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序章






   プロローグ



  あなたじゃ、ない。

 あなたじゃない。
 あなたでも、ないの………。

 わたしは待っているから。
 いつまででも、どれほどでも、待っているから。
 あなただけを、まっているから。

 あなたに、逢いたいから…………。

 
 あなたじゃない。
 あなたでも、ない。

 
 あの日の約束を、守るまで。
 いつまでも。
 かわらずまっているから。

 あなた、あなただけを。


 逢いたい。

 約束を果たして、抱きしめたい。
 そのとききっと見せてくれる笑顔だけを、しるべにして。


 あなたじゃない。
 あなたでもない。

 わたしが待っているのはあなただけ。
 欲しい笑顔もあなただけ。


 だから。

 あなただけを、待つから。




 たとえ、どれだけのときが、たっても。




     †


 彼は、たまっていた書類にようやく一区切りついたことを確認して、安堵のため息をついた。

 この半月というもの、机に縛り付けられて、まったく文字通り休む間もなかったが、これで一息つける。
 まだ未決の書類もあるにはあるが、調査待ちで遅れているのであって自分の所為ではないから、うるさい当局にもいいわけが立つというものだ。それに、その調査の結果も、多分今週中には全部上がってくるだろうから、その処理もたいした問題ではない。たいして難しい調査ではないはずだし、書類を揃えればいいだけだ。
 煩わしい手続きは、あともう少しで終わる。こうるさい当局と慇懃無礼なやりとりをするのも、今月いっぱいでおしまいにできそうで、予定は順調だと言えそうだった。
 穏やかな、と称される口元が、わずかに緩む。

 そう言えば、明日は彼女が来る予定になっていた。………思い出して良かった。忘れていたら、また何を言われることやら。
 それに、そろそろ母も落ち着いているだろうから、見舞わなければ。

 そう思った、ちょうど、その、とき。
 重厚なマホガニーの扉が、軽くノックされた。
 低い音は静寂の中で重く響き、形の良いブラウンの眉が、軽く跳ね上がる。
「………誰だ?」
「ジョーンズでございます、旦那様」
 聞き慣れた、忠実な執事の声。
 有能な彼が、こんな時間に主人の邪魔をするとは考えにくい。書類が山積していた一週間前ならともかく、ジョーンズも、彼の仕事が終わりかけていることは知っているはずだ。
 軽く眉をひそめて、それから彼は口を開く。材料もないのにあれこれ考えていても、答えが出るわけではない。
「…………入れ」
「失礼致します」
 落ち着いた声とともに、音もなく、重厚な扉が開く。

 父に仕えていた壮年の執事は、引き続き自分にも仕えることが既に決まっていた。
 子供の頃から見慣れた顔に、思わず愚痴をこぼしたくなったが、「坊ちゃま」ではなくなった彼に対してジョーンズが容赦してくれるとは思えない。彼の立場は執事ではあるが、幼い頃からずっと見てこられた上に、当面は補佐役であり教育係でもあるのだから、プライドにかけても甘えたはできなかった。それに、子供じみた真似をすれば、親族や婚約者にどんなことを言われるかわかったものではない。

「いったい何事だい、ジョーンズ。こんな時間に」
 落ち着いた、穏やかな口調で聞いた彼に、執事は一礼する。
「失礼致しました。さきほどお電話がありましたので」
「電話?………当局───じゃないな。彼らが時間外まで勤勉とは思えない。ジュリアからか?」
 婚約者の名前を出した主人に、ジョーンズは首を振る。
「いいえ。ジュリア様からは、昼間に明日のご予定の確認を頂いております。そのことは夕方、旦那様に申し上げましたが?」
「もちろん覚えてるよ。予定に変更があったのかと思ったんだよ。体調を急に崩すことだってあるだろう?………彼女じゃないとすると誰だ?ロバートか?」
 友人の名前を出した主人にもう一度首を振り、ジョーンズはきっぱりとした口調で告げた。
「旦那様。私の報告は最後まできちんとお聞きください。お電話は、日本からです」
 執事の台詞に、彼は目を瞬く。全く予想をしていなかった出所だ。
「は?日本?」
「そうです。日本からの国際電話でした」
「………ああ、そういえば、ひいおじいさまが買ったとかいう別荘の調査を入れていたか。書類ができたのか?それならこんな時間に電話してこなくとも………」
「旦那様。それでしたら、明日にでも帰国して、旦那様にご報告に参るでしょう」
 再び、たしなめるような口調でジョーンズが主人の言葉を遮る。
「…………日本に行っていたのはクリストファーだったな。何を言ってきた?」
「はい。監査法人のアラン・カーティス氏と一緒に行っております。日本の、軽井沢という場所にある、おっしゃるとおり先先代、ロバートさまの別荘のことですが、多少、問題があったようです」
「問題?」
「はい。ファックスが送られて参りましたので、ご覧ください。私がご説明するより早いかと存じます」
「…………分かった」
 どう見ても、主人への報告に相応しいとは言い難い走り書きのファックスを受け取って、彼は───父を亡くして伯爵位を継いだばかりのアンドリューは、疲れたため息をついた。


   †


 Rrrrrr…………♪
 甲高い電話の呼び出し音が、夜の静寂を破る。
 
 キッチンでカップを片付けていた麻衣は、わずかに眉を寄せて、壁にかけられた時計に目をやった。
 日付が変わるまで、あと数分しかない。電話がかかってくるのに適切な時間とは言えないだろう。
 しかし、この部屋にかかってくる電話は実に八割が地球の裏側からだから、非常識とも決めつけられない。ナンバーを知っている人間は数えるほどしかいない上に、日本にいるいつものメンバーがわざわざナルの自宅に電話をしてくることは皆無となれば、電話の向こうの「誰か」はかなり限定される。
 書斎で本かデータに埋もれているナルが電話に反応するわけはないから、麻衣はほんの少し迷ってからリビングに出て受話器をとった。放置するという手もあるが、緊急の用件だった場合、主に困る事になるのは多分自分と、隣の部屋にいるリンだ。まったく腹の立つ事に、多分ナルは全く困らない。

「………はい、もしもし?」
『麻衣ちゃん?』
「あ、まどかさん」
 わずかに遅れて届いた耳になじんだ声に、麻衣の表情が綻む。
「いったいどうしたんですか?」
『ほんっっっとうに!嬉しいわー♪あなたがいてくれるおかげで!その電話が役に立つんですものっ!』
 麻衣の問いを完璧に無視した、感嘆符だらけのまどかの台詞に、麻衣は苦笑した。
 麻衣が日常的に出入りするようになるまで、おそらくこの電話は置物と化していたのだろうことは容易に想像できる。
 書斎にこもったこの部屋の主が、わざわざ電話に出るような性格をしているとは思えないし、そして、性格の問題以前に電話のベルに気づかないだろうと思う。それは彼のせいばかりでなく、この部屋の防音は完璧に近いのだ。───もちろん、書斎に電話の子機をおけば問題は解決するわけだが、この部屋の主にそこまで望むという無駄かつ馬鹿馬鹿しいことは、だれひとりとして、提案するどころか思いつきもしなかった。

「オフィスにかければ、誰かは出ると思いますけど」
 苦笑に近く、そう言った麻衣は、時差を考えて首をかしげる。
「あ、でもそれだと、そっちは真夜中ですか」
『ずっと真夜中ってこともないけれど、不便なのよねー。いちいち時差計算するのって。この時間なら確実に捕まえられるし、助かるわ♪』
 楽しげな彼女の顔が目に浮かぶ気がして、麻衣は苦笑した。
「そうですね。…………ところで、どうしたんですか?何かあったんですか?」
 SPRがらみで何かあるとは、特に聞いていない。
 今は学会シーズンでもないし、誰かの誕生日でもクリスマスでもない。他に、まどかが、わざわざイギリスから電話をかけてくるような理由は思いつかなかった。
 電話の向こうで、わずかに微苦笑する気配がして、麻衣は首を傾げる。

『何かあったっていうかね。まあ、あったんだけど。………ナル、いるかしら?』
「はい。もちろん。こっちはそろそろ夜中の十二時ですから」
『起きてるわよね?』
「もちろんです。書斎にこもりっきりですけど」
『それじゃ、悪いけど、呼んでくれるかしら?』
 まどかの声音がわずかに、変わる。
 それを敏感に察知して、麻衣はわずかに緊張した。
「はい、それはかまいませんけど…………何なのか、あたしが聞いてもいいですか?」
『仕事よ』
 一言だけの、まどかの声の色が、変わる。
 きっぱりと返された言葉に、麻衣の表情が一瞬で緊張の度を強めた。
「…………わかりました。ちょっと待ってください」
 彼女は早口で答えて、電話の保留ボタンを押すと、リビングを飛び出した。



 某大学四年、司法試験はあっさりクリアし、論文も順調に進んでいる安原は、いつものようにオフィスのブルーグレーの扉の前に立って、「closed」のプレートがかかっていることに何となく気づいて首を傾げた。
 中では明らかに人が動いている気配がするのに、閉めている理由が分からない。昨日も来たが、オフィスを閉めるような話は聞いていない。閉めても実害はないというより実態はかわらないのだが。
 なんとなく嫌な予感がよぎって、安原は一瞬迷った。
 ───このままいつものように出勤するか、それとも引き返すか。欠勤する、と電話一本入れればそれで済む。

 それでも結局、彼はドアノブに手をかけた。今日は出勤することになっているからこのまま帰れば、あとから連絡するにしても無断欠勤になってしまうし、それに、ここのバイト料を、麻衣のような能力者でもない自分の「嫌な予感」程度で棒に振るのは惜しい……気がしたからだ。

 が。
 いつものように扉を開いて───同僚がばたばた動き回っているのに驚いた。
 別に彼女がいつも落ち着いているわけではないが、何か必死の形相で走り回っているのは珍しい。
 それでも、とりあえず穏やかな表情で声をかける。一瞬、そのまま回れ右をしようかと思ったことは事実だが、事態によっては蚊帳の外に置かれる方が痛いことになるのだ。それはいろいろな意味において。

「………こんにちは、谷山さん」
「あ、こんにちは安原さん!いいところに!!!」
 抱えていた書類の山を手近な椅子に置いて、麻衣は救いの神でも見るような目で安原を見て駆け寄った。
 あ、やっぱりまずかったなと思っても、完全に後の祭りで、同僚の細い手はしっかりと彼の手を握りしめている。自分の勘も捨てたもんじゃなかったなぁとどこかのんきな感想を思いながら、安原は彼一流の笑顔で同僚を見下ろした。とりあえず、帰ろうと思ったことはおくびにも出さない。
「いいところって、いったいどうしたんですか?谷山さん。オフィス閉めてまで」
「あ、はい。普通の依頼のお客さんを受け付けられるような状況じゃないんです。大きな依頼があって」
「依頼?昨日は、確か何もありませんでしたよね?」
 昨日は、依頼人どころかイレギュラーズすら来なかったという、まれにみる平和極まる一日だった。が、結局平和には終わりきらなかったらしい。
「そうなんですけど。ゆうべ、本部から、降ってきちゃって」
 ─────降ってきた。
 麻衣の表現に、安原はまた内心だけで首を傾げ、苦笑した。
 「依頼が降ってくる」とはまた奇妙な表現ではあるが、状況としては非常によく理解できた。
 それは単なる「依頼」というよりも、本部からの命令を含んだ形でナルに直接持ってこられたのだろう。以前にもあったことだから、別に不思議でもない。

「それはまた大変ですね。一応普通の依頼なんですか?」
「……………まあ、普通と言えば、普通、なんですけど………」
 麻衣の視線が泳ぐ。
 前回の、本部からの直接命令の、ウラ目的はなんと、「デイヴィス博士の偽物退治」という、今から考えると笑うしかないものだったが。
「森女史がまたいらしてるんですか?」
「いいえ。今回はまどかさんは忙しいらしくって…………その代わりに…………」
 言い淀んだ麻衣の口を封じるようなタイミングで、所長室の扉が開いた。

「麻衣」
 よく通るテノールが、オフィスに一瞬落ちた静寂の中で響く。

「所長。こんにちは」
 表情が一瞬引きつった麻衣とは対照的に、安原は如才ない笑みをうかべる。彼の挨拶に美貌の青年は軽く会釈を返して、漆黒の瞳を部下の少女に向けた。
「麻衣。資料はどうした」
「言われてた、だいたいの資料は揃ったと思う。まだちょっと足りないものもあるけど、なんとかなりそう。……ちなみに、これね」
 一旦言葉を切って、椅子の上に置いた資料の束を示すと、麻衣は小さく肩をすくめた。
「リンさんの方がどうなってるかは知らないけど」
 麻衣の言葉が途切れるのを待って、安原は挙手して説明を求めた。
「所長。僕にはいまいちよく分からないんですけど、なにが一体どうなってるんですか?」
「麻衣にききませんでしたか?」
 声質だけは美しいテノールは、絶対零度の冷ややかさを纏っている。
 安原は肩をすくめて、それでも答えた。────このオフィスに数年も出入りしていれば、彼の空気まで凍らせるような口調にも、慣れる。
「本部から直接依頼が来たということだけは、聞きました。僕もさっきついたばかりで、谷山さんが説明しようとしたところで所長が出てこられたので、肝心なところは聞いてないんです」
「そうですか。………では、ちょうどいい。これから説明しますので、座ってください。時間がありませんので」
「時間ですか?」
「代理の方が来る予定の時間まで、あと十五分しかないんです」
 麻衣の補足説明に、安原はかろうじて表情を保って、無表情の上司を見やる。
「………………………………わかりました」
 心の隅で、調査に参加するとは一言も言っていないんだけどなと思いながら、安原は、諦めまじりのため息をついて、ソファに座った。
 こうなればもう逃げるすべはどこにもなく、諦めるしかない。あとできることは、残りをどうやって巻き込むか算段するだけだ。

「ナル」
 高いトーンの声が、ソファに座った二人の注意を喚起する。
「それじゃ、あたし、リンさんの方どうなってるか、一度見てくるね。キリがいいようだったら、一度こっちに上がってもらったほうがいいだろうし」
「そうだな。………時間は分かってるな?」
「うん、大丈夫。時間までには戻ります、ボス」
 短く答えて、麻衣は華奢な身体を翻す。

 ブルーグレーのドアが彼女の背中でぱたんと閉まると、室内の体感温度も下がった気がした。



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