雑感 09

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 散髪

床屋が大嫌いだ。最後に床屋に行ったのはいつだろう?昔のことで、覚えていない。では、散髪はどうするかというと、いつも女房に切ってもらう。それも、とても短くだ。切るのは、だいたい年に3回か4回かな。
ときどきだが、自分で切ることもある。鏡を見ながら、電気バリカンを使うのだ。自分でいうのもなんだけど、手慣れたものでそこそこ上手にカットする。電気バリカンの刃の部分に9mmとか12mmというアタッチメントをつけるので、失敗というものがないのだ。鼻歌交じりにガーガーとやる。

そんなもんで、切る前と後では、髪形が一変する。
事情を知らない人は、突然坊主のような頭になったおれを見て驚くことがある。
「林さん、どうしたんですか?」
「ああ、これか。ちょっと、思うところがあってな」
などと、坊主頭に手をやりながら訳のわからない返答をする。

「ああ、髪を切らなくては‥」と思ったのは、10月の話。もう11月も終わりである。
今年はまだ2回しか切っていない。かなり長髪になっていて、うっとうしい。年内には、髪を切ってもらおう。それとも、思いっきり伸ばそうかな。

2003.11



 なにか運動を

おれの身長は、172cm。体重は、60kgから65kgの間かな。計ったことがないんで、正確な数字はわからない。若いころに比べると、体重は少し増えたし、腹も少し出てきた。年齢もあるんだろうが、やはりビールの飲み過ぎだろうか。運動不足も原因に違いない。

なにか運動を始めようかな。
と、思う今日この頃である。でも、運動といっても、なにも頭に浮かばない。ゴルフは嫌いだし、ゲートボールじゃ話にならない。ランニングは疲れるし、エアロビクスじゃ恥ずかしい。テニスとか卓球という手もあるが、そういうサークルに入らなくてはならない。相撲やレスリングは、相手に変な気を起こされたら大変だ。消去法でいくと、やはりここは
手軽簡単なウォーキングで決まりだろうか。家の近くには犀川もある。畑や公園もある。散歩コースには不自由しないしな。まあ、初めは、1kmコースくらいから始めよう。
でも、今は大忙し。少しヒマになる来年からにしよう。

女房は、長くヨガをやっている。今年からは、先生の代理で指導もしているようだ。といっても、地区の小さな公民館でやっているヨガ教室だが。生徒は、主に50代60代のおばさん。指導の初日、女房はガチガチに固くなっていた。「自分も一緒に習うつもりで、軽い気持でやればいいよ」と言ったが、緊張してかわいそうなくらいだった。その女房も、何回か行くうちに慣れたようで、今では励みになっているようだ。

運動も体操もしていないので、体がとても固い。姿勢もあまりよくない。長い時間車の運転をすると、いつも腰が痛くなる。ときどき女房から腰痛にいい体操を教えてもらうのだが、これがなかなか大仕事。体があまりに固いんで、ちっとも体操にならないのだ。こういうことは続けることが大切なんだろうけど、おれの性格からいったら、やり始めて2分で満足し、そして3分で飽きてしまう。困ったものだ。

2003.11



 スケジュール表

カレンダーを見て、ウ〜ンとうなる。19日は、神奈川県の小田原で仕事。20日は富山で仕事をし、そのまま宿泊。21日も富山で仕事をし、翌22日は(未定だが)福井市へ。
ウ〜ンとうなったのは、週間天気予報では19日から天気が崩れるからだ。さてさて、どうしたものか。住宅(雑誌用)の撮影であるから、外観写真は不可欠。それも、かなり重要なカットだ。建物によっては、青空が絶対必要ということもある。
どうするか、今日中に決めなくては‥。
延期するか、変更なく行くかということだ。天候の関係で外観が撮れない場合は、再度現場に行かなくてはならない。変更なく行くということは、つまりは二度手間を承知で行くということ。でもだ。仮に延期しても、その撮影日が好天とは限らない。
いずれにしても、頭が痛い。なんというか、まあ、割の合わない仕事ばかりだなあ。いい写真を撮ろうとすればするほど、経費が増し、結果的には収入が減ってしまう。

2003.11


※小田原での仕事は、天気予報を見て延期。でも、当日の天気は、さほど崩れなかったようだ。「ああ、予定通り行けばよかった」と、なんども悔やんだ。延期のせいで、スケジュールがメチャクチャになったからだ。今月中に、山梨、福島、新潟にも行かなくてはならないのに‥。時間がなく、とにかく頭が痛い。


 プロバイダ

今年の7月のこと、ISDNからADSLへの乗り換えを考えた。でも、ADSLにすると、ISDNのiナンバーが利用できなくなり、FAX用の電話回線を新たに申し込むことになる。これには困った。そこで目を向けたのが、Bフレッツ。料金も比較的安くなっていたし、サービス期間中で工事費が無料だったからだ。たまたまNTT東日本の営業マンが事務所に飛び込んで来たこともあり、ISDNはそのままにしてBフレッツの導入を決めた。そして、2カ月半後、我が家にも光ファイバーがやって来た。
さすが、光ファイバー。通信速度は格段にアップし、満足している。でも、実のところ、思ったよりは速くない。期待のし過ぎだったのだろうか。通信速度は最大100Mbpsという触れ込みだが、それはあくまでも最大の数値。いろいろな条件により、実際はかなり低い場合が多いようだ。

ついでにプロバイダも、ドリームネットからWAKWAKに変更した。WAKWAKの場合、無料HPの容量が50MBもあるからだ。調べたわけじゃないけど、50MBというのはぶっちぎりの数字だ。ドリームネット(OCN)は、無料HPの容量が10MBに過ぎない。10MBオーバーなら、追加料金になってしまう。
このサイトは、61ページで画像数は1000を越える。重さは、なんと約30MB以上もある。50MBまではまだ余裕があり、いまのところは安心だ。でも、PCのハードディスク同様、気がつくと満杯ということになるかもしれない。そのときはそのときで、また考えよう。

2003.11



 11月の菜園

夜には雨という天気予報を聞き、やっとタマネギを植える決心をした。園芸店に行くと、タマネギの苗がなんと半額。「うん、ラッキー!」時期が遅く、もう売れないのだろう。1束(100本)200円というのを2束買う。
菜園に立ち、よその畑を見た。1カ月前に植えられたタマネギがもうすっかり根を張っていた。今買ってきた苗と回りの畑の苗を見比べたが、買ってきた苗は異常に大きかった。ついつい欲張って大きい苗を選んだことを反省した。こんな大きな苗を今時分植えて、大丈夫だろうか。だんだん心配になった。
考えたら、去年もそうだ。やはり半額の苗を買った。植えたのは、今年よりも遅い11月の下旬。やはり同じような心配をした。結果としてはまあ順調に育ったが、浅く植えたものは倒れてしまった。土が凍ったり融けたりしているうちに、根が浮き上がって倒れてしまったのだ。今年は、どうだろうか。


我が家の菜園は、回りに比べるとだいたい1カ月か2カ月は遅い。
夏野菜もそうだ。隣ではキュウリを収穫しているのに、こちらはやっとキュウリの種蒔きである。隣ではナスやキュウリをさっさと片づけてホウレンソウやシュンギクなどを植えているのに、こちらはいつまでもそのままほったらかし。ホウレンソウゃチンゲンサイの種を蒔いたのは11月に入ってからだ。まあ、なんと遅いことか。まったくにももって、実に腰が重い。というよりは、だらしないのだろう。

2003.11



 大学2

学校の所在地は、練馬区の江古田。池袋から三つ目の駅(西武池袋線)で、ここには日大芸術学部のほかに武蔵野音楽大学と武蔵大学があった。食堂や喫茶店や雀荘がひしめく学生街で、なかなか活気のあるところだった。本屋もいくつかあり、試験前になると、くだらない専門書を渋々買ったものだ。どうして試験前にそんな本を買うかというと、試験は、その専門書の著者であるところの先生の科目だったからだ。試験の条件は、教科書持ち込み可。「可」というものがクセモノで、要は「おれの本を買わなければ、単位はやんないよ」ということなのだ。まあ、大学なんていうのは、こんな程度のところなのだ。
月曜日の午前には、「映画観賞批評」という必修科目が大講堂であった。「戦艦ポチョムキン」とか「カリガリ博士」とか「裸の島」とか、とにかく映画史上有名な作品を見るのであるが、見終わってから紙が配られた。故登川教授が簡単な講義をし、「今見た映画のシークエンスは、いくつか?それぞれを要約せよ」などという課題を出した。おれはというと、「えっ、なんのこっちゃ?そんなん、わかるわけねえだろう!」と、回りをキョロキョロしたものだ。

今の江古田には、雀荘なんてないんだろうなあ。当時の雀荘は、1時間で50円(コーヒー付き)くらい。サテンに入るよる安いんで、校門や学食でメンツを捕まえては、なじみの雀荘に突入したものだ。昼は雀荘、夜は歌舞伎町というのが、おれの学生時代の基本的生活パターンだった。

東京での7年弱の生活は、まったくにもってどうしょうもない(本人は自覚していないが)毎日だった。女房には昔のおれのことをほとんど話していないが、女房は以前、たびたびこんなことを口にした。
「林さんとこんなに長く一緒に暮らした女は、(私より)ほかにいないんじゃないの?」
やぶ蛇になるんで、「それ、どういうことだよ?」とは聞かなかったけど、女房はいったいどういう意味で言ったんだろう。
「あなたのようなだらしない人と一緒にいてくれる女は、私ぐらいなものよ」ということなのだろうか。それとも、単に月日の流れのことを言いたかったのだろうか。

クレスタという車がある。そのラジオCMにこんなのがあった。
男A「今度来た部長、駅前のあの高級マンションに住んでるんだってねえ」
男B「単身赴任らしいよ」
男A「車は、クレスタに乗っているみたい」
一呼吸置いて、
AB「それって、男の理想じゃない!」
おれ「そうだ!その通り」
と、ビッグホーンのハンドルを握りながら、絶叫したものだ。
クレスタなる車はどうでもいいが、単身赴任という言葉にはそそられた。やっぱ、男の理想だよなあ。涙ながらに思い起こせば、おれには独身時代なるものがまったくない。つまりは、「いつもいつも束縛されていた」ということだ。制約付きじゃあ、思いっきり遊べないもんなあ。おれって、やっぱり損をしたのだろうか‥。
こんなことを言っていると、また女房に怒られてしまう。

「なんにもわからない、なんにも知らない、いたいけな娘(自分のことらしい)をうまくだまして‥」と、女房はときどき恨み言を口にした。女房の言い分である。「お前なあ、なんにもわからない、なんにも知らないなんて、早い話がただのバカじゃねえか」とは、口が裂けてもとてもとても言えなかった。ああ、おれも苦労が多いなあ。

2003.11



 大学1

以前、NHKテレビでオーストラリアの高校を紹介していた。
最初のシーンは、放課後の教室。ソフトドリンク、サンドイッチ、菓子類などを机の上に並べ、みんなでパーティを開いていた。何人かの先生もいたはずだ。なんのパーティかというと、ある生徒が中退するだという。オーストラリアでは、いい仕事が見つかると、高校を中退してさっさと就職してしまうのだそうだ。日本とはずいぶん違うんで、びっくり。オーストラリアって、なんかすごいなあ。感心してしまった。そして、学校のあり方についても、ちょっと考えさせられた。

おれの行った日大芸術学部もそういう風潮があり、4年で卒業するのは入学した学生の約三分の一だった。自分の進路を決め、そこにアルバイトなどで潜り込み、いつのまにか社員に‥というパターンが、少なくなかった。もともとアルバイトと社員の区別のないような業界なので、いつのまにかということが多かったのだろう。結局、気の利いた学生は、留年したり、中退してしまうのである。ちゃんと卒業しても別にどうということもない学校だったし、関連する業界でも成績表や卒業証書などなんの意味もなかった。
まあ強いて言えば、ぼんやりした、融通の利かない学生が、エスカレーター式に4年で卒業するのである。

おれはというと、自分の進路とか就職についてはなにも考えていなかったので、中退していく友人がとてもまぶしく見えたものだ。そして、アルバイト(夜の水商売)に忙しかったが、中退もせずに、凡々と卒業した。もちろん勉強など、まったくしなかった。実にいい加減な学校だったので、さほど出席しなくても、テストの点が悪くても、どうにか卒業できたのだ。

2003.11



 高 校

かくして、なんの感慨もなく、予定の高校に入学。進学校ではない二流の高校だったので、真剣に勉強するやつはほとんどいなかった。このおれが上の下という成績だったのだから、まあ高校の程度がわかろうというものだ。

バイクの免許を取ると行動半径が広がり、あちこちの山に出かけたものだ。あの当時は、今とはずいぶん交通法規が違っていた。16歳から軽免許(軽自動車限定)が取れたし、二輪は原付きと自動二輪しかなかった。当初、未成年には罰金がなかったはずだ。もちろん点数制などはない。ヘルメットも義務づけられていなかったし、サンダル履きもOKだった。学校に軽自動車で乗りつけるやつもいたし、大型バイクで通学していたやつもいた。とにかく、学校もあまりうるさくはなかったし、回りの大人たちも実に寛大だった。

楽しかったのは、友人達と行ったキャンプである。夏休みには、河原、海、山と、あちこちに出かけた。本格的なキャンプ用品はなかったけど、自分たちで料理をして、それをわいわいと食べるのがとても楽しかった。テントの中で寝るのも、楽しかったなあ。

3年の冬になってから、「大学に行ってみようかな」と、ふと思った。大学は、日大の芸術学部に決めた。人並みに受験勉強を始めてみたが、ちっとも集中できなかった。なんせ、勉強をするという習慣も経験も、まったくなかったからだ。結果は、やはり見事に不合格。難易度の高くない日大といえども、おれには敷居が高かったのだ。
高校を卒業し、半年ほど働いて貯金をした。再び勉強をして、もう一度日大に挑戦した。

2003.11



 中学校

中学校に入っても、生活はあまり変わらなかった。夢中になったのは、映画、魚釣り、ハトの飼育、鳥の卵の標本作り、ナイフ作り、化石の発掘、植物採集、盆栽、等、等。もう勉強どころではない。日曜日には、ひとりで山歩きをした。ムササビ、リス、タヌキ、フクロウなどを見つけては、ワクワクしたものだ。日本野鳥の会に入会(2年で退会)したのもこの頃で、何度か探鳥会にも出かけた。

朝、いつものように教室に入ると、なんか様子が変だった。どうしたんだろう?友人に訳を聞くと、今日は中間テストだという。テストがあることは知っていたのだが、それが今日とは‥。とても、びっくり。嘘のような本当の話だ。また、体育館での朝礼をさぼったり、いたずらなどをして、職員室の前の廊下に正座させられたことが何度もあった。そんな程度だから、高校入試の勉強など、まったく頭になかった。勉強しなくても入れる高校に行くつもりだったからだ。

先々月、久しぶりに中学の同級会があったが、
「林は、よく先生に怒られていたなあ」と、皆から笑われた。
どうしてあんなに怒られたのか、今もって不思議だ。
ところで、同窓会に出席した友人の頭が、とても気になった。おれは白髪が少しずつ増えてきたが、真っ黒なやつもいた。かと思うと、真っ白なやつもいた。もちろん、はげもいた。いろいろなんで、とても驚いた。クラスの人員は忘れたが、わかっているだけで、2人が病死していた。友人の話では、50歳を過ぎると、毎年ひとりずつクラスメイトがあの世に行くという。う〜ん、もうそういう歳なんだなあ。

我が家の子供は、よく勉強をする。昔の自分とは、月とスッポン、雲泥の差である。聞くところによると、宿題をやってこない友達はあまりいないそうだ。ずいぶん変わったものだ。
「もう勉強、やめたら」とか「そんなにしなくても、いいんじゃねえか」と、ときどき子供に言う。「もっと勉強しろ!」と言ったことは、1度もない。
まあ、勉強なんかどうでもいいが、友達とは仲良く遊んでもらいたいと思っている。

塾が大はやりだという。子供たちは、いつからそんなに勉強が好きになったんだろう。おれには理解できない。

2003.11



 小学校

このHPは、Adobe PageMillで作っている。マックのおまけソフトだ。比較的簡単なソフトだが、その反面、高度な編集はできない。PageMillにはない機能を使いたいときは、表示をソースモード切り替えてHTLMで編集する。とていっても、その手のお助けサイトからコピーするだけだけど。
PCというのは、とにかくむずかしい。インストールにしても、各種の接続にしても、わからないことだらけ。おれはというと、どこかで習ったり、だれかに教えてもらったことは1度もない。解説本やヘルプも基本的に読まない。めんどうだからだ。適当に、いいかげんにキーボードをたたいて、いいかげんにやっている。どうしてもうまくいかないときは、仕方なく解説本を(本屋で)読んだり、ヘルプを検索する。初めからそうすればいいんだけど、なかなかそれができない。根っからの勉強嫌いということだ。この性格は一生直らないのだろう。

おれは勉強が大嫌いだった。まったく勉強をしなかった。人の話の中で、「勉強をちっともしなかった」ということを聞くけど、あまり信用しない。まあ、そこそこ宿題をして、そこそこテスト勉強もしたに違いない。
小学校のとき、宿題というものをやった記憶がほとんどない。そんなもんで、放課後はいつも残り勉強をさせられた。学校で残り勉強をするくらいなら家でちゃんと宿題をやればいいじゃないかと思うかもしれないが、おれは残り勉強のほうがずっと楽だったのだ。宿題をやらないのがおれひとりだけなら、イヤイヤながらもちゃんと宿題をやったかもしれないが、クラスにはおれのようなのが何人もいた。「赤信号 みんなで渡れば 怖くない」で、気の小さいおれでも、へっちゃらだったのだ。
授業中も、自分から手を挙げて発言したことも1度もない。黒板のほうを見ていても、遊びのこととか、テレビ番組のこととか、とにかく勉強以外のことをいつも考えていた。夢中になったのたは、魚釣り、鉱物集め、昆虫の飼育、等、等。テレビも大好きで、とくにアメリカのコメディには目がなかった。
頭のいいやつは勉強しなくても、テストではまあまあの点が取れるものだ。ところが、おれはというと、それはそれはひどい点数で、これまたいつも残り勉強。通知表は2が中心で、あとは3と1。さすがに1は少なかったが、これはクラスにおれのようなのが何人もいたからだ。以前、女房がおれの昔の通知表を見たことがあったが、あまりのひどさにびっくりしていた。
「林はバカだ」というレッテルが貼られると、ある意味楽だった。勉強がわからなくても、それが当然のことで、恥ずかしくなかったからだ。国語の教科書を読むのが、とても苦手だった。漢字はあまり読めなかったし、少し吃音もあったので、ほんの少しの文章でもずいぶん時間がかかった。先生も承知していて、本読みでおれを指名することはほとんどなかった。

話は前後するが、幼稚園は富山県小見町(もう合併して、その町名はないかも)の小見幼稚園に中途で入った。親父の仕事の関係からだ。そして、その町の小見小学校に入学。長野に戻ったのは、小学1年の夏である。

2003.11



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