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エピローグ からん、と古風なドアベルの音がして、キーボードを叩いていた麻衣は振り返った。 入ってきた女性を見て、手を止めて立ち上がる。 『ジュリアさん、こんにちは。ようこそ。………どうしましたか?』 『様子を見に来ただけよ、マイ。あなたの恋人はどうしたの?』 ジュリアの台詞に、麻衣は思わず座り込み、上目遣いに生粋の英国美女を見上げる。 『ジュリアさん、その呼び方やめてください………』 『あら、だって事実なんでしょう?』 『そういう問題じゃないんです…………』 特殊な場合を除いて、ステディな関係を隠す習慣は欧米にはない。むしろ、はっきりと周囲に示す傾向がある。だから、この問題でジュリアを納得させるのは不可能なのだ。 麻衣は頭を抱えて、それからふるふると首を振って、立ち上がった。ジュリアの言葉で倒れ込んでいる場合でもない。 『ナルに用なんですよね。呼んできます』 麻衣は華奢な体を翻して、所長室の扉を軽く叩いて中に滑り込んだ。 外に出てきてソファに座ったナルと、やはりソファに座ったジュリアの前に紅茶のカップをおいて、麻衣はいつもの位置に腰を下ろす。仕事を続けても良かったが、特に切羽詰まっているわけでもないのに、仮にも依頼人の前で別の仕事にかかり切りになるのは、精神的によくない。 『資料ができたらご連絡すると申し上げたと思いますが、まだできていませんが。どうかしましたか?』 『別にそういうわけじゃないわ。ちょっと、アンドリューと揉めただけよ』 『痴話げんかの相談までは受け付けていませんが』 『そんなことは言っていないわよ。問題は、あの人形なのよ』 『つまり?』 優雅なしぐさでカップを取り上げたナルが、熱心さとはほど遠い相づちをうつ。 『問題は税金なの。………先に帰った監査会社の報告書で、アンドリューは広い敷地と古い屋敷、保存状態のいいビクトリア朝の調度類については把握していたの。でも、屋敷は古くて小さいし、敷地は広いけれどほとんど山だし、調度の状態はいいけれど実用範囲内だったから、売らないなら特に問題はないわ。だから、アンドリューはそれで計算していたわけなのよ』 『なるほど』 『それが、あんなビスクドールが出てくるんですもの、まったく計算外もいいところだわ」 憤然と言ったジュリアに、麻衣は素朴な疑問を呈した。 『あの、ジュリアさん。イギリスでは、お人形にまで税金がかるんですか?」 「あら、もちろん普通のお人形にはかからないわ。でも、あれはアンティークの美術品として考えられるから、あの状態ではまず間違いなく宝飾品と同列に扱われると思うのよ。………だいたい、一体あたり最低五千ポンドはする人形が五十体あまり、千ポンドから四千ポンドの小さめの人形が三十以上も、ミスター・オオツカのリストにはあったのよ!まったく信じられないわ。人形によっては、本物の宝石をつかったアンティークのアクセサリーまでつけているんですもの。それまできっちり鑑定していたら一体いくらになるか、アンドリューでなくても考えたくもないわよ。リストをファックスしたらすぐ電話してきたのよ、彼』 『なるほど。まあ、当然でしょうね。ざっと考えて、最低で二、三万ポンド程度はかかりそうですから、予定外のそんな税金をあの彼が黙って受け入れるとは思えない』 アンドリューは決して吝嗇家というわけではないが、経済観念は発達している。貴族の義務として法学を学んでいたが、主な関心は経済学にあって、MBAも取得している。そういう人間が多いからこそヨーク家は経済的没落を免れているわけだが。 『そうなのよ。でも隠すわけにも行かないでしょ。バレたら大変なことになるし』 税金隠しはあらゆる意味で命取りになる。だからこそ監査会社まで使って調査をしているのだ。 『それで、アンドリューは何と?』 『それがね。人形は売りたくないみたい。エディスさまの遺品ってものすごく少ないらしいの。ご実家も断絶しているしね。そのエディスさまが、不思議な現象が起こるほど大切にしていた遺品なら、ヨーク家として保管したいみたいなのよ』 『不思議な現象が起こっていたのは、人形を大事にしていたのが直接の原因ではありませんが』 『大切にしていたことは確かでしょ』 『それはもちろんそうです、ジュリアさん』 麻衣が口を挟んだのに笑顔で頷いて、ジュリアは続けた。 『でも、きちんと管理するとなると、あれを全部本国に送らなきゃならないでしょう?調度も含めて送ることになれば、送料と保険あわせて、また馬鹿みたいに出費がかさむのよね………。残しておきたいっていうアンドリューの気持ちは分かるんだけど』 『………彼にしては性急ですね?』 アンドリューは、基本的に何に対しても慎重で熟考を重ねる傾向が昔からある。 ファックスが届いてすぐに、そんな判断に飛ぶような性格では、すくなくともナルの知っている限りでは、なかったはずだ。 『そうなんだけど。どうにかして、結婚式までに税金関係はかたをつけたいの』 『…………ようやくですか』 ナルのコメントに、ジュリアは苦笑する。 アンドリューと婚約したのは家同士の取り決めで、ジュリアが十歳になったばかりの頃だ。すでに二十年近くが経過している。ナルに、アンドリューの婚約者として紹介されてからでも、もう十年近くが経っているのだから、ナルの感想は妥当と言うべきだった。 麻衣が、そこで口を挟む。 『結婚式、近いんですか?おめでとうございます』 『ありがとう、マイ。一応、六月の予定なのよ。招待するから是非来てちょうだいね。………それで、間に合わせるためには、手続きや監査にかかる時間を考えると、来月の前半までにはなんとかしないと、本当に間に合わないのよね。全く困ったことに』 『税務に関して、父のマーティンならともかく僕に相談するのは筋違いではないかと思いますが、まあいいでしょう。………ところで、朗報ですよ、レディ』 『何かしら?』 『エディス夫人の素晴らしいコレクションを見た、あの大塚さんからのオファーです。………あれをすべて英国に持ち帰るには費用がかかりすぎるし、売却するとするなら、あれだけのコレクションが散逸するのは非常に勿体ない。それに、あの洋館は建物も調度も素晴らしく、放置しておくのはもったいないと思う。それならばいっそのこと、あの洋館そのものを公開して、あの中で、人形を展示してはどうか、ということです』 『展示?』 『そうです』 『つまりどういうこと?』 『簡単に言えば、アンティークドールのミュージアムを作ってはどうかということです。部屋ごとの調度も素晴らしいのだから、それも活用すればいいし、エディス夫人の部屋だけは閉めて、プリマヴェーラや、他のいくつか、プリムローズさんとの手紙に書かれていたような大切な人形はあの部屋にとどめて、他の人形は各部屋に配置して飾ってはどうか、というわけですね。あれは建物としてもすばらしいですし、軽井沢は年間を通して観光客も多い。悪い案ではないと僕も思いますが』 『…………ミュージアム、ね。それは、思いつかなかったわ…』 『それなら送料と保険料は完全に節約できますし、博物館として展示するなら、税金優遇も受けられたはずです』 『そうだわね。………それはほんとうに、確かにいいアイディアだわ。アンドリューに連絡してみることにするわ』 ジュリアの表情がぱっと明るくなる。 『それから、もしそうするのであれば、ヨーク家から人を出すよりも、監修は大塚氏に任せればいいと思います。彼は信用できる人物ですし、日本国内で活動するには日本人の代理人がいたほうが好都合でしょう』 『そうね。検討してみるわ。ありがとう』 ジュリアはうなずいて、ハンドバッグから手帳を取り出して走り書きでメモすると、さて、と話題を変えた。 『話はおしまいね、オリヴァー。これから、マイを借りてもいいかしら?それとも仕事中?』 『ご覧の通りです』 データベースの見直し作業の途中で、麻衣は応対に出たのだ。PCは電源を落とされてもいない。 『あら。残念ね。………それなら、調査の報告の後に、借りてもいいかしら?ちゃんと返すから』 『そこまでは僕の関知するところではありません』 『そう。………いいでしょう?マイ』 『………あの、何ですか?』 素直に同意するのはなんとなく危険な気がしてきれいな琥珀色の瞳を瞬いた麻衣に、ジュリアは笑顔で言った。 『マイはせっかく可愛いんだから、可愛いものを着た方がいいと思うのよ。アヤコに、よさそうなお店、いくつか紹介してもらったから、一緒に行きましょう?』 『あの、お気持ちはありがたいんですけど、服飾費にそんなにお金使えないんです。ごめんなさい』 『何言ってるの?もちろん全部私が買うのよ。そうそう、採寸もさせてね、是非、似合うような服も作りたいわ♪』 『ジュリアさん、あの…………』 熱を帯びたジュリアの口調には、何か付け入る隙がない。 『………嫌かしら?』 『嫌っていうわけじゃないですけど……………』 『それなら決まりね、オリヴァー、借りるわね』 『あまり無茶をしないで頂きたい』 『あら、心配は要らないわよ。オーダーしている時間もないし、日本のショップのことはよく知らないものね』 ナルの言葉とはかなり主旨のずれた答えを返して、ジュリアは嬉々として立ち上がった。 『じゃあ行くわね、調査結果が出るのを待っているわ』 『明日か明後日にはご連絡できると思います』 『お願いね』 ジュリアはにっこりと笑う。 『しっかり下見しておくから、楽しみにしていて、マイ。それじゃあね』 麻衣の答えなど聞かずに、ジュリアはドアから出て行って、麻衣はソファに突っ伏した。 「…………………なんなわけーっ!?」 「彼女の趣味だ。諦めるんだな」 「ずいぶん理解があるじゃん」 「アンドリューから色々と聞いているし………結局は着なかったが、子供の頃やられそうになったことがあるからな」 苦い口調に、麻衣は目を瞬く。 「え?服?………もしかして女の子の?」 「そう。わざわざウィッグまで用意した凝りようだったな。………さすがにあの馬鹿もそこまでやる気はなかったから、実際には着なかったが。アンドリューにいわせれば、彼女の唯一最大の欠点だそうだ」 「なにそれ……………」 「だから、諦めろ。………松崎さんが混ざらないことを祈っておくんだな」 当然だが、綾子の方が麻衣に対して立場が強いし強引な行動にも出れる。彼女が加われば、麻衣はさらに振り回されるだけだ。 「………………エディスさんより厄介かもしんない……」 かなり問題が違うことを呟いて、麻衣はふかくふかく、溜息をついた。 † Rrrrrr…………♪ 甲高い電話の呼び出し音が、夜の静寂を破る。 リビングのソファに座ってファイルを広げていたナルは、受話器を取ろうとした麻衣を制して、珍しく自分でとった。 『オリヴァーかい?』 「………アンドリューですか。こんばんは」 『ああそうか、そっちは夜だね。こっちはまだ午前中だ。…………ジュリアが帰ってきて、報告を持ってきたよ。読ませてもらった。さすがだね、オリヴァー』 「あれはまだ仮報告です。正規の報告はSPRを通して送ると思いますが。………とりあえず合格ということですか」 『ああ。合格だね。約束は守るよ、楽しみにしていてくれ。………ところで、あれはなかなか面白い報告だったな。内容が内容だけにどうなるか楽しみにしていたんだが』 「そうですか」 『ああ。ジュリアに任せずに僕が行けば良かったと思ったよ』 「そんな暇はないでしょう」 相続がらみで、やらなければならない仕事はあらゆる方面で山積しているはずだ。 ナルの冷たい声に、アンドリューは苦笑した。 『相変わらず冷たいな、君は。………まあ、ひいおじいさまの別荘の存在すら、僕は知らなかったからね。そこに、まさか、あのひいおばあさまの宝物が眠っているとは思わなかった。………ここにジュリアのメモにあるんだが、ミス・タニヤマのコメントが面白いね。鳥籠がもう空であることに気付かずに、ずっと守っていた、か』 「あくまで、彼女の感覚的な比喩表現です。それに彼女は半人前ですから」 『半人前だろうが一人前だろうが、いい比喩だと思わないかい?センスがいい上に正鵠を射ている。………頭の良さそうな娘だ。まあ、そうでもなければ君の相手ができるわけがないだろうが』 「………………」 ナルは軽く目を眇めて、冷えた声を滑り出させた。 隣に座って自分を見ている少女を、一瞥もしない。 「何のお話ですか」 『もちろん依頼の件だよ?………ジュリアが知らなかったのも当然でね、エディスおばあさまのことはうちでは禁句に近いんだよ。かわいそうに、日本についていったばっかりに亡くなった、ってね。当時、プリムローズおばあさまはまだたったの十歳だったらしいから、結婚してそのくらいだったんだろう。………うちにもほとんど遺品がないし、手紙もないと思ったら、そっちにあったのかと思って納得したよ。父親のロバートおじいさまの手紙はあるのに、エディスおばあさまの手紙はないからね。十歳の女の子が母親を恋しがらないとは思えないから、ずっとおかしいと思っていたんだ』 「そうですか。あの手紙については、分析が終わりましたので、そちらに送ります。大切な形見でしょう」 『君の口からそんな台詞が聞けるとは、意外だな』 アンドリューは電話の向こうでくすりと笑う。───確かに、スクール時代のナルなら、大切な形見だから早く遺族の手元へ、などという発想は出て来なかっただろうから、反論もできない。 『意外と言えば、調査全体も意外だったね。内容ではなく、やり方が、だけれどね』 「どういう意味ですか?」 『例えば、ミス・マツザキや、ミスター・タキガワは本来の能力を発揮していなかったようだね?』 「そうですね。松崎さんは樹のシャーマン、滝川さんは対魔法にすぐれた能力者です、が、特に使える樹はありませんでしたし、幸いエディス夫人は大変に穏やかな気性の方でしたから、荒事は必要なかった」 『君のチームの能力について文句を言うつもりはない。そうではなくて、全員がそれぞれ、状況と能力に応じた仕事をして、君が、それをひとつのラインにまとめていっている。君が、そんな司令塔みたいな仕事をできるとは思わなかった」 司令塔に必要なのは、全員からの信頼と、そして何より、全員への信頼だ。そしてそれぞれを最大限活かすために、彼自身が、常に細かい配慮をすることだ。 ナルが返事を返さなければ、電話の向こうでかすかな笑いが聞こえる。 『………ところで、こっちへ帰っては来ないのか?クリスマスにも帰国しなかったらしいが』 「クリスマス前に、一度帰国しましたが、クリスマス前にこちらへ戻りました。三月にもう一度帰国する予定ですが」 『ミス・タニヤマは?』 「………SPRの予定ですから、同行します」 『それなら、遊びにくるといい。デイヴィス教授にもお話ししておくよ。どうせご挨拶に伺うからね』 アンドリューは楽しげに言って、それから付け加えた。 『ジュリアは彼女が気に入ったらしいから、会えるのを楽しみにしているよ。僕も、とても楽しみだ』 まともな招待を、理由もなく蹴るわけにもいかない。そして、口実をつけて断るには、相手が悪すぎる。 「…………わかりました、伺います」 『楽しみにしているよ。………話を戻すが、調査の正式報告も楽しみにしている。エディスおばあさまがようやく見えてきたからね、思わぬ収穫だったよ。この件については、依頼とかそういうことを抜きにして、感謝する。ありがとう』 「僕は、僕のするべきことをしただけです。………ですが、エディス夫人の霊視をした麻衣は、あなたが喜んだことを知れば、喜ぶでしょう」 『よろしく伝えておいてくれ。それから、ミスター・オオツカだったか、その彼が提案したという、博物館化に関しても検討する。いいアイディアだからね』 「何かあれば、連絡してきてください」 『そうだな。頼むよ。………今回はありがとう。おばあさまの分も、本当に感謝している』 その声は、聞いたことがないほど真摯に響いて。 ナルは頷いた。 「満足していただけたなら、幸いです」 挨拶を交わして、電話を切る。 もの問いたげな琥珀色の瞳にぶつかって、ナルは軽く息をついた。 「今の、アンドリューさんだったの?」 「そう。………エディス夫人のことで、感謝していると言っていた。本家にもほとんど資料がない人だそうだ」 「本当に?………ほんとに良かったの?」 「彼が、わざわざ嘘を言う理由はないな」 ナルが答えると、麻衣はふわりと笑った。 「そっか。良かった。………嬉しい。ありがとう」 なにより、遺族の反応が心配だったから、麻衣はほっと力を抜いて、白い顔に柔らかな笑みを湛える。 琥珀色の瞳が、やわらかく、きらめく。 「もう、なにも心配ないね。エディスさんの心残りも、きっと、もうないと思うから、良かった」 静かな口調と、微笑。 常の彼女らしくない、穏やかな何かが空気に溶けていく。 「ほんとに良かった。…………もう、大丈夫だよね……」 もういちど、確かめるように、澄んだ声が響く。 麻衣は小さく笑って、そっと、目を閉じた。 幻日の櫃は開いて。 新しい光をあびて、宝石箱のように輝き始めた。 そうすれば、きっと。 向かっていった新しいひかりのなかで、もう一羽の青い鳥を、彼女は見つける。 オンラインで読むには長い話におつきあいいただいてありがとうございました。 お楽しみいただけたなら幸いです。ご感想などお寄せ頂けましたら泣いて喜び ます(笑) 結局、加筆もなにもしていませんが(一個どうしよーもないミスを直しただけ……) 誤字脱字などなど、申し訳ありません………。 今後ともどうぞよろしくお願いいたします。 |