小林一茶と信州中野
江戸時代後期の俳人・小林一茶(一七六三〜一八二七)が故郷柏原(現信濃町)に帰り、居を構えたのは、文化九年(一八一三)の暮れも押し迫った十二月、一茶五十歳の時でした。

 一茶にとって流浪に等しい江戸での生活と違って、故郷での暮らしはそれなりに充実していました。


楳装園
 すでに晩年を迎えている一茶は、江戸仕込みの俳諧師として有名で、北信濃の俳壇に歓迎され、しだいに多くの人々との交流が盛んになっていきました。小布施・六川の梅松寺住職知洞や陣屋の椎谷藩士大綾、湯田中(山ノ内町)の門人湯本希杖・其秋父子、夜間瀬(山ノ内町)の四人衆、坂口楚江、中島雲里、柳沢貞淳、小林邑雪らがその頃の一茶の交友たちで、一茶は谷街道や草津街道を行き来して、小布施や湯田中で盛んに句会を催しています。
一茶の茶室(程々庵)

その頃、信州中野では漢詩創作活動が盛んで当家袋屋の当主蘭腸を中心に、晩晴吟社を結成し、中野草堂というサロンで、漂白の詩人柏木如亭の指導を得て、蘭腸をはじめ畔上聖誕、山田松斉、鎮目潮生、木舗百年らが盛んに詩壇活動を行いました。晩晴吟社の活動が江戸に知られるようになると、頼山陽をはじめたくさんの名士が中野を訪れています。


梅塵宛の一茶の手紙 (クリックで拡大)