〜1600年・慶長5年〜 ■出来事 ●1月25日(西暦3月10日)- 堀秀治,姫川渡しの船頭に高10石の扶助を与える ●2月22日(西暦4月5日)- 新発田藩主溝口氏,本成寺領300石を安堵する ●6月6日(西暦7月16日)- 徳川家康、上杉景勝を討たんとして堀秀治に会津に進入を命ずる。 ●6月14日(西暦7月24日)- 家康,新発田の溝口秀勝に佐渡出兵が必要ない旨を伝える ●7月22日(西暦8月30日)- 会津藩上杉景勝の軍勢、六十里越から越後に侵攻、越後一揆起こる ●8月1日(西暦9月8日)- 越後遺民一揆で魚沼郡一揆勢,堀之内の下倉城を攻め,城将小倉主膳正,討死する ●9月21日(西暦10月27日)- 家康,蔵王城将堀親良に越後一揆平定に対する感状をおくる ●9月24日(西暦10月30日)- 上杉氏代官河村彦左衛門,この日から28日にかげて佐渡全島の検地を行う 川村彦左衛門は、上杉景勝の家臣で、上杉氏の佐渡代官として、慶長5年まで佐渡を支配した。景勝の会津移封後も、佐渡の国情に詳しいことから佐渡にとどまり、金銀山の開発につとめた。慶長5年(1600)佐渡一国検地をおこなう。これは太閤検地と異なり、上杉家独自の方式による検地だった。文禄四年作成の検地帳が不正確だったため、より正確な検地帳を作成し、年貢の徴収と軍役を賄うことが目的だった。 ●10月5日(西暦11月10日)- 秀忠,溝口秀勝に越後一揆平定に対する感状をおくる ■時の統治者