1915年(大正4)11月23日〔生〕~1999(平成11)年01月31日〔没〕 大正13年(1924)、数えで10歳の年、貧しい生家を助けるべく、口べらしのため小学校を中退、長岡の立花(橘)屋から半玉で出、昭和3年(1928)、3年の年期で湯沢の「若松屋」に移った。 唄や踊りの稽古は厳しかったが、夜は掛け布団の中で、懐中電灯の明かりで探偵小説を読んだり、芸者仲間と歌舞伎についておしゃべりするのが数少ない楽しみだった。働き者で、辛抱強い性格の娘だったという。 年期が明けると一旦家に帰ったが、生家を助けるため、すぐ富山県の高岡に、また芸者として出ている。高岡では、抱え主と折り合いが悪く辞めることとなった。客を取って稼ぐことを強要されたからという。 数えで18歳の年の昭和7年(1932)、湯沢に戻り、「豊田屋」から、昔と同じ松栄の名で芸者に出、昭和9年(1934)8月、当時35歳の川端とめぐりあった。 「豊田屋」は3人の芸者を抱える、諏訪神社の近くにある置屋であった。 昭和6年(1931)に清水トンネルが開通する。昭和9年(1934)の6月、川端康成ははじめて湯沢を旅した。8月に再訪し、丘の上にある木造三階建ての湯元高半旅館を定宿とし、二階の「かすみの間」※ストリートビューで原稿を書いていた。川端は1934年から36年にかけ、気の向くままやってきた。10日で帰ることもあったが、来るたびに長くなり、1ヶ月の時もあった。 旅館の二男で、のち医師兼作家となる高橋有恒は当時、旧制六日町中学の5年生だった。初対面の川端の印象を「やせた目だけが異様に、夜光虫のように光っていた」と書いている。 当時19歳だったキクが呼ばれ、酒の相手をし、「かすみの間」で川端の執筆などの手伝いをしていた。 他に呼ばれた芸者からは、冗談も言わず、じっとにらんでいる川端は、怖くて肩が凝ると人気がなかったが、キクとは不思議とウマがあった。 川端康成は、キクに一目合ったときから、彼女の美しさと、越後弁で話すキクの魅力に引かれた。20歳という色の白い、肌のきめ細かい越後娘の咲きだした美しさがあった、と有恒は後に話している。 小説「雪国」の駒子のイメージはキクを下敷きにしている。キクが読書好きで話し上手だったことも川端がひかれた一因と思われる。 若いキクも他の人たちから感じられない独特な雰囲気を持つ川端に心ひかれ、好意以上の感情を持ったようである。自分から積極的に川端のもとに通い、身の周りの世話をしていたといわれる。 キクと過ごした旅館での出来事や、一緒に出かけた「杉林の中の神社」での出来事をそのまま小説にあらわした。この神社は旅館から歩いて数分の諏訪神社※GOOGLE 画像である。 キクは自分が小説のモデルになっているとは知らなかったという。「雪国」発表後、キクの気持ちを知った川端から、断りなく小説に書いたことへの許しをこう手紙と生原稿が届けられている。 昭和11年(1936)を最後に川端康成は、湯沢を訪れなくなり、キクとの交流も途絶えた。 昭和15年(1940)、キクは25歳で年季があけたとき、川端からもらった原稿や本をすべて、一緒に出かけた神社の境内で焼き捨て、三条にもどり、和服の仕立て業の夫と結婚をした。 昭和32年(1957)、映画「雪国 」が撮影されている高半旅館を訪れ、駒子役の岸恵子と「かすみの間」で閑談している。キクが湯沢町を再訪したのはこの一度だけという。 30年後一度だけ川端康成は、三条市内の親戚を訪れた際、キクにいきなり電話し、喫茶店で2時間ほど面会している。キクは、話の内容について誰にも語らなかったという。 平成11年(1999)1月31日、胆のうがんのため亡くなる、享年83歳であった。 (「雪国」の背景)「雪国」は川端康成の代表作の一つで、1935年(昭和10)の「文芸春秋」に発表され、1937年(昭和12)創元社から刊行。さらに1947年(昭和22)「小説新潮」で「続雪国」の形で完結した。川端は発表の前年1934年(昭和9)ごろから南魚沼郡湯沢町の温泉高半旅館に度々来遊し、その「かすみの間」で執筆した。 高半旅館は建替えられているが、今も「かすみの間」は旧の姿のまま保存されている。当時の高半旅館は高台にある3階建ての建物で、湯沢の街並み、魚野川の清流や飯士山など上越国境の山々が一望できた。眼下には国鉄上越線が走り、湯沢駅を出入りする汽車が見えた。川端は部屋からの眺めを絶賛していたという。※ストリートビュー 「雪国」では高半と湯沢の村や近郊が小説の舞台となっており、主人公島村と芸者駒子が出会った駒犬と大きな杉の木のある諏訪神社も、小説の舞台そのままである。 高半旅館、置屋の豊田屋、湯沢温泉街や湯沢駅舎など川端が小説を書いた当時の面影は残っていないが、キクと出かけた諏訪神社だけは今も変わらず昔のまま建っている。 湯沢町歴史民俗資料館にモデルの芸者が住んでいた部屋を再現した「駒子の部屋」があり、湯沢駅前の公園には、小説の冒頭文が刻まれた文学碑が建てられている。 主人公の島村について、川端は自身ではないと否定し、駒子のモデルの詮索を拒んだことで、キクに対する心配りが伺える。 モデルの小高キクは当時19歳、松栄の源氏名で芸者をしていたこと、作者が松栄宅を訪れたことは、高半旅館の次男高橋有恒によって語られている。 川端はよく旅館の帳場の囲炉裏端に座り、主人高橋半左衛門やその妻ヨキと話しこみ、芸者たちのことや、その制度、温泉、豪雪、風物、習慣、植物などのことを取材していたという。 🔶記念碑
🔹小説『雪国』文学碑 ※GOOGLE 画像
🔹駒子のレリーフ
🔶高半旅館「かすみの間」
🔶諏訪神社 ※GOOGLE 画像
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