咎めた。俊傑が住んでいるのではないかと渡辺綱を見に行かせたところ、そこには老婆と20才ぐらいの童顔の若者がいた。老婆の話によれば、夢に赤い龍が現れ通じ、生まれたのが金時だとのことであった。頼光は坂田公時と名付けて家臣とし、渡辺綱・ト部季武・碓井貞光とともに頼光の四天王の一人となった。


絵は、足柄山で頼光と金時が出会う場面。
足柄山で頼光と金時が出会う場面
香具師 (やし)

的屋・てきや・テキ屋・街商・大道商人・三寸とも呼ばれ、祭り・縁日・人の集まる行事などの境内・参道・会場に、屋台や店を張り食べ物や玩具などを売ったり、金魚すくい・射的などを商う。
香具師(やし)の語源は、古事記に登場する火の神で、出雲国で出産時に産道を焼いて伊弉冉尊を死に至らしめ、伊弉諾尊に切り刻まれて生まれた火之加具土神(ほのかぐつちのかみ)の加具土が→加具師→香具師” と変化したとの説がある。
三寸は、小さな売台を象徴する売台の長さが1尺3寸の1尺を略していい、その上に品物を載せ、口上を述べて売る大道商人をいう場合が多い。

矢坪・矢壺
 (やつぼ)
矢 所
 (やどころ)
矢の着点、ねらう所。
柳 文朝
 (やなぎぶんちょう)
山梨県都留市で活躍した画家。号は南龍斉。
明和年間(1764~1771)の末から寛政(1789~1800)の頃活躍したとされるが、詳細は不明。2代目文朝は、文化~文政頃の人で。初め狩野派を学び、後柳文朝の門に入り2代目になる。俳優肖像が巧みで錦絵を描く。通称安五郎、人呼んで文康安という。
都留・八朔祭早馬町屋台の中幕「裸馬群像」は、2代目柳文朝とされている。
(出典:都留市図書館HP「都留市の歴史」)
流鏑馬 (やぶさめ)
馬に乗り、鏑矢で長方形の板を串にはさんだ3つの的を次々と射る日本古来の伝統武芸で、平安末期~鎌倉時代に盛んに行われた。鎌倉時代の源頼朝公によって神事として整えられた行事ともいう。現在は、神社で奉納される。 小鹿野春まつりで披露されたの流鏑馬
騎射挟物
 (きしゃはさみもの)
江戸時代に八代将軍徳川吉宗が衰退していた流鏑馬を復興した呼び名で、鎌倉時代の流鏑馬装束に対して、袴の軽装で騎射できるようにしたもので、三騎の流鏑馬のあとに十数人が騎射挟物を行なうことが多い。
矢番え (やつがえ) 流鏑馬で、矢継ぎ早に箙から弓を引くこと。
胡 簶(やなぐい 矢を入れ、腰につけて携帯する道具。奈良時代から使われ、状差し状の狩胡(かりやなぐい)と幅の広い平胡(ひらやなぐい)とがある。また、古製の靫(ゆき)が発展したものを平安時代からは壺胡(つぼやなぐい)といい、公家の儀仗用となった。行列では、女性が手に持って歩く。
 (えびら) 矢を入れて一般に右腰に付ける籠。流鏑馬で、矢継ぎ早に矢番えを行うために右腰に付けた箙の下に向いた矢を左横に引き抜き、弓に矢を番える。騎射挟物は軽装の袴で流鏑馬を行いやすくするため、箙は使わず腰帯に挟んだ矢を抜き取る。
ちなみに、ロビンフットは右肩の上から抜く。
屋根神様
愛知県尾張地方にに多い屋根神様は、古い木造の二階の庇の下などに祀られ、熱田神宮・津島神社・秋葉神社の三柱を祀るのが多い。祀る場所は、町内・組や長屋を単位として1ヵ所祀り、疫病退散・火災除け・病気平癒・商売繁盛・交通安全などをグループ単位で祈願する。
時期的には、幕末頃から祀られ始め、明治から昭和前期にかけて多く祀られ、第二次大戦の頃は軍人の出征にあたっては、屋根神様の前で戦勝祈願や武運長久を祈願したところもある。
現在は、立て直しなどでだんだんと姿を消している。
高山市にも「秋葉様」と呼ぶ、二階の庇の下や右絵のように軒先に祠を祀る。尾張の屋根神様の影響を受けたものであろう。
高山の秋葉様
八坂刀売命
 (妃神、やさかとめのみこと)
建御名方命の妃神。諏訪大社の祭神。神系は詳らかでない。 
日本武尊(日本書紀)
倭建命(古事記)
 (やまとたけるのみこと)
12代景行天皇の80人いたという子の一人で、7尺(2.1m)近い体躯で武勇に秀てていた古代伝説上の英雄。幼名を小碓命(おうすのみこと)という。兄の大碓命(おおうすのみこと)とは双子の兄弟ともいわれている。妻は、弟橘比売(おとたちばなひめ)。
16才で天皇の命を奉じて九州の熊襲建(くまそたけう)兄弟を女装して宴席へ入り刺し殺した。熊襲建兄弟を殺したときに、「建」の字を貰って欲しいといわれ、「倭建命」と名乗ることにしたという。
その後、東国(伊勢、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総、常陸、陸奥)の平定を命じられ、伊勢の叔母の倭比売(やまとひめ)が持っていた天叢雲剣(あめのむらくもつるぎ)を持ち、出かけた。途中、現在の焼津市あたりで土地の役人にだまされ、炎上する草原で焼き殺されるところであったが、持っていた天叢雲剣で草をなぎ倒し、持っていた火打ち石で向かい火焚いて難を逃れた。このことにより、天叢雲剣を草薙剣(くさなぎのつるぎ)と呼ぶことにしたという。その他いろいろあったが無事東国を鎮定したが、帰途、近江伊吹山の神を征そうとして伊吹山の神の祟りにあって病を得、伊勢で没した。素戔嗚尊のような純粋の神と違い、半神半人として描かれ、死後に神に祀られた。
八意思金命(神)
 (やごころおもい
  かねのみこと)
思兼命(神)・思金神
 (おもいかねのみこと)
八意思兼神
 (やごころのかみ)
常世思金命
 (とこよのおもいかねのみこと)
記紀に高御産巣日神の子とされる。思兼は、多くの人々の知恵と思慮を兼ねもつほど知謀にたけたとの意味で、天照大神が天岩屋戸に隠れたときに、その対策を考え、また、国譲りの提案をした神である。
祀る神社は少なく、秩父神社と長野県下伊那郡阿智村・阿智神社、茨城県大子町・静神社が主神としている。
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