しん、とした静寂。
 ライトも最小限まで消されて、大きくとられた窓から差し込む月の光が、部屋の中を深い色で浮かび上がらせている。
 寝室に身体を滑り込ませた彼は、いつものようにゆっくりとベッドに近づく。足音は、立てない。
 だんだんと耳をとらえていく規則的で深い息遣いは、いつもと変わらない。ほんのわずか、白皙にやわらかな彩が浮かんで────そして、次の瞬間。
 秀麗な眉が跳ねた。
 
 白で統一されたリネン。
 枕に散った淡い色の髪、やわらかな毛布に半分うずもれた、どこかあどけなさの残った少女の顔。
 そこまでは、いつもと変わらない、穏やかな表情。けれど彼の表情を変えたのは、彼女の横に横たわる、見たことのない物体だった。

 弱い光でも識別できる、淡い青に、柔らかい布地。
 ほとんどが、彼女といっしょに布団の中だが、その形が流線型を描いていることは、突き出ている頭から推測できる。
 いや、こ難しい解説をしなくても、それは、どこからどう見ても、見間違いようもなく。
 ───いるかのぬいぐるみ(特大)だった。

 家主である自分が知らないうちに、寝室(自分のだ)に、こんな特大ぬいぐるみを断りもなく持ち込んだところまでは、百歩譲ってかまわない。気付かなかったのも、それほど不思議なことでもない。だいたい、麻衣がほとんど自主的にやっているベッドメイキングが、いつされているのか、自分ははっきり言ってまるで把握していない。
 が。
 ベッドにまでぬいぐるみを入れる趣味はないし、そこまで譲る必要はどう考えてもないはずだった。
 一度寝た麻衣を起こすことは、ほぼ絶対といっていいほどしないナルは、今夜は渋面のまま眠る少女に声をかけた。それこそこのまま、イルカの隣で寝るような趣味は持ち合わせていない。
 ベッドの端に腰掛けると、片手をベッドについて、身体を僅かにかがめた。
「麻衣、起きろ」
 低く、決して大きくはないけれど強く響く、声。
 それは、多分まだ眠りの淵には辿り着いていなかった麻衣を、引き戻すのには十分だった。
 ゆっくりと、瞼が震え、光を吸い込んで不思議な色合いを醸し出す瞳が現れる。
「………ナル……?」
 半分ほど寝ている、ぼやけた声。
 定まらない焦点が、空間をさまよい、漆黒の青年にぶつかって、結ばれる。
 はっきりした視界といっしょに思考もクリアになったのか、麻衣は目を瞬いて、それから首を振った。
 眠気を払ったのか、まっすぐに目を合わせた彼女の瞳には眠りの残滓はない。
「ナル?なに?」
「……………なに、じゃない。ソレは一体なんだ」
「それ?」
 一瞬きょとんとした麻衣は、ナルの視線が注がれているものを見直して、自分がぎゅっと抱いていたぬいぐるみを見直す。
「これ?」
「そう」
「これがどうかしたの?」
「…………忘れていらっしゃるようですが、ここは僕の家なんですが?谷山さん」
「知ってるけど」
「そしてここは僕の寝室で、僕のベッドなんですが、記憶違いでしたか?」
 皮肉のたっぷりこもった声音に、麻衣は首を竦めた。
「わかってまーす。わかってるよ。あたしはナルの好意で寝させてもらってるだけですからねーっ」
 ナルは軽い溜息をつく。
「ここで寝るのは別にかまわない。が、そんなものを持ち込んでもいいと言った覚えはないんだが」
「……………いいって言ったじゃん」
 麻衣の瞳が、わずかに恨めしげな上目遣いになる。
「言った?」
 訝しげに寄せられた、秀麗な眉に人差し指を突きつけて、麻衣は繰り返す。
「いいって言った。ていうか、持ってこいって言った」
「いつ僕がそんなことを言った」
「枕、どうしても欲しいんなら自分で持ってこいって言ったじゃん」
「…………………先週のことか」
「そうだよ。持ってこいって言ったよね?」
 恨めしげな琥珀色の瞳を見返して、ナルは深い溜息をついた。
 確かに、それは記憶していたからだ。

 話は一週間ほど前に遡る。
 いつものように麻衣におくれること二時間ほどで寝室に入ったナルは、最近恒例のごとく、自分の枕を抱きしめて麻衣が寝ているのに、溜息をついた。
 もちろん枕は二つだけではない。
 ヨーロピアン様式にベッドメイクされているから、枕とピロークッションをあわせれば、全部で五つほどある。麻衣はそのうち三つを占領していたが、巨大なベッドのヘッド部分には大きな枕もどきのクッションが置かれているし、麻衣にとられた分を差し引いても一つ余っている。が、微妙に寝心地に影響することに間違いはない。
 だから、朝になって、何か抱えていた方が安心して眠れるのだと主張する彼女に、枕がもう一つ欲しいなら自分で用意しろと言った。

 しかし、枕を用意しろとは言ったが、ぬいぐるみを持ってこいと言った覚えはどこにもない。
「確かに枕を抱いて寝たければ持ってこいとは言ったが、ぬいぐるみを持ってこいとは一言も言っていない」
「これぬいぐるみじゃないもん」
「ぬいぐるみでなければ一体なんだ?」
「抱き枕だもん。だきまくらって売ってたんだから間違いなく抱き枕だもん」
 麻衣自身、ナルが文句を言うだろうことは予測はしていたのだろう。視線が微妙に逸れている。
「抱かえて寝るのが欲しかったんだから、だきまくら、買ったんだもん。間違ってないでしょ」
 多少無理があるのは承知している。
 単に、通りがかりに目を引かれて、可愛くて、値段も手頃だったから思わず買ったのだ。ちょうど、ナルが枕を持ってこいと言っていたのもあったから。
「………………………だめ?」
「…………………どうしてそんなに抱いて寝る枕にこだわる」
「だって、安心するんだもん」
「枕を抱いてか」
「なにもないよりいいもん。…………………それに、そういうのなかったら、ここじゃなくて自分の部屋で寝てるよ」
 ひとりで眠るのが、寂しいから。
 傍らにぬくもりを感じて眠ることの、幸福を、知ってしまったから。
 だからここに来て寝るのに、肝心のナルは、ちっとも寝ようとしない。
 だから。
 せめてもの慰めに、枕を抱えて眠った。─────本当に枕でいいなら、別にここで寝なくても、自分の部屋で寝ればいいのだということなど、少し考えれば判るはずなのに。

 じっと見上げてくる瞳に、ナルは溜息をついて、それからイルカのぬいぐるみ、いや、抱き枕を見直した。
「つまりこれは意趣返しか」
「別にそこまで考えてないよ。…………単に、通りがかりに見かけて、可愛かっただけ。それに、こんなんで意趣返しなんてしたってしょうがないし」
 麻衣はそこで言葉を切って、ずっと抱きしめていた抱き枕を離した。細い手を、ナルに向かって伸ばす。
 触れるか触れないか、空気を隔ててぬくもりが伝わるくらいの距離をおいて。
 指先が、止まる。
「…………最初っから。欲しいのは枕じゃないもん。言わなかったけど分かってたでしょ?」
 トーンの高い声は抑制されて、ひどく透明に耳に響く。
 欲しいのは、ぬくもり。
 伝わる、大切な鼓動。
 ナル自身も、それを求めたから、麻衣をこの寝室に引き止めたのに。
「……………いっしょに寝てくれるなら、枕なんていらないんだけど」
 呟くように言った言葉は、届くかとどかないか、それくらいかすかなもの。
 麻衣は、ちいさく溜息をついて目を伏せた。
 視界から、ナルの表情を遮断する。

 ナルは、ベッドについていた片手にさらに体重をのせて、震える瞼にそっと唇を落とした。
「それならそうと最初からそう言え。…………こんなモノを持ってくる前に」
「言えば寝てくれたわけ?あたしとナルの寝る時間、ぜんっぜん違うのに」
「………都合がつくなら」
 囁くように落とされた言葉に、麻衣が驚いて目を開いた。
 至近距離になっていた瞳が、交錯する。
「ナル?」
「ここに、最初にひきとめたのは、僕だからな」

 ここで。
 自分のところで眠るように引き止めたのは。
 麻衣の望んだからでも、成り行きからでもなく。
 他でもなく、自分がそう望んだからだ。
 それをごまかすつもりは、微塵もない。

「だから、麻衣が望むなら」
「…………いっしょに寝てくれるの?」
「忙しい時を除けば」
「わかってるよ。…………でも、どうしてもいてほしいとき………」
「そう言えばいい。引き止めたのは、僕だ」
 麻衣の腕が、からみつくように、ナルの首に回される。逆らわず引き寄せられた彼は、そのまま唇を重ねた。下敷きになったかっこうのいるかは、一応枕だけあって、二人の身体を優しく抱きとめる。
 口づける、息が絡まる。
 潤んだ瞳にキスを重ねて、ナルは邪魔ないるかを引き抜いた。そのまま、ベッドの端にぽんと放る。
「あれは自分の部屋に置いておけ」
「うん。そうする」
 ベッドに滑り込んだナルの身体に、すり寄るように温かな身体が密着する。
 抱きしめたぬくもりも、伝わる鼓動も。
 何物にも代え難い。
 貴い、希望。
 やわらかな身体を包み込むように抱き直して、胸に顔をうずめた麻衣の髪に、ナルはそっと口づけるように顔を埋めた。


 








 






 もこもこしたイルカのぬいぐるみ、いや、抱き枕が、広いベッドの空きスペースに所在なげにころんと転がっている。ベッドの主たちは、頬を寄せるようにして目を閉じて、月の光でできた影が表情を隠している。
 それを見ながら、白い闇の中で際立って美しい少年は頭を抱えて海より深い溜息をついた。
「…………ああもう信じられない甲斐性なしっ!」
 草葉の陰ならぬ夢の中でさまよう、というよりは居座っている、この世のものではない少年は、片割れを殴り倒したくなるのをかろうじて抑え込んでいた。麻衣経由で怒鳴り込みをかけたい心境だが、さすがに麻衣に伝えるほどヤボではない。直接経路が断絶していることを、こんなにいまいましく、というより腹立たしく思ったのは久しぶりだった。
「まったく、馬鹿だ馬鹿だと思ってたけどここまで来るともう芸術的だよね………」
 ひとりごちる声は、当たり前だが誰も聞いていない。
 この歳になって、いっしょに寝ようと恋人を誘って、実際毎夜のように同じベッドで寝て。
 「この」状態だというのは一体どうなのかと思う。 自分がいたときナルのベッドには何度も潜り込んだが、アレとは違うのだ。
 ナルの方にいろいろと事情があるのは当然誰よりも知っているが、そもそもソレ以前の問題だ。
 ナルが、自分が男だという認識に無意識にストッパーをかけているのも分かっているが、何かの拍子にそれが外れたら一体どうするのか。
 このままでは、一生幼稚園を卒業できない。それは、片割れとして、いくら何でも情けなさ過ぎる。
「やっぱ僕が一肌脱がなきゃ駄目か…………麻衣に言うのはいくらなんでも野暮だしね」
 うんうんと頷きながら、弟の幼稚園脱出を計るべく。そう、娯楽ではないのだ。………多分。
 草葉の陰に居座った兄は、遠大な計画を練ることにした。

 それは数ヶ月後、まどかの夢に現れることから、はじまる。






 突貫書き下ろし。ナル麻衣…………なのか本当に。(爆破)
 いやナル麻衣なんですよ。うちの二人は超オクテ(で済むのか?)なんで、おにーちゃんがしびれを切らしてひと肌脱ぎます。(笑。「白闇」がソレですね。)
 単に、ナルとイルカの抱き枕とゆー取り合わせを思いついただけでした………。最初はいっしょに寝かせるつもりだったんですが、よっぽどお気に召さなかったのかパソに反乱を起こされまして(遠い目)おとなしく、らぶらぶと。………ベッドの端っこにはパイル地ぬいぐるみが転がってるけどね。(爆)
 ネタに笑ってくれたMさんありがとうでしたv

2005.12.8 HP初掲載