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切ないだとか、そう言う言葉を陳腐に感じる瞬間がある。其処に言葉という物はなくなって、想いだけが蟠る。 伝える術のない想いが。 言葉で全部を伝えられたらきっと苦しくないのに。 伏せられた鳶色の瞳が、そっと静かに閉ざされた。 「寝てる?」 背の低いソファの背もたれに手をかけて、後ろから小さな頭が覗き込んだ。 恐る恐ると言ったていで、華奢な手のひらがそっと白い美貌に触れた。細い指先が薄い瞼にしなだれかかる漆黒の髪をかき分ける。 「――寝てない」 あまり上機嫌とは云えない、綺麗なテノールが響くと同時に、麻衣が触れた白い瞼がそっと震えた。 寝ては居なかった。うとうとしていた自覚はあったけれど。 開かれる瞼から漆黒の瞳が顕れる。その瞳が右目だけ、覗き込む麻衣を見上げて、今度こそ不機嫌な声が響いた。 「麻衣」 綺麗な声はそのままに、宿る温度だけが下がる。 けれどそんなことで自分は今更へこたれるようなつき合い方は彼とはしていない。 可愛い顔がにっこりと笑んで、麻衣はナルが開こうとした左目を、白い瞼の上から押さえた指を離さなかった。 「うたた寝してたでしょ?」 「――してない」 「嘘だ」 左目だけを押さえられて視界の中の麻衣の姿が端の方だけ欠けていた。不機嫌な声を隠そうともせず、それなのににこにこ笑って居る麻衣をナルは軽く睨んだ。 「だって気が付かなかったでしょ?あたしがここに居ること――玄関で一度呼んだのに」 ひんやりとした肌に触れる華奢な手はほんのりと温かい。自分とは明らかに違う造りの手は、彼女が異性であることを知らしめる。 そう言えば、剥離しかけていた現実から何かに、誰かに呼ばれたような気がしていた。 微睡んでいた記憶は良く思い出せない。目覚めてすぐに忘れてしまう夢のようなものだった。 ぴくりと綺麗な眉を跳ねたナルに、麻衣は満足げにははんと笑ってぱっと手を離した。 解放された左目がようやく世界を映すことを許される。 けれど解放は、本当の意味では訪れたわけではなかった。 わざわざソファを回って、麻衣が真正面からナルを見る。 「徹夜?読書?論文?」 にっこりと笑った顔だけは崩れない。 怒っている。それだけが、今ナルに向けられている麻衣の感情だった。痛いほどに感じる視線に内心沈黙して、ナルは苦く表情を歪める。 黙秘権を行使しようとした瞬間、麻衣が逸らしかけたナルの顔を小さな両手で挟んで無理矢理固定した。 「でえ?何?資料?メール?」 絶対に逃れることを許さない。 鳶色の瞳は強気にそう宣言していて、ナルは多大な溜め息と共に瞳を閉ざして、強い視線を一瞬遮断した。そんなことをしても麻衣から感じる怒りのオーラは揺るがなかったし、眉間のしわが無くなるわけでもなかったけれど。 「――論文」 ぽつり、と綺麗なテノールが遂に白状した。 それに極上の笑みを麻衣が見せる。華奢な手のひらが綺麗な頬を一瞬つねって、ナルが不機嫌に目を開くのに、鳶色の瞳が受けて立った。 「マウスとキーボード隠すからね」 ソプラノが低く、それでも宣言だけは高々に言い切った。極上の笑みがその瞬間融けて消え去る。 ナルの不機嫌さに負けない、いや、それ以上に不機嫌な問い色の瞳がぎん!と強く漆黒の瞳を睨み付けた。 「ちゃちな報復だな――」 「パソコンなんて操作できなきゃただの箱でしょ?何?それとも本体ごと壊して欲しい?」 やってみろ、と普段のナルなら言うだろう。買い言葉に売り言葉は得意中の得意分野だ。 けれど今回はそれがない。麻衣の目に宿る本気の光に気が付いたからかどうかは解らないが。 「睡眠時間三時間で生きていけるような人間が、うたた寝するほどただでさえ少ない休養の時間削って仕事しないでよ」 つらつらと小さな唇からはこれでもかと言うほど恨み言が飛び出てくる。 ここ数日、大学の方でセミナーだか何だかの旅行があって留守にしていた鬼――いや、麻衣の居ぬ間に、ここぞとばかりに仕事に浸かっていたのは、確かに事実だ。コンピュータに向かっていて、いつの間にか外が明るかったからそのまま出勤した、何て、はっきりって最近は珍しくもなんともなかった。それでも弊害は出る物らしい。 それがさっきの失態――『うたた寝』だ。はっきり眠っては居なかった。けれど意識は曖昧だった。疲れた脳が勝手に休養を求めたのだろうか。迷惑な話だ。 そこに麻衣が帰ってきた。多分おそらく、久しぶりに会えると思って。 「で、帰ってきたら部屋は暗いし?妙に静かだし?ナル寝てるし?」 予想は至極簡単に付いた。 自分の居ない間に仕事に没頭しすぎて、疲れて寝ていた。普段の睡眠平均時間が四時間で事足りる(麻衣にとっては信じられない)ナルが、だ。 リビングに入ったら、ソファにもたれている漆黒の、見慣れた影。 息すらしないような、静かに寝ているナルの姿。 「怒ってるんだからね、聞いてる!?」 ずい、と身を乗り出してくる麻衣に半ば引きながら、ナルがおざなりに頷いた。 はっきり言っていつもならこんなに素直に(ナルにとっては、だ)説教を聞いては居ない。でも今回は、悪いのは――多分、自分だ。 そして麻衣は怒っている。多分自分が出迎えに出なかったことも含めて。 そう言うときの麻衣はやりたいようにやらせておくのに限る。下手に反撃して不機嫌を増長させることもない。 そのナルの、何処かおざなりな態度に気が付いたのか、麻衣が一際強く睨んだ。 「訊いてない」 不穏な響きを宿したソプラノは存外耳の側で響いた。 「訊いて――」 る。と続くはずの言葉はぷつりと途中で切れてしまった。 華奢な腕が伸ばされて、細い身体がナルに抱き付いた。肩に伸ばされた腕が、ぎゅうと強く力を込めて、ナルの首もとに麻衣は俯いて顔を隠した。綺麗な鎖骨が白く見える。 さらさらと落ちる栗色の髪に、小さな顔は隠された。 思わず沈黙したナルは、俯いた顔を見下ろした。絶対に顔を麻衣は上げようとはせず、鳶色の瞳が見えることはなかったが。 その細い腕に篭もる奇妙な必死さに気が付いて――ナルは微かに目を瞠る。 「ナルがさ、疲れてる時ってね、凄く静かに寝るの。息とかも聞こえないくらい」 首もとに微かに吐息が当たる。回された手に、力がこもった。 「凄い厭。いや。そうやって寝てるナルは嫌い。知らないでしょ?自分がそんな風に寝るなんて」 まるで息さえしないように。 栗色の髪がさらっと揺れて、麻衣が上を仰いだ。微かに瞠られた漆黒の目を真っ正面から見つめて、奇妙な無表情がぱっと咲いた花になる。全開の笑顔で麻衣が笑って、高々とソプラノが宣言した。 「だいっきらい」 楽しさを装った声がナルに向かうと、綺麗な口元を微かにナルが曲げた。 不機嫌そうな、複雑そうな――珍しい表情に麻衣が声を出して笑った。 その声にますます不機嫌になりかけながら、ナルがゆっくりと腕を伸ばして麻衣を囲み込む。それでも不機嫌は直らなくて、わざと怒った笑顔で麻衣は続けた。 「もうちょっと賑やかに寝てくれればいいのに。何であんなに静かなの?」 「どんな寝方だ、それは――」 明らかに呆れを含んだテノールは、もう一度強く抱き付いてきた栗色の頭の上にぽつんと落ちてしまうのみだった。 その顔が伏せる一瞬の鳶色の瞳を見て、微かに漆黒の瞳が伏せられる。 麻衣は俯いたままで、少し低めの、でも確かに人の体温をした鼓動と呼吸に、そっと身を寄せた。 馬鹿みたいだと思う。暗い部屋で、息もしていないように静かに眠るナルを見て、怒りより先に恐怖がわいた。重なったのは母の顔にかけられた白い布。その白さと重なるような――それより更に白い肌。掛かり落ちる漆黒の髪は、瞳を隠すためだけのものでしかない。彼の視線を、自分から引き離すための物でしかない。 全ては過去のこと。それなのに、今を見ないで――例え見ていても、過去を重ねてしまう弱さを、酷く厭だと思った。 心臓がどきどきして、小さな唇を強く噛みしめたことにも気が付かないで、麻衣はそっとソファに近づき、それから触れた。静かすぎる――それでも確かに繰り返される呼吸に、何と安堵したことか。 涙が出るほど。 そして次にわいたのが怒りだ。けれど同時に切なさだった。 首筋に回した細い腕に力を込める。白くすっと筋が通った綺麗な首筋に頬を寄せると、確かに肌の下で命を繋ぐ、血脈の音が流れている。 自分の今の心の中が酷く弱くて、いやになった。伝えきれない、伝えられない想いの欠片は、くるくると胸の中で螺旋を描いて。 切ないだとか、そう言う言葉を陳腐に感じる瞬間がある。其処に言葉という物はなくなって、想いだけが蟠る。 伝える術のない想いが。 言葉で全部を伝えられたらきっと苦しくないのに。 伏せられた鳶色の瞳が、そっと静かに閉ざされた。 厭になる。自分も、過去を重ねる弱さも。 「――麻衣」 顔を上げることを促す言葉を麻衣は無視した。こんな心を持った自分の顔を視られてたまるものかと思った。 希有な能力を持つナルは、触れることでその思いを理解し得たかも知れないが――でも自分は今、心を閉ざしている。厄介事に巻き込まれやすく、その上強力な力を制御できないのは危険だからと――精神をブロックする方法を教えてくれたのは他の誰でもない、この目の前の青年だ。 だからこそ、このブロックは強固な物だ。自分の中に想いを押し込める。力を制御する方法と、それは少し似ている。 「麻衣」 きり、と唇を噛んだ。 目を伏せて、閉ざして。 名前が呼ばれることを嬉しく思って、切なく思って。久しぶりだからだろうか――いつもより、こんな心の状態でも、それを嬉しく感じている。 華奢な体が強張って、細い腕はいっそう強くナルの首筋に回されたままだ。 ふ、っと溜め息を付いて、ナルは小さな背を囲む腕を放した。 その感触に麻衣が驚いて身を揺らす、と同時に、抗うのを許さない強い力で、綺麗な手のひらが小さな顔を包み込んだ。ぐい、と力を入れて上げさせ、ようやく鳶色の視線と漆黒の瞳が出逢った。 強く結ばれた唇はそのまま、それでも笑顔は消えていて、視線だけが何処か痛い。相変わらず不機嫌な様子を隠さない麻衣に、それ以上にその心の底にある――麻衣が隠している「心」の正体に、先程のやり取りで何となくナルは気が付いている。頑なになった心を溶かす様に白い指が目元を撫でて、微かに唇を寄せた。鳶色の瞳が見開いて、優しい感触の降りた栗色の髪をさらりと揺らす。 「――お帰り」 謝罪でもない、何でもない――ただの挨拶。「誰か」の元に「誰か」が帰ってきて、それが掛け替えのない人に、かける言葉。 挨拶を面倒臭がる黒衣の美人の意外な一言に、鳶色の瞳が大きく開かれ、その瞬間くしゃりと頑なだった、顔が崩れた。泣きそうな、それでも絶対に涙など見せない強情な。 「ご機嫌取り?無駄だからね」 そんな顔で何を言うんだか。内心溜め息を落として、それでもナルは繰り返した。 「お帰り」 麻衣の眉目が寄せられる。目を閉じて、開いて。 もう一度ナルに抱き付く瞬間、酷く泣きそうな目をして、綺麗な首筋に顔を寄せた。薄いシャツがくつろげられた箇所から綺麗な鎖骨が見えている。広い肌に頬を付けて、麻衣が吐息と共に言った。 「ただいま」 頬に触れた手が名残惜しく優しく撫でて、麻衣から離れる。 長い腕が麻衣を抱き寄せて、互いに融ける体温と、そして続く静寂に、求めていた存在に。 そっと深く、満ち足りた溜め息を付いた。 |
管理人の御礼 HP開設のお祝い、ということで頂きましたvv 由月さんの小説はほんっとうに大好きなのです。 二人の関係が、その場の空気が、透明で綺麗で。 本当に、ありがとうございました!! タイトルがイメージ壊してたらごめんなさい(号泣) ‥‥‥私にタイトル付けろというあなたが解らないわ‥‥‥由月ちゃん(涙) |
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