祭 辞 典
御車山 神 輿・御 輿 神輿各部の名称
神輿の担ぎ手の衣装 神輿の担ぎ方 神輿洗い
宮神輿
本社神輿
町神輿 神輿振り
神輿の担ぎ方 御 饌 (みけ)
御 贄
 (みにえ)
神 酒
(みき、しんしゅ)
見 頃・裑
(みごろ)
水 屋 御正体
(みしょうたい)
三ツ車 御綱助 (みつなのすけ)
御綱取
瑞籬・瑞垣・水垣
(みずがき)
御 饌 (みけ)
御 贄
 (みにえ)
箕 甲
源 頼朝 源 義経 源 頼義
源 頼政 源 頼光 鎮西八郎為朝
源 為朝
八幡太郎義家
源 義家
三柱鳥居
(みはしらとりい)
御 代
(みよ)
宮 居
(みやい)
弥 勒
みろく人形・みろく
三輪山
(みわやま)
民俗文化財
神 宮箕媛命・美夜受比売
(みやずひめのみこと)
御毛沼命
(みけぬのみこと)
妙見菩薩
(みょうけんぼさつ)
御穂須々美命
(みほすすみのみこと)
名 前 説   明
御車山 (みくるまやま)
神輿・御輿 (みこし) 神さま(御神体・御霊代)の乗物として、神さまの分霊を乗せて町内を渡御する。東京では、明治以降、神輿が祭りの主役になっている。
このHPでは、特別の場合を除いて「神輿」と書く。
ガイダンス→神輿
宮神輿・本社神輿 神社が所有する神輿で、神社の御神霊を乗せて巡行する。一般に1~3基を所有し、合祀されている神体を別々の神輿に乗せ、一之宮、二之宮などと呼び渡御する。
品川神社では、古い神輿も残されており、その数は多い。古い神輿は、渡御しない。
ガイダンス→神輿〕
町神輿
本来神輿(宮神輿・本社神輿)は、神の乗物であり、その神の氏子に限って触れることが許された。氏子中でも喪中の人や女性は触れることはできなかった。町神輿は、この神輿(宮神輿、本社神輿)に対し、いわば後継者の練習用の樽神輿・子供神輿が次第に大きく華美になったとされるもの。天下祭に町神輿はなく、天下祭が消滅した後に山車の代わりとして登場した。1町内に子供用なども含め複数基所有している。三社祭などでは、各町内の100基以上の町神輿が渡御する。
ガイダンス→神輿〕
神輿振り (みこしぶり)
渡御で神輿が氏子に担がれて町内を練り歩くのは、神さまに町内を見ていただくためといわれている。この渡御中に神輿を上下左右に振り動かして荒々しく扱うことがあり、これを「神輿振り」という。これは、神輿に御座されている神さまの「魂振り」(たまふり)で、これにより神さまの霊威を高め、豊作や豊漁、疫病が退散するとされている。また、海などに神輿を担ぎ入れることもあるが、これは一種の禊(みそぎ)神事と考えられている。 素盞雄神社の天王祭の神輿振り
神輿の担ぎ方


関東に多い町神輿の担ぎ方は、江戸前担ぎが多いが、各地方でそれぞ特色ある担ぎ方もある。
いくつかの担ぎ方を右に紹介する。



宮神輿は、台車に載せて牽く祭りが多いが、白帳などを着た白丁がしずしずと担ぐのが一般的である。
中には、激しく神輿振りをしながら担ぐ祭りもある。
また、東京
江戸前担ぎ
担ぎ手は、全員前向きで、つま先を立て腰で調子をとりながら前進する。神輿が上下し、神輿に付けた鈴などをシャンシャンと鳴らしながら渡御する。担ぎ手の息が合うと、見た目はもちろん格好よく・威勢よく見えるし、担ぎ手も神輿を担ぐ醍醐味を味わえるという。
江戸前担ぎは、担ぎ手全員が進行方向を向くため、駕籠や棺と同じ担ぎ方のため「雲助担ぎ」「とむらい担ぎ」などといい、独自の担ぎ方を擁護する地区もあるというが、担ぎやすく、見た目もよいため、今では関東地区に広く広がっている。
深川担ぎ (深川八幡祭り)
担ぎ方
1.平担ぎ:担ぎ方の基本で、肩に神輿を入れ、腰を伸ばし細かく早駆け足で担ぐ。
2.もみ上げ:「モーメ・モーメ」の合図で、神輿を頭上高く持ち上げ、「メー」で一気に腰まで降ろす動作を2・3回繰り返す。交差点や深川八幡宮の前で行う。
3.差し上げ:もみ上げの後、降ろした神輿を高く差し上げ、「サーセ・サーセ」の掛け声とともに、片手で支えながら、別の手で担ぎ棒を叩きながら右回りする。
4.差し切り:差し上げをしたまま回転せず直進する。清洲橋や永大橋を差し切ったまま渡る神輿が多い。これは、江戸時代にあふれる見物人の重みで、永代橋が崩落したときに死んだ人の霊を慰めるために、永代橋では差し切ったまま渡るようになったという。
5.舞い上げ:もみ上げのあと、「メー」で神輿を高く放り上げ、腕を伸ばしたまま受け止める大技で、できる町会は少ないという。
掛け声
深川八幡祭りの掛け声は、昔ながらの「ワッショイ」である。「ワッショイ」は、みんなで力を合せて神を背負う「和を背負う→ワッショイ」ことが語源という。
行徳担ぎ (行徳三社祭)
天下一品」といわれる。担ぎ手は、もみ手と呼ばれる24人と音頭取り(指導者)は2人にきまっている。担ぎ手の衣装は、白装束(白帳)・白足袋に手首にさらしを巻く。女性は、担げないという。
「前だ、前だ」と声を掛け合ったことから始まったといわれる「マエダ、マエダ」と声を掛け進む。四つ角などでは、次のパーフォーマンスが行われる。
1.地すり:神輿は地上すれすれまで下げ、「マワセ、マワセ」の掛け声で3回回す。鳳凰が舞い降りた状況を表しているという。
2.さし:「ヨイヨイヨイ」の掛け声で、神輿を3回片手で差し上げる。
3.ほうり受け:「ソレッ」との掛け声により、神輿を高く放り上げたあと、受ける動作を3回行う。24人のもみ手の気持ちが合わないと危険をともなう大技。高く放り上げるのは、鳳凰が飛びたつ状況という。
これら地すり・さし・ほうり受けを続けて行う祭りは、3年毎の行徳三社祭(堀江・清瀧神社、猫実・豊受神社(神明宮)、当代島・稲荷神社の合同祭)で行われるが、浅草で行われる(不定期)江戸神輿大会でも見られることがある。
城南担ぎ (品川神社例大祭、荏原神社例祭など)
城南神輿
城南地区の品川、鮫洲、濱川、磐井、大森美原、大井、山王、五反田、戸越、奥沢などの祭りの神輿は、江戸前の神輿と違いが多い。まず、2本の縦棒(台棒)は台輪の棒穴に通さず(穴がない)、縦棒の上に台輪を載せる。棒穴がある台輪を「中通し台輪」、穴のない台輪を「品川輦台台輪」と呼ばれている。
その縦棒の上に4・6本もの横棒が載せてある。横棒の担ぎ手は、棒の方向に担ぐため、神輿の進行方向に対し横向きになり、横歩きとなる。横棒が多いのは、品川神社の急な長い石段では、棒が滑らず担ぎやすいが、平地では担ぎにくそうである。
また、激しい城南担ぎに神輿が耐えるため、神輿の中心に心棒があり、この心棒で屋根と台輪を締め上げてある。飾り綱も屋根と台輪を縛るように、締め上げてある。
屋根には、昔、海中渡御で、神輿の屋根の上で、足を掛けて大拍子や篠笛を演奏した名残の吹き返しが付いている。
担ぎ方
神輿は、神輿に付けられた大拍子と篠笛による品川拍子にのり、「ちょいちょい」といわれる「城南担ぎ」で渡御する。この担ぎ方は、もと漁師町であったこの地区独特のもので、波にもまれる舟を表したともいわれる小刻みに激しく神輿をもむ担ぎ方である。品川神社例大祭、荏原神社例祭では、締め込み1本の担ぎ手が多く、目立つこともあり、肩に大きな瘤がある担ぎ手が多いのは、この「ちょいちょい」担ぎが原因と思われる。
どっこい担ぎ (湘南地区)
「ドッコイ・ドッコイ」「ドッコイ・ソーリャ」などと声を掛けながら、箪笥を叩いてリズムを取り渡御する。
素盞雄神社・天王祭の担ぎ方
二点棒(2本の縦棒のみ)の神輿で、左右に大きく振る「神輿振り」で渡御する。担ぎ手は、二点棒の 内側に頭を入れて、前後で向かい合い、笛の合図で片側の担ぎ手がしゃがみ、反対側が伸びることにより、神輿を大きく左右に振る。神輿の下には肩で台輪を受ける人が2人づつ入っているが、非常に辛い役割である。もちろん、振りすぎを防ぐために、両側に「屋根受け」と呼ばれるひとがおり、屋根を受け止めたり反対側へ押し返す。
迫り持ち担ぎ (川崎山王まつり)
担ぎ手全員が神輿に背をむけ、肩から首の後ろの方で迫り上げるようにする担ぎ方から、「迫り持ち担ぎ(せりもちかつぎ)」と呼ばれる。全員が背をむけるのは、神様に息がかからないようにとか、神輿を落としても逃げられるようにとかいわれている。
また、担ぎ手は、全町内の氏子の代表が一堂に担ぎ全町内を渡御する。もちろん代表は、交代する。この担ぎ方は「総持ち」と呼ばれるている
四谷担ぎ (須賀神社)  ちどり担ぎ (熊野神社)
江戸前担ぎに似るが、掛け声が昔からの「サッサッサー、サッサッサー」「ドシタイ、ドシタイ」「オイサ、ホイサ、チョイナ」などや担ぎ手は台棒の上に乗らないなどの違いがあるという。
三ツ車 (みつぐるま)  
水 屋 (みずや) 住吉神社青梅大祭などで呼ばれる荷茶屋のこと。花車とも呼ばれる。〔荷茶屋(にないじゃや〕参照。
神輿各部の名称 ガイダンス→神輿。
源 頼朝
 (みなもとのよりとも)
1147~1199。義朝の第3子。母は熱田大宮司藤原季範の娘。平治元年(1159)の平治の乱で敗れ、父と共に東国に逃れる途中、捕らえられて伊豆蛭ヶ島に流された。治承四年(1180)以仁王の令旨をうけて挙兵し、初戦の石橋山合戦で敗れたが、富士川の戦で大勝した。鎌倉を根拠地として武家政治の基礎を固め、幕府を開いた。源家の氏神である鶴岡八幡宮を祀り、道路整備、村里に号を授けるなど、鎌倉の街を作った。一方、弟範頼・義経に木曽義仲、壇ノ浦で平氏を滅亡させ、奥州を征伐した。その後守護地頭の制を定め全国当時の基礎を作った。右近衛大将、征夷大将軍となり、東大寺再建供養にのぞみ、その威容を京畿に示した。
鎌倉に建立した寺院は、勝長寿院・永福寺であったが廃絶した。

ガイダンス→源氏武士の人形〕
源 義経
九郎判官 義経・牛若丸・遮那王

源 義経は、幼名を牛若丸といい、7才で平清盛から逃れ鞍馬山の別当東光坊へあずけられた。文武に励み古い唱歌に「前やうしろや右左、ここと思えば又あちら。燕のような早業に、鬼の弁慶あやまった」ともあり、また、芝居などでは眉目秀麗な小柄で色白な貴公子と描かれている。
成人したあと平家討伐などにめざましい働きをしたが、兄頼朝に妬まれ東北に逃れ、若い命を終えた。
この義経の薄命な英雄に対し、日本人の弱者や敗者に対する同情や贔屓が伝統的な美学になった。これを指して、「判官贔屓」などという。
15才頃の鞍馬時代の遮那王を吉川英治は、「親鸞」のなかで次のように表現している。
「15才にしては小つぶである。指で突いたように、頬にはふかい笑靨(えくぼ)がある。歯が細かくて、味噌っ歯の質だった。なつめのように、くるりとしてよくうごく眼は、いかにも、利かん気と、情熱と、そして、やはり源家の家系に生まれた精悍な血潮とを示している。」
愚禿親鸞(幼名:十八公麿・まつまろ→善信)は、義経の又従兄弟。
ガイダンス→源氏武士の人形
1123
~1160
保安2~
永暦元年
●義経の父・源義朝は、清和源氏の祖である経基6代の孫為義の長子として生まれた。義朝は、1156年の保元の乱で平清盛とともに後白河天皇方について崇徳上皇軍を破る。
1159 平治元年 ●義経誕生。源義朝と常盤との間の今若、乙若につづく第3子(義朝の第9子)として誕生し、牛若と名付けられた。
●平治の乱起こる。藤原通憲(信西)と藤原信頼、源義朝と平清盛の勢力争いが原因で、信頼は義朝と、通憲は清盛と組んで戦ったが、源氏が平氏に破れ、信頼は斬罪、義朝は東国へ逃れる途中に尾張で譜代の家来である長田忠致に謀殺された。
鞍馬時代 ●牛若丸鞍馬山へ入る。平治の乱の後、平清盛の常磐の3人を殺す計画を知った常磐は、大和の国宇陀に逃れ、外戚を頼ったが禍を恐れ断られた。このとき、常盤の母・関屋も平氏に捕まっており母と子のどちらかを撰ばねばならぬことに悩み、清盛に助けを懇願すると、美人の常盤に心をうつした清盛は母と子を赦免した。
今若と乙若は寺に預けられ、牛若は4才頃に京都の山科に移り、7才で鞍馬山の別当東光坊に預けられた。
牛若は読書や仏教など学んだ。
16才頃の牛若を正門坊が現れ、牛若の素性を教えた。それを契機に平家討伐を誓い武芸に力を入れた。
夜には、山奥の僧正ヶ谷の貴船神社で祈願し、現れる物怪を相手に、武芸の腕を磨き神業を身に付けた。
東光坊は出家させようとしたが叶わず、牛若丸を遮那王(しゃなおう、大日如来・毘盧遮那に因んだ名前)と改めた。
その後、黄金商人で奥州へ出入りしていた吉次信高が訪ねてきて、藤原秀衡が会いたがり、源平の戦いがあれば秀衡の18万騎を源氏に味方させることなどを伝えたところ、遮那王は奥州下りを決意した。
1160 永暦元年 頼朝(義朝の第3子、義経の兄)14才で伊豆へ配流。
1167 清盛(50才)太政大臣になる。
1174 承安4年 ●義経奥州へ下る。16才の遮那王は、笛の音を霧に靄る鞍馬山に響かせながら鞍馬を出て奥州へ下る。
奥州の白河関から藤原秀衡の領地までは苦難の旅であった。
途中、熱田神宮に立ち寄り元服を済ませ、源九郎義経と名を改めた。
平泉に着くと、秀衡は黄金の鳩が舞い込む吉兆の夢を見たといい、義経一行を歓待した。
1180 治承4年 ●頼朝虚へ挙兵。後白河法皇の皇子以仁王(清盛に気づかれ討たれた)の呼びかけが契機となり頼朝挙兵し平維盛を将と平家と富士川河口で戦った。平家軍は水鳥の羽音に驚いて敗走した
●義経鎌倉へ。頼朝の挙兵を知り、義経は武蔵坊弁慶や伊勢三郎義盛、佐藤継信・忠信兄弟らと奥州から駆け続け配下は1/3ほどに減ったが、駿河国の黄瀬川で頼朝に面会した。兄弟は共に涙したという。
●木曽(源)義仲挙兵。
1181 ●清盛没(64才)。平家政権壊滅。
1183 寿永2年 ●義仲京入り。義仲は越後などを抑えた後、京へ一番乗りした。京の人は義仲を「旭将軍」といい歓迎したが、この年は飢饉で軍勢のため益々食料が不足し、義仲を恨んだ。
●平家都落ち。三種の神器を安徳天皇に返し、西国へ都落ち。
1184 寿永3年 ●義仲戦死。頼朝は義経とその兄範頼に軍勢を与え、義仲討伐を命じた。義仲は攻め立てられ31才で近江で戦死。
●義経一ノ谷の合戦で勝利。平家討伐を頼朝に命令された義経と範頼は、西と東に別れ、福原平氏を一ノ谷から挟み討ちにし、摂津の藍那から鵯(ひよどり)越えをして一ノ谷の裏山に辿り着いた義経は、崖下の平氏を崖上と崖下から攻めるために二手に分けた。義経と土肥実平は、夜明けを待ち攻撃を開始、義経の軍勢は、馬ごと崖を駆け下りて平氏の陣へ攻め入った。不意をつかれた平氏は、広がる火の手から追い立てられるように海になだれ込み、船で瀬戸内海を渡り、屋島へ逃げた。
しかし、頼朝は義経を労わなかったばかりでなく、判官に付いた義経をなじった。
1185 元暦2年
文治元年
3月24日
●壇ノ浦の戦い。頼朝の命令で、総大将の義経は、平家討伐に出陣した。屋島には平家の赤色の旗がはためき、多くの軍船がいた。50騎ばかりの義経軍は、源氏の白旗を林立し軍勢を誇張したが、最初驚いた平家も体制を整え、弓の名手能登守教経が義経へ矢を放った。一本が義経の前に立ちはだかった佐藤継信の鎧を貫き、義経は助けられた。平家は屋島を見放し、彦島へ逃れた。
3月24日源平最後の戦いとなる壇ノ浦において、潮の流れに阻まれた義経軍は、義経の船頭を射落とす妙案が功を奏し、平家を切り崩した。
観念した中納言知盛が壇ノ浦の海に身を投げ、8才の安徳天皇も、祖母の二位尼に抱かれて入水し、源平の合戦は集結、平家は壊滅した。
●義経への褒美。数々の手柄をたてながら、頼朝がいる鎌倉へ入ることを拒まれた。のみならず、謀反の廉による刺客や軍勢が差し向けられた。
義経の戦歴を恐れたか、平家の残党の娘を妻に迎えるなどが原因かは不明ながら頼朝の仕打ちは悲しいものであった。
●義経都落ち、吉野山へ落ちる。危険を感じた義経は、西方を目指したが船が嵐に遭い押し戻され、摂津に待ち構えていた頼朝の軍勢と戦い勝利した。
1186 文治2年 ●吉野山へ入る。静御前捕らえられる。頼朝の追跡が厳しくなり、家来と別れて、静御前や弁慶・佐藤忠信などとともに吉野山へ入った。しかし、先行きを案じ、静御前を京へ返したが途中で金品を家来に持ち逃げされたあげく、頼朝の追っ手に捕らえられた。鎌倉へ連れて行かれ義経の男子を出産したが、頼朝に海へ投げ込まれた。悲しみのどん底の19才の静御前は、断髪して我が子を弔ったが、20才で一生を終えた。
●義経吉野山を下る。頼朝の攻撃を恐れた僧侶たちの義経討ち取りの計画を知り、吉野山を下り、奥州平泉へ逃れた。途中、頼朝が敷いた包囲網のため、義経の逃避行は悲惨であった。秀衡は、義経の奥州入りを歓迎し、かくまい続けた。
1187~
1188
文治
3~4年
●秀衡没。義経を支援し続けた秀衡が病死。義経の支援が弱体化。
1189 文治5年 ●義経追討の手は止まず、宣旨・院宣が下され、義経討伐の院宣が下された。
●高館の戦い。泰衡(秀衡の子)が家来の長崎太郎を大将にして軍勢を義経の居館高館へ向けた。義経の数少ない手勢はみんなよく戦ったが、とくに弁慶は、鎧をまとい大長刀をふるい戦ったが、多勢に無勢、最後には喉笛を打裂かれて全身を赤く染めながら、持仏堂に籠もる義経に最後の別れを告げた。その後戦場へ戻り大奮戦するが、受けた矢は数知れず、全身矢だらけになり戦い、最後に長刀を突き立て、仁王立ちになり笑ったかと思うと息絶えた。
●義経の自刃。31才の義経は、衣川の持仏堂で守刀で自害した。
●頼朝奥州藤原一族を滅ぼす。泰衡は義経の首級を頼朝のもとに届けたが、義経をかくまった罪があるとして、自ら大軍を率いて鎌倉を発った。泰衡は頼朝が到着する前に居館に火を放って北へ逃れたが、元の郎従河田次郎に攻め殺された。泰衡の首級は、中尊寺金色堂に清衡、基衡、秀衡の遺骸とともに納められている。
壇ノ浦(山口県下関市):源平合戦最後の戦場
屋島(香川県高松市):壇ノ浦とともに源平古戦場
彦島(山口県下関市の関門海峡西口にある島):源平合戦の平家方陣地
源 頼義
 (みなもと よりよし)
988~1075(永延2~承保2)。平安中・後期の武将。源 頼信の長男。父に従い平忠常を討ち、相模守となる。後に陸奥の豪族安倍頼時・貞任父子を討ち、陸奥を平定し伊予守に任じる。坂東武士に名声を得、源氏の地歩を確立した。晩年剃髪して世に伊予入道という。
射芸の達人と知られる。鶴岡八幡宮を創建した。
ガンダンス→源氏武士の人形〕
源 頼政
 (みなもとのよりまさ)
1104~1180。平安末期に、摂津国渡辺(現大阪市中央区)を本拠とした摂津源氏の武将。摂津源氏源仲政の長男。兄弟に頼行・光重・泰政・良智・乗智、三河・皇后宮美濃がいる。18才のとき、国守に任ぜられた父に同行し、下総国(千葉県)で過ごす。その後、父より所領を譲られ、白河法皇にぬきんでられ兵庫頭。保元・平治の乱に功をたてた。漸次昇進し、1178年(治承2)には、平清盛の奏請により従三位に叙された。剃髪して世に源三位入道と称した。のちに、高倉宮以仁王(後白河院第二皇子)を奉じて平氏政権に兵を挙げるも事破れて宇治平等院で切腹。
歌に秀で、家集「源三位頼政集」を編纂。
宮中紫宸殿上(平安京内裏の正殿)で鵺を退治した話は有名。
ガンダンス→源氏武士の人形
源 頼光
 (みなもとのよりみつ)
948~1021。平安中期の武将。清和源氏満仲の長男。摂津源氏の祖。摂津など諸国の受領を歴任。驍勇を以て称され、内蔵頭、左馬権頭、東宮権亮などに上り詰めた。
また、若くして武勇は知られ、渡辺綱、坂田公時などの頼光四天王の話は、「今昔物語集」などの説話集や軍記に多く書かれている。四天王は、能の大江山の鬼退治や御伽草子の酒呑童子征伐などの武勇伝が多い。また、能の土蜘蛛も頼光の武勇伝である。
ガンダンス→源氏武士の人形
鎮西八郎為朝
源 為朝
1139~1170。源為朝の通称。平安末期の武将。為義の8男。豪勇で、射術に長じ、九州に勢力を張り、鎮西八郎と称。保元の乱には崇徳上皇方につき、敗れて伊豆大島に流罪。のち、工藤茂光の討伐軍と戦って自殺。
ガンダンス→源氏武士の人形〕
八幡太郎義家
源 義家
1039~1106。源義家の通称で源頼義の子。石清水八幡で元服したことからいう。
ガンダンス→源氏武士の人形〕
神酒・御酒
 (みき、みわ、しんしゅ)
御神酒・お神酒
 (おみき)

神道で神に供える酒をいい、瓶子(へいし)に入れて供え、神饌には欠かせないものである。“みき”は、酒の美称で、一般には“御神酒”という。
祭礼などで、神酒を頂くのは、神と同じものを飲食するという意味と、酒に酔うことで非日常の境地に入り神との交流を深めるという意味もあるという。
神酒には、白酒(しろき)・黒酒(くろき)・清酒(すみさけ)・濁酒(にごりざけ)などがある。白酒などの“き”は、酒の古語で、白貴・黒貴とも書く。
また、延喜式では、白酒は神田で採った米で作った酒を濾したもの、黒酒は白酒に草の根の焼灰を加えて黒く着色した酒と記載されているという。
(出典:Wikipediaなど)

神輿洗い
 (京都八坂神社祇園祭)
京都八坂神社の祇園祭の神幸祭と還幸祭で巡行する神輿を期間中2回鴨川の水で清める行事。
八坂神社祇園祭の神輿洗いは、八坂神社の神輿3基のうち主神をまつる中御座を、夕方、氏子など約150人が担ぎ四条大橋へ行き、橋の上で神職による祝詞のあと、朝のうちに鴨川からくみ上げておいた水を榊に浸して神輿に振り洗い清める。飛び散る水が見物人にかかると厄除けになるという。
この行事に倣い各地の祇園祭などでも同様の行事が行われることもある。右絵は、秩父川瀬祭の神輿洗い。
秩父川瀬祭の神輿洗い
箕 甲
切妻屋根や入母屋屋根などの照り屋根(反り)において、屋根の面の照りと破風板の照りの曲率の違いを埋める曲面。 箕甲
宮 居 神の鎮座、また、その場所(神社)をいう。
皇居をいうこともある。
三柱鳥居 (みはしらとりい)
鳥居を3基組み合わせたもので、隣り合う鳥居同士が柱を共有するため、柱は3本。
木嶋神社(蚕の社、京都府京都市)にあるものなどが有名。
右絵は、墨田区三囲神社の三柱鳥居。
三柱鳥居
御正体
 (みしょうたい)
円形の銅鏡に神像・仏像・梵字などを彫ったり鋳だして、神社・寺院に奉納して礼拝した。鏡は、三種の神器のひとつでもあり、神社の神体として祀られることもあったが、神仏混合で本地仏の像や種子が描かれるようになった。鎌倉・室町時代には、御正体を懸仏(かけぼとけ)として内陣にかけて拝んだ。
また、神体や本尊を敬っていうときにも使う。
御綱助
 (みつなのすけ)
御綱取
平安時代以後、天皇の行幸のときに鳳輦の綱をとる近衛の中将や少将が担当した役。

右絵は、日枝神社・山王まつりの神幸祭で巡行する鳳輦の御綱を取る御綱助。(先頭の2人)
日枝神社・山王まつりでの鳳輦の御綱助
三輪山 (みわやま) 三諸山(みもろやま)ともいいい、奈良県桜井市北西部にある標高467m、周囲16kmのなだらかな円錐状の山。
古来、自然物崇拝をする原始信仰の対象で全山が大神(おおみわ)神社の神体とされている。古墳時代には、山麓に多くの古墳が作られたことから、この一帯にヤマト政権初期の三輪政権(王朝)が存在したとされている。
古墳には、第十代・崇神天皇(行灯山古墳)、第十二代・景行天皇(渋谷向山古墳)の陵もあるとされ、また、箸墓古墳(はしはかこふん)は「魏志倭人伝」にある邪馬台国の卑弥呼の墓ではないかともいわれている。
「記紀」には、三輪山伝説として、奈良県桜井市にある大神神社の祭神・大物主神(別称三輪明神)の伝説を載せている。このことから三輪山は、神の鎮座する山で、大神(おおみわ)神社の神体(神奈備、かむなび)とされている。
従い、立ち入り禁止で、江戸時代には幕府の厳しい政令により神社の山札がないと立ち入ることができなかった。
明治時代には「入山者の心得」が制定され、現在はこの規則を遵守すれば誰でも入山できる。
瑞籬・瑞垣・水垣
 (みずがき・みずかき)
玉垣 (たまがき)
神垣 (かみがき)

斎垣 (いがき)
神社などの周囲に設けた垣根。また、神霊の宿ると考えられた山・森・木などの周囲に巡らした垣。
特に玉垣は、垣が二重にあるときは外側のものをいう。
弥 勒 (みろく)
みろく人形・みろく
弥勒 一般に“ 弥勒 ”は、弥勒菩薩をいい、兜率天(とそつてん)の内院に住み、釈迦入滅後、56億7000万年後の未来の世に仏となってこの世にくだり、衆生を救済するとされる菩薩という。また、弥勒仏インド仏教の二大系統の一つで、瑜伽行(ゆがぎょう)派の祖をいう。

 ここでいう弥勒は、みろく人形・みろく・彌勒とも書き、石岡のおまつり、美野里町竹原神社祇園祭など茨城県北部に見られる無病息災、五穀豊穣などを祈願する滑稽な人形の踊りをいう。
 弥勒は、能楽の最初に演じられる翁の父尉(釋尊)・翁(文殊)・三番(弥勒)をかたどったものが、翁式三番叟になったのが原型ともいい、3体、6体があり、顔色が赤、青、黄、紫、白や冠を付けた人形で、底抜け屋台(櫓)などに載せ、神幸祭の行列で巡行しながら舞う。囃子や口上は、あったりなかったりする。
 棒ささらと同じように、棒の先に付いた人形を操る。

絵は、ひたちなか・みなと八朔まつりの弥勒で、第二代水戸藩主・徳川光圀(水戸黄門)が、天満宮の社殿・御神体を新造したときに、東照宮の祭礼を模して、現在の形式に改めて以来、弥勒が行われるようになったという。
 白(右端)が住吉明神、青(中央)・春日明神、赤(左端)・鹿嶋明神の神をあらわし、「町渡し」(神幸祭の巡行)などで、屋台(車輪付き)に載せ3体がそれぞれ踊りを奉納する。

石岡市木之地町の弥勒
 明和年間(1764~1771)の祭礼次第に「五番・木之地みろく」と書かれている古くに行われていた行事とされる。昭和9年(1934)の祭礼で、保存されていた数体の人形を修理し、不足分の人形と屋台を竹原から借りて、祭礼に出したとされるが、その後行われていない。
 現在は、祭礼時に、K氏が復活した6体の弥勒人形が会所に飾られるだけで巡行や踊りは行われていない。

水戸市大野町のみろく
 下大野町に伝わるみろくの起源は、水戸藩第2代藩主徳川光圀が領内巡視中に、橋の下で3体の人形を発見し、町民に渡ったものとされる。
 みろくは3体で、竹竿の先にみろく人形を付け、底なし屋台で舞う。顔の青い1体は扇と幣束を持ち「鹿島さま」、赤い顔の1体は太鼓を持ち「香取さま」、黄色の1体はつつこ(俵)を背負い「春日さま」と呼ばれている。
 大太鼓・小太鼓・鉦・笛・唄の囃子に合わせて滑稽に踊り、五穀豊穣を祈る。踊る様子が、子供が駄々をこねる様子に見えることから、「大野の駄々みろく」とも呼ばれた。
御毛沼命
 (みけぬのみこと)
神武天皇の三男。高千穂神社の主祭神。盗賊の鬼八を退治し、阿佐羅姫を妻とした。
妙見菩薩
 (みょうけんぼさつ)

菩薩とは、サンスクリット(インド~ヨーロッパ語族のインド語派に属する古代語)の“ボディサットヴァ・bodhisattva”の俗語のbto-satの音訳の“菩提菩埵”からきた言葉で、悟りを開いて、仏になろうと発心し、修行に励む人の意味である。しかし、妙見菩薩は妙見大士、北辰菩薩、尊星王ともいい、他の普賢菩薩や文殊菩薩などと違い、中国の星宿の考え方による北極星を神格化し道教の思想が仏教に入り込んだもので、大黒天や毘沙門天・弁財天と同じ天部(天界に住む者の総称)とされる。
古代中国では、北極星は天帝(天地・万物を支配する神)と見なしていたところへ仏教思想が入り菩薩の名が付けられ、妙見菩薩と呼ばれるようになった。
妙見菩薩は、天之御中主神と習合されたが明治維新の神仏分離令によって、神社には天之御中主神として祀られ、妙見菩薩は日蓮宗の寺院に祀られることが多い。

御穂須々美命
 (みほすすみのみこと)
所造天下大神命(大穴持)が高志の国の神奴奈宜波比賣(ぬなかわひめ)を娶して生んだ子神。新潟県糸魚川市の奴奈川神社の祭神。
宮箕媛命 (日本書紀)
美夜受比売 (古事記)
 (みやずひめのみこと)
日本武尊の妃。日本神話に登場する尾張国造の乎止与命(おとよ)の娘。父の乎止与命は天火明命(あめのほあかり)の子孫。
日本武尊が東国平定の帰路に尾張に滞在の際に宮箕媛命を娶る。日本武尊が能褒野で身罷ると、日本武尊から預けられた天叢雲剣(三種の神器の草薙の剣)を奉斉鎮守するため熱田神宮を建立した。
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