長谷川海太郎 Kaitaro Hasegawa 佐渡市



明治33年(1900)1月17日 〔生〕~ 昭和10年(1935)6月29日〔没〕


海太郎は「谷譲次」「林不忘」「牧逸馬」と三つのペンネームを持つ流行作家だった。明治33年(1900)1月17日、母の実家すじの佐渡赤泊村徳和(現在は 所有者が変わり面影はない 参考までにクリックで地図表示します)に生まれる。
父は佐渡中学の教師だった。3歳の時、『北海新聞』主筆になった父と共に一家で函館へ転居。
函館中学に入学する。函館中学時代(現在の函館中部高校)から英会話にはとくに熱心で、港に外国船が入ると出かけてゆき、水兵と友達になっては、英語の腕を磨いた。
大正6年(1917)、函館中学卒業の直前、前年のストライキ事件に関係したために卒業者名簿からはずされ、退学となり、上京する。

大正7年(1918)、数え年で19歳のとき単身アメリカへ渡った。アルバイトしながらオハイオ州のオベリン大学とオハイオノーザン大学を卒業する。この時海太郎は皿洗いやボーイなどあらゆる職業についたが、これが結果的に作家修行になったわけだ。
大正13年(1924)貨物船アイオロス号の船員として乗船し、日本にたどり着く。函館と東京の間をいくたびか往復した後、東中野の通称「谷戸の文化村」に家を借りる。
作家、松本泰が主宰する「探偵文芸」に参加する。そこで「新青年」主筆の森下雨村と知りあう。

大正14年(1925)、希代のメンズマガジン「新青年」に、エスニックとしての日本移民の生態に取材した、「めりけんじゃっぷ」ものと呼ばれる連作コントを発表、いちやく流行作家となる。
大正15年(1926)、中央公論社社長・嶋中雄作に認められ、「中央公論」への執筆が始まる。谷譲次のペンネームで、「めりけんじゃっぷ」ものやヨーロッパ紀行を書く。

昭和2年(1927)、英語の翻訳研究グループで香取和子と知り合い結婚。
「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」専属の新聞小説家として林不忘のペンネームで伝説的な剣戟小説「丹下左膳」の連載を開始。世俗にとらわれない隻眼の革命児「丹下左膳」は大人気を集め、翌年大河内伝次郎主演で映画化され、丹下左膳の人気が高まる。
右眉から頬にかけて一直線の刀傷、黒襟に白紋付、女物の蹴出をのぞかせた片目片腕のニヒルな怪剣士。実は、左膳のモデルは佐渡出身の北一輝ではないかという説がある。北一輝は海太郎の父が佐渡で中学教師を行っていた時の教え子で、思想形成に影響を受けたという。若い時右目を怪我し、殆ど見えなかった。また権力に対して敢然と立ち向かう姿が左膳と重なって見える。

昭和3年(1928)3月中央公論社の特派員として夫婦で1年3ヶ月にわたるヨーロッパ旅行に出る。この間も列車の中やホテルで原稿を書きつづけ日本の新聞や雑誌に送らなければならなかった。

牧逸馬のペンネームでは、「浴槽の花嫁」にはじまる怪奇実話ものでノンフイクションの分野に先鞭をつける。
わずか10年あまりの作家生活で「一人三人全集」16巻にまとめられる膨大な作品を残し、ひとりで3つのペンネームを駆使した3人分の多面的な活躍によって、モンスターとあだ名された。

余談であるが、選抜中等学校野球大会(現在の選抜高等学校野球大会)の初代大会歌「蒼空高き甲子園」は、長谷川海太郎の作詞だった。昭和6年(1931)、第8回大会で入場行進、優勝旗返還の時流されたが、「オール日本」「ヤング日本」など「歌詞に敵性語たる英語が含まれている」と陸軍上層部の反感を買ったことでわずか1年で廃止されている。

昭和10年(1935)6月29日、小袋坂の通称からかね御殿で急死。享年35歳。多作による過労による早すぎる死であった。鎌倉には、大正15年(1926)から住み、大町の妙本寺に墓所がる。








赤泊郷土資料館   地図 ストリートビュー









長谷川海太郎 の検索結果