袋屋清左衛門と一茶の交流
江戸時代、信州中野は上州草津方面から善光寺へ、あるいは越後方面への交通の要所であるとともに、北信濃の政治・経済の中心地として栄えた町です。当家は屋号を「袋屋」といい、味噌・醤油の醸造などを営む商家でした。 

 小林一茶が当家を訪れたのは、文化文政期のことです。門人たちが集まり、歌仙が行われました。歌仙は三、四人で行いますが、俳句が三十六できると終わりとなります。本来即興でつくるのですが、なかなかすぐに出ないのであらかじめ用意した自分の秀作を出すならわしだったといいます

一茶は晩年、しだいに袋屋に寝泊まりして、長逗留することが多くなりました。

一茶の散歩道

程々庵祝句帖

元旦や上々吉の浅黄空

二日

子だからが棒を引ても吉書かな

じっとして馬にかがるる蛙哉

文政八年正月 一茶

 今も、その当時一茶が残した遺墨が多く残されています。 

 一茶は「楳装園」をたいへん愛していました。この庭は、有名な国学者本居宣長の養子本居太平(一七五六〜一八三三)の構想によるもので、庭は回遊式で突き出た船形石など随所に特色をもたせています。一茶はこの庭を散歩したり、日向ぼっこをしながら無心に、庭ごしの大空を眺めていたといいます。特に船形石が気に入っていて、この石にひっくり返ってもの思いに耽っていました。そんなことから、いつの間にかこの石を「一茶の座禅石」と呼ぶようになりました。

 この頃の一茶の生活は、不運なもので、年若い妻、菊との間に出来た三男一女をことごとく失い、自らも中風に倒れ、しかも六十一歳の時、菊にも死別しています。すぐに再婚しますが、間もなく離婚してしまいます。一茶が袋屋の楳装園で日がな一日、もの思いに耽っている気持ちがわかるような気がします。

 一茶と梅堂・梅塵父子の交遊は深く、一茶にまつわるエピソードがたくさん残されています。