2006年05月31日
かの国62
明日は雪か嵐か。
■日韓主張の対立点探る
◆◆竹島問題研中間報告書◆◆
「竹島の日」条例を制定した県が、竹島(韓国名・独島(トクト))問題の啓発のために
昨年6月に設けた「竹島問題研究会」(座長=下條正男・拓殖大教授)の中間報告は、
日韓両政府の主張の整理に主眼を置いた内容だ。今年度内の最終報告というゴール
に向け、折り返し点を迎えた研究会は今後、韓国の研究者との意見交換にも取り組む。
30日の第8回会合を前に、議論のたたき台となる中間報告書の中から日韓の対立点
を拾った。(森 直由)
研究会が22日に澄田信義知事に出した報告書は274ページ。古代〜近世、近世〜近代、
近代〜現代の三つに大きく時代を分け、各時代ごとに両国の対立点を検証している。
◇「竹島でなく別の島」◇
●韓国が領土権を確立したのは竹島?(近世〜近代)
明治政府は1905年1月、竹島を他国が占領した形跡がないと確認して、漁業会社が
小屋を構えていることもあり、閣議決定で日本領(島根県)に編入。これに対して、韓国は
日本よりも5年早い1900年10月の勅令で、竹島の領有権を確立したと主張している。
ところが位置や島の名前などを考えると、韓国が主張している島は竹島ではなく、
竹島の北西約90キロにある鬱陵島(ウルルンド)の東約2キロの小さな島だったと理解
するのが「自然な見方」という。報告書では「韓国側の説は立証されておらず、検証を要する」
としている。
◇「講和条約で最終確定」◇
●サンフランシスコ講和条約と竹島の領有権との関係は?(近代〜現代)
戦後の対日講和条約の草案をつくる過程で、シーボルト駐日政治顧問代理は
「竹島に対する日本の領土主張は古く、(日本領土で)正当と思われる」と米国務省へ提言。
49年12月、草案が書き換えられ、日本領土に竹島が加えられた。韓国は51年7月、
竹島を自国領土とするように米国政府へ要求したが、
「竹島は1905年ごろから島根県の管轄下にある」と拒否された。
ところがサンフランシスコ講和条約が発効される3カ月前の52年1月、韓国の李承晩大統領
は突然、「公海上に海洋主権宣言による線引きをした」と一方的に宣言。線内へ入った日本漁船
の拿捕(だほ)や竹島の武力占拠に踏み切り、現在も不法占拠が続いている。
報告書は「領土の最終決定は平和条約によるのが国際法の通則」として、
「サンフランシスコ講和条約により日本領土の範囲が確定して、従来通り、竹島が日本領土で
あることも最終的に確定した」と結んでいる。
◇「安の供述は二転三転」◇
●「安龍福」の証言は真実か?(古代〜近世)
1693年、米子の商人が鬱陵島で漁をしていた朝鮮人を見つけた。名前は安龍福。
鳥取藩へ連行された安は、長崎へ移送。対馬藩は朝鮮王朝に対して、島への渡航禁止を
強く求めて安を送り返した。同王朝は安を罪人として厳しく罰する方針を示していた。
ところが1696年5月、隠岐に突然、密航した安が現れた。安は「竹島と鬱陵島を朝鮮領と
認めてもらうため、訴訟するのが狙い」と説明したが、鳥取藩主は当時、参勤交代のため
不在だった。幕府は「安を長崎へ送るか、帰国させるように」と指示。鳥取藩は安を直ちに帰国させた。
朝鮮に戻った安は、取り調べで「対面した鳥取藩主が、竹島は朝鮮領であると認めた」と証言した。
これが独り歩きして、朝鮮では安が「日本に鬱陵島と竹島を朝鮮領と認めさせた英雄」となった。
報告書では「安の供述は二転三転しており、証言は矛盾や偽りをはらむ」と断じている。
◇◇「韓国の主張、論拠が薄い」◇◇
下條教授は中間報告書について「日本、韓国側ではない第三の立場として両方の主張を
研究した結果、韓国側の主張の論拠が薄いことを立証できた」と話す。
報告書は県庁1階の県民室で閲覧できる。
まともな記事だが、記事元を確認したい。
http://mytown.asahi.com/shimane/news.php?k_id=33000000605300001
天変地異の前触れ?
投稿者 ひなみ : 2006年05月31日 22:17