程々庵祝句帖
元旦や上々吉の浅黄空
二日
子だからが棒を引ても吉書かな
じっとして馬にかがるる蛙哉
文政八年正月 一茶
今も、その当時一茶が残した遺墨が多く残されています。
一茶は「楳装園」をたいへん愛していました。この庭は、有名な国学者本居宣長の養子本居太平(一七五六〜一八三三)の構想によるもので、庭は回遊式で突き出た船形石など随所に特色をもたせています。一茶はこの庭を散歩したり、日向ぼっこをしながら無心に、庭ごしの大空を眺めていたといいます。特に船形石が気に入っていて、この石にひっくり返ってもの思いに耽っていました。そんなことから、いつの間にかこの石を「一茶の座禅石」と呼ぶようになりました。
この頃の一茶の生活は、不運なもので、年若い妻、菊との間に出来た三男一女をことごとく失い、自らも中風に倒れ、しかも六十一歳の時、菊にも死別しています。すぐに再婚しますが、間もなく離婚してしまいます。一茶が袋屋の楳装園で日がな一日、もの思いに耽っている気持ちがわかるような気がします。
一茶と梅堂・梅塵父子の交遊は深く、一茶にまつわるエピソードがたくさん残されています。
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