雑感 02

プロフィール  リンク  ホーム

01 02 03 04 05 06 07 08 09  10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 NEW



 大きな(マル)

これは、ある女性の話である。彼女が小学1年生か2年生の時の忘れられない話だという。

夏休みが終わり、二学期が始まった。自由工作、夏休み帳、絵日記などの宿題を先生に提出することになった。その段になり、彼女はドキドキドキドキ心臓が止まりそうになった。絵日記をまったくやっていなかったからだ。でも、彼女は意を決し、白紙のままの絵日記帳を先生に提出した。数日後のこと。絵日記帳が皆に返されたが、自分の名前が呼ばれるまでは、まさに地獄だったという。そして、そのときがついにやって来た。審判の一瞬である。必ず叱られると思い、彼女は先生の前に立ち、目を閉じたまま覚悟した。
ところが、担任の先生は、
「絵日記に書けないほど、楽しい夏休みだったんだね」
と、にこにこしながら絵日記帳を返してくれたという。おそるおそるその日記帳を開くと、白いページごとに大きな大きなマルがしてあった。彼女はうれしくてうれしくて、胸がいっぱいになったという。それ以来、彼女はその先生が大好きになった。

う〜〜ん、いい話だなあ。それにしても、いい先生だなあ。
と、おれは思った。ところが、この話には後日談があった。
月日が過ぎて、小学校の同窓会が開かれた。もちろん、彼女も出席した。彼女は、この絵日記帳の事件を懐かしそうに恩師に話した。先生もよく覚えていて、彼女にこう言ったそうだ。
「君、あれはマルじゃなくて、0点の0だよ」

まあ、形は違うにしても、こういうことはたくさんあるんだろうなあ。「世の中、勘違いや思い違いで成り立っている」といったらオーバーだけど、確かにそういう面はあると思う。たとえば、結婚なんかは、その最たるものじゃないかな。

2002.7



 写真部

中学校に入学すると、なにを血迷ったのか、すぐ水泳部に入った。毎日8Kmのランニングと体操。2週間ほどで退部したが、1度もプールには入らなかった。以後、運動にはまったく縁がない。次に入ったのが、拓本クラブ。なんともじじむさいクラブであった。2年になると、理科第1クラブなるものに入り、水の電気分解の実験などをした。そして3年になると、美術クラブに入った。
高校に入学すると、なんとなく地歴部に入った。土器や石器の発掘にあこがれていたからだ。でも、発掘の機会は1度もなかった。2年になると、写真部に入った。「頼む!部員が少なくて、困っているんだ」と、仲のいい友人に懇願されたからだ。断る理由がなかったので、「まっ、いいか」と入部。この写真部には、卒業まで2年間在籍した。
大学に入ると、迷ったあげく、フィッシングクラブに入った。でも、ここはすぐに除名になってしまった。練習をさぼったからだ。以後、どの部にも入ることはなかった。
こうやってみると、実に目まぐるしい。おれは、よっぽどあきやすい性格なんだな。でも、写真部だけは、2年間も続いた。この2年間が、今につながっているのだろうか。

2002.7



 里山と自然林

「里山」という言葉ある。比較的新しい言葉だ。古い辞書には載っていないかもしれない。コナラやクヌギなどの明るい林で、山菜などの食料、薪や炭などの燃料を私たちに供給してくれた。近くには畑や水田があり、ため池が点在したりする。人間が長年にわたり絶えず手を入れ続けた林であり、そこにはひとつの安定した、里山ならではの生態系が存在していた。
近年、この里山が危ないという。利用も管理もなくなり、その生態系が急変しているのだ。人の手が入らなくなった結果、林の下がササで覆われたり、樹木がツル植物に巻き付かれたり、ニセアカシアなどの外来種が侵入するようになったという。里山という歴史的な景観と生態系を保全しようという運動が、あちこちで生まれている。
「山が荒廃する」という言葉をときどき耳にする。一般的には、スギやカラマツを植林し、手入れをしないでそのまま放置された様子を言うらしい。人工林は、経済林である。下草刈りや間伐をして、木を育てなければならない。手入れをしなければ、材木としての商品価値が格段に落ちるからだ。また、「山を守る」という言葉がある。スギやカラマツ林などの手入れをすることを意味するようだ。でも、ちょっと違うんだよなあ。この二つの言葉には、どうしても違和感がある。 

2002.7



 人工林と自然林

日本中を旅して思うことは、ひとつ。なんでこんなに自然林が少なくなったんだろう。こんなところまで、よくもまあ木を植えたもんだ。見渡すかぎりの人工林を前にして、呆れるより怒りを感じてしまう。戦後の植林計画は、杜撰で異常なものであった。今はそれを反省し、皆伐を避けたり、広葉樹との混植を推奨しているようだが、失われた自然はなかなか元に戻らない。
「山が荒廃する」といっても、見方を変えると、山が自然に戻りつつあるのではないだろうか。自然林を伐採して作られた人工林が、元の自然の姿に帰ろうとしているのではないだろうか。人工林は、水源の涵養とか大気の浄化という面では、かなり評価が低い。また、生物の多様性という面では、もう絶望的だ。「豊かな森」という言葉ある。この言葉からスギやカラマツの林を連想する人がいたら、その人の自然観は非常に貧しいものに違いない。大雨による土砂災害も、多くはスギなどを植林したことが原因だ。根の深い広葉樹を伐採して、急斜面に植えてはならないスギなどを植えれば、これはもう人災だ。
高知県の四万十川は、日本最後の清流と言われている。しかし、ここも例外ではない。戦後、流域のかなりの範囲で自然林が伐採され、スギが植林された。すると、川は一変した。上流で雨が降ると、すぐ増水して瞬く間に茶色に濁るようになった。そして、水が引いても、大量の泥が河原に残るのだという。50代の川漁師は、そう嘆いていた。雨量の割にすぐ増水するのは、四万十川だけでない。日本中のすべての河川で、同じことが報告されている。
人工林と自然林とでは、どちらが貴重で大切かという問題ではない。両方とも大切だからだ。ただ、人工林と自然林とでは、質が違う。それも、かなりの違いである。この違いをわかってもらいたいものだ。

2002.7



 毛虫が大の苦手

庭があり、草木が生い茂れば、必ず毛虫が発生する。困ったことだ。おれは生き物に対しては博愛主義なのだが、毛虫が大の苦手。庭で毛虫を発見すると、ギャッーと悲鳴を上げる。でも、容赦なく捕殺する。
厄介なのは、イラガの幼虫だ。これがとんでもない有毒で、ちょっと触っただけでもひどい目にあう。ずんぐりした体と黄緑色の毛は、きれいと言えないこともないけど、まことにおぞましい。こいつの始末の仕方は、こうだ。毛虫のついた葉をそっとむしり、そのまま川へ投げ込む。やばいときは、枝ごと切って処分する。高くて手が届かない場合は、幹を足蹴りにして木を揺らす。ちょうどカブトムシを捕る要領だ。もちろん、蹴ったらすぐ逃げる。サスペンスドラマのヒロインのように石につまづいてはいけない。まごまごしていると、イラガの幼虫を頭に載せることになるからだ。まったくにもって、思い浮かべるだけで鳥肌が立つ。この幼虫には、天敵がいるんだろうか。鳥も、まず食べないだろうなあ。
モンシロチョウはキャベツ。ギフチョウはエノキというように、だいたい食草というのは決まっているものだ。ところがだ。アメリカシロヒトリは、とにかくなんでも食べる。クルミだろうが、クワだろうが、ブドウだろうが、カキだろうが、手当たり次第なんでも食べる。全く節操がない。なんでも食べるのなら、山で大発生してもよさそうなのだが、そうはならない。山には外敵がいるからだ。カッコウは、このアメリカシロヒトリを食べるという。一体どういう味覚をしているのだろうか。
イラガも厄介だけど、このアメリカシロヒトリにも苦労する。初期の段階では、幼虫は葉をクモの巣状にして、群生する。そしてある程度成長すると、今度は単独で生活するようになる。こうなると、もう手遅れ。食欲は極めておう盛で、高さ10mの木もほんの数日で丸裸にする。アメリカシロヒトリを退治しようと思ったら、この初期の段階で捕殺しなくてはいけない。1週間に1度は木をくまなくチェックし、クモの巣状の葉を見つけたら、枝ごと焼却する。
ああ、体のあちこちがなんとなく痒くなってきた。夢の中に出てこなければいいのだが。全くどいつもこいつも、とんでもねえ生き物だ。とはいっても、蝶の愛好家はそんなに気にならないらしい。「アメリカシロヒトリに木を丸裸にされても、木は枯れないものさ」などと、蛾にも寛大だ。なるほどねえ。
秋の七草のひとつにクズ(葛)がある。山菜としても有名で、若芽の天ぷらはとてもおいしい。乾燥した荒れ地でも良く育つクズは、アメリカの砂漠地帯に勢力を伸ばし、あちこちで問題になっている。クズは英語でkuzuだが、一般的には「ジャパンなんとか」と呼んでいるらしい。きっと憎々しげに発音しているんだろうなあ。そういえば、中国の砂漠緑化に日本のクズを植えようという、とんでもないプロジェクトがあったけど、あれはそのまま実行されたんだろうか。

2002.7



 完治できるのだろうか

皮膚科の病院に行って来た。恥ずかしい話だが、病名は水虫。病院嫌いのおれが、病院に行ったのは何年ぶりだろうか。高校の時に足の骨折で入院したことがあるが、それ以来10年に1度のペースかな。胃カメラを飲んだのが1度と、あとは歯医者だけだ。健康診断もいつやったのか、昔のことで覚えていない。日頃、不摂生をしているので、病院が怖いということもあるけど、とにかくめんどうなのだ。こういう人間も、珍しいのかな。
水虫の話に戻ろう。ことの発端はこうだ。娘の手の指の皮がむけて、少し赤くなった。それを女房が見つけて、「これは水虫に違いない」と、おれを睨みつけた。身に覚えのあるおれは、ついうつむいてしまった。そうなんだ。水虫の家庭内感染なのだ。「あす、皮膚科の病院に行ってね」と、20回ほど言われた。心の準備をしていないおれは、「明日はだめだ。明後日にする」と抵抗するのがやっとだった。そして、娘とともに病院通いを始めることにした。
水虫といっても、痛くも痒くもない。長年連れ添った水虫だ。愛着はないけど、違和感もない。でも、ああ女房に言われては、行かにゃあなるまいて。しぶしぶ保険証をポケットに入れた。
初診の時は、つい緊張してしまった。医者は、おれの足の皮膚を顕微鏡で調べ、「簡単に言うと、水虫です」と、病名をうれしそうに宣告。そんなこたぁ、わかっているわい!看護婦さんに薬を塗られる時は、ちょっと恥ずかしかった。でも、「よし、ちゃんと治そう」と、決心したね。われながら、偉いと思う。
さてさて、完治できるだろうか。自信がない。

2002.6



 目からウロコ

信州善光寺の名物といえば、なんといっても八幡屋礒五郎の七味唐辛子である。わが家の食卓には、その缶入りの唐辛子がいつものっている。うどんにも、みそ汁にも、煮物にも、とにかくなんにでも振りかける。女房が呆れるほど、ガンガンと振りかける。
さて、困ってしまうのが、牛丼の吉野家だ。ベニショウガをたっぷりのせ、七味唐辛子を振りかけるのだが、これが大変。しみったれた容器に入っているため、振れども振れどもなかなか適量にならない。しまいには手が疲れ、さすがのおれもあきらめてしまう。
先月、その吉野家でのできごとだ。若い男が斜向かいに座った。彼は、おもむろに唐辛子の容器を手にすると、慣れた手つきで容器のふたを取り外し、唐辛子をバサバサと直接振りかけるではないか。「オオッ〜!」と、おれは叫び声をあげた。あっ、そうか。そうだったんだ。ああやればいいんだ。なんで、今までそれに気づかなかったんだろう!おれは深く深く感心してしまった。目からウロコとは、まさにこのことだ。
きのう、吉野家で並とみそ汁を注文した。おれは唐辛子の容器を手にしたが、なんだか恥ずかしくて、どうしてもふたを取ることができなかった。そして、いつものようにイライラしながら唐辛子を振り続けた。う〜ん、このへんが、おれが進歩しない理由のひとつなのかもしれない。

2002.6

久しぶりに吉野家に行ったら、七味の容器がかわっていた。そうだよなあ。2003.8



 上村の下栗

下伊那郡上村に初めて行ったのは、81年の秋のこと。飯田市から喬木村に入り、どんどん山道を進んだ。峠の赤石隧道を過ぎると、今度は急な下り。辺りは、すっかり暗くなっていた。対向車もなく、この先に本当に人家があるのだろうかと、だんだん心細くなった。やがて木々の間から明かりが見えた。上村だ。秋葉街道に出ると、宿を探した。役場に紹介してしてもらった宿だ。紹介というのだろうか。電話に出た人の家が、たまたま旅館をやっていたのだ。旅館の名前は覚えていないが、旅籠のような古い宿だった。今も営業しているのだろうか。
翌日は、気持のいい快晴。地図を見ながら、下栗に向かった。とにかく細い道だった。自動車が通れるようになって、まだ数年とのこと。ガードレールもカーブミラーもない、とにかく怖い道だった。急斜面に民家が見えた。すごい光景だ。ボールを転がしたら、ボールは止まることなく、はるか谷底まで転がり落ちるような、そんな急斜面だ。
民家は、各部屋を並列させた細長い間取り。急斜面にへばりつくように建っていた。上の方から小石が転がってきて、屋根に当たるのだという。畑も、もちろん急斜面だ。う〜〜ん、すげえなあ。長野県で生まれ育ったおれも、この風景には実に驚かされた。

小谷村の真木に行ったのは、ずいぶん前のことだ。真木へは、自動車では行けない。唯一のアクセス手段は、とにかく歩くこと。峠を越え、谷を越え、歩くこと1時間半。ちょっと開けた場所に山を背にした真木の集落があった。う〜ん、すげえなあ。こんなところに何百年も間、人が住んでいたんだなあ。
長野県には、有名な観光地がたくさんある。上高地や諏訪湖などは、絵はがきで見れば十分。でも、この上村の下栗や小谷村の真木や戸土には、実際に見てもらいたいものだ。

2002.6



 1万枚を越す「民家」のネガ

長野県の古い民家を撮り始めたのが、1979年。今から23年も前のことだが、その頃でさえ、絵になるようないい建物は、もうあまり残っていなかった。それでも、広い県内を地図を見ながら何度も回り、車窓から古い建物を見つけては、夢中になってシャッターを押した。
何年かすると、たまたま古い民家を見つけても、すぐにはシャッターを押さなくなった。時間に余裕がなくなったからだが、いい写真を撮りたいという欲のせいもあった。この建物は、雪の日に撮ろう。あの建物は、手前に田植えの風景を入れよう。これは、ピーカンではない曇った日に撮ろう。まあ、あわてずにぼちぼち撮ろうと構えていた。
古い民家の数は、10年で半減する。以前は、そう言われていた。しかし、どうだろうか。90年代に入ると、古い建物ーたとえば茅葺きの民家などは、アッという間に、本当にアッという間にその姿を消してしまった。いつか暇な時にゆっくり撮ろうと思っていた建物も、気がつくと、ほとんど取り壊されていた。確か、この辺にあったんだがなあ‥。その消えた建物の前で、じたんだを踏んだ。ああ、あの時に撮っておけばよかった‥。あちこちで何度も何度も後悔した。そういうことが度重なり、だんだん民家の撮影から遠ざかった。
撮影した建物の大半は、現存していない。写真でしか見られないことは、ちょっと悲しい気もするが、これも仕方のないことか‥。1万枚を越す「民家」のネガは、大切な宝物になっている。

2002.5



 感受性がゼロに近いのだろうか

題名は忘れたが、落語にこんなのがあった。ある男が、フグをもらうんだね。でも、ひとりでは食べる勇気がない。そこで友人を何人か集めて、フグ鍋をすることにした。ぐつぐつとおいしそうに煮えてきた鍋を囲み、大いに盛り上がるのだが、だれも箸を出さない。素人料理が心配なのだ。「あの橋のたもとに乞食がいるから、そいつに食わせてみよう」と、ひとりが名案を出す。そして、椀に盛ったフグを乞食にめぐんでやる。しばらくしてその乞食の様子を見に行くと、ぴんぴんしている。こうなれば、鍋は早い者勝ちだ。「うまいうまい」と、たちどころに鍋を空にしてしまった。大満足で食休みをしていると、さきほどの乞食が現われ、こう言う。「どうやら食べてもよさそうだな」

昨年の秋、女房の友人からキノコをもらった。夕飯のおかずになる予定だったが、おれはストップをかけた。不審なキノコだったからだ。おれは、キノコに関しては用心深い。そしてその翌朝、「キノコを食べてはいけない」と、その友人から電話があった。夫婦そろって、嘔吐と下痢で難儀したという。毒キノコかもしれないので食べないように、とのこと。病院には行かなかったようだが、そうとう懲りたようだった。女房の別の友人も、そのもらったキノコを食べ、同じころ苦しんだらしい。もっと早く電話をすればいいのに。キノコ中毒という自覚がなかったのだろうか。やはり、知らないキノコを食べてはいけない。
おれがなぜキノコに用心深いかというと、自慢ではないが、過去に2度もキノコに当たったからだ。1度目は、おれが中2の時だ。やはり不審なキノコをもらって、さてどうするかということになった。簡単な家族会議の結果、試しに1本を食べてみることにした。このへんの発想が、貧乏性なんだね。まず親父が、調理したキノコをほんの少し食べた。そして、こう一言。「うん、うまい!」
これがなんと、GOサインになった。「じゃあ、おれも」「私も」と、家族4人で仲良く分け合って食べたのだ。しばらくして、一家全員が食中毒。開いた口がふさがらないというか、全く信じられないような話だ。毒消しにはこれがいいと、近所の人がナンテンの葉を持って来てくれた。嘔吐を繰り返しながら、ナンテンの葉を噛んだのをよく覚えている。症状が回復しかかった夜になって、一家そろって近くの病院へ。「保健所に届けないでくれ」と、親父は医者に頭を下げていた。キノコの食中毒というのは、とても苦しいものだ。その苦しさは、骨の髄までしみ込んだ。感受性の強い13歳だ。無理もないことだろう。数年間は、シイタケ、エノキなど、とにかくキノコと名のつくものは一切食べられなかった。
2度目は、10年前のことだ。近くの河川敷でとったキノコ(ツチスギダケ?)に当たった。起き上がることができず、ちょっとヤバイかなと思いながらも、病院には行かなかった。正直なところ、一瞬死ぬかと思ったほどだ。不確かな噂によれば、呼吸困難、幻覚、幻聴などの症状さえなければ、まず死ぬことはないらしい。怖いのは、自律神経や中枢神経がやられるキノコだという。マユツバだが、その時はそれを信じることにした。幸い翌朝になると、かなり回復したが、実に苦しかった。さて、このときは1度目と違って、その後のキノコに対する拒否反応は一切なかった。どんなキノコも、すぐおいしく食べることができた。若い時と違って、感受性がゼロに近いのだろうか。自分でも、呆れてしまった。

2002.5



01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 NEW

プロフィール  リンク  ホーム