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第一章



   
 オフィスの、無機質なブルーグレーの扉。

 それがひどく遠慮がちに開かれるのに気付いて振り返った麻衣は、椅子から立ち上がるのと同時に「来客用」の笑顔を浮かべた。
 いつものイレギュラーメンバーの誰かならば、こんなに遠慮深い開け方は何があっても絶対にしないし、たとえ何かの理由で彼らがふざけていたとしても、麻衣は気配で感覚的にわかる。それならば今扉を開けたのは、ほぼ間違いなく、滅多に来ない「客」だろう。
 一瞬で行われた彼女の予測の通り、扉を開けたのは全く見知らぬ壮年の男性だった。

 未だ季節は真冬で、外は寒い。室内の暖かい空気に触れて安堵したのか、瞑目して軽く溜息を付いた彼は、オフィスの中を驚いた表情で見回して、そして、微笑んだ麻衣に困惑した眼差しを向ける。
「………こちらは、渋谷サイキックリサーチ、ですか?」
「その通りです」
「…………」
 麻衣の答えには、沈黙が、返った。

 実際、外資系企業のオフィスのような事務所内は「心霊調査の事務所」としては想定されうるものを大きく逸脱しているだろうし、その上迎えるのがどう見積もっても十代、もうすぐ卒業するとはいえ今はまだ現役の女子高生である麻衣では、驚くのはむしろ当然だろう。ここのオフィスの扉を開けて、それでも全く驚かなかった客は、今やここのレギュラーメンバーとなっている安原くらいのものだ。

「ご相談でしょうか?」
 麻衣はやわらかな表情を崩さないまま言葉を継ぐ。
 警戒心を起こさせない、そして安心させるようなやわらかな表情は麻衣の「専門」で。
 彼は少しの間確かめるように麻衣の瞳を見て、そしてゆっくりと頷いた。


    †


 現れた所長の若さと美貌に相談者が驚愕するのは、それがプラスの方向に向くかマイナスの方向に向くかを別問題とすれば、もはや恒例行事のようなものである。麻衣は内心苦笑しつつ、やわらかな空気はそのままに表情だけは真剣なものにして、ゆっくりと口を開いた。
「まず、お名前を伺えますか?」
「ああ、失礼しました。…………私は、堀河亨といいます。商社の役員をやっております」
 おそらく自分の子どもよりも若いであろう二人に対して、彼の態度は総じて過不足なく丁寧で、麻衣は安堵した。
 依頼人の態度によっては、その内容の適不適に関わらず所長を宥めるのは大変な難事業になるし、麻衣自身もやりにくくなる。
 そして、残念ながらと言うべきか、当然ながらと言うべきなのか、そういう意味で依頼人に好感を感じることができるケースは非常に稀なのだ。
 麻衣は、「営業用」だけではない真剣な表情で、言葉を継いだ。
「それでは、ご相談の内容を伺わせてください、堀河さん」
「その前に、確認させていただきたいのですが………」
 堀河は麻衣に軽く会釈して、所長に視線を向ける。視線を振られた美貌の青年は軽く溜息を付いて、応えた。
「何でしょう」
「………実は、こちらに来たのは、祓ってほしい、という目的からではないのです。特に被害や不都合があるわけではありませんし。ただ…………」
 言い淀んで、消えかけた堀河の言葉の端を、澄んだ少女の声が救った。
「かまいません。うちは宗教団体でも祈祷師でもなく、調査の事務所ですから。あとで詳しくご説明しますけど、うちの調査の目的は、あくまで心霊現象の研究にあるんです。たしかに結果的に祓ってしまう、というのは良くあることなんですが、それはあくまで副産物ですから。………横から失礼しました、所長」
 麻衣はやわらかな口調を客に向け、それから上司に軽く会釈してみせた。ナルは無表情のまま彼女の瞳を一瞥して、依頼人に視線を戻す。
「………お聞きの通りです、堀河さん。調査をするかどうかはお話を伺った上でこちらで決めさせていただきますが、それでよろしければ、ご相談の内容をどうぞ」
 相変わらず感情を欠いた声はひどく冷たく響いたが、堀河はほっとしたように軽く息をついた。


    †


「………現象として、起こっているのは、桜の狂い咲き、なんです」

 相当に高い社会的地位を窺わせる落ち着いた男性の声が紡いだ内容は、意外性という一点に於いてはまず間違いなく、これまでここで語られた多種多様な「相談」の中でも群を抜いていた。

 表層の無表情は一応保った闇色の瞳が、軽く瞬く。
「………桜の狂い咲き、ですか?」
「そうです」
「それは…………園芸業者か、そうでなくても植物学研究所にでも相談なさった方がよろしいのでは?」
 ナルの台詞は、この場合は妥当と言うべきだろう。少なくとも、心霊調査事務所に相談するような内容とは思えない。
 堀河は軽く目を瞠って、そして笑った。
「ああ、確かに仰るとおりです、渋谷さん。私も、そう思います。………それが、今年に限って真冬に桜が咲いた、というのであれば、私もこちらに伺おうとは思いませんよ」
「確かにそのとおりです。お話を伺いましょう」
 白皙に、苦笑が掠めた。

 漆黒の青年はしなやかな長身を優雅な動作で軽くソファに預け、調査メモを持った麻衣に視線だけで指示して、闇色の瞳を堀河に戻す。
 その視線を受けて堀河はうなずき、ゆっくりと落ち着いた口調で話し始めた。

「事実、起こっている現象は、狂い咲きだけなのです。それだけなら珍しくもありませんが、ただ、問題はそれが一年二年の話ではなく、私が知っている限りずっと………私が生まれる前から、続いているということです」
 堀河は一度言葉を切って、僅かに色を深めた目の前の青年の漆黒の瞳に穏やかな視線を向ける。彼の穏やかな声は全く乱れず、話はゆっくりと続けられた。
「それも、早咲きの種類でもない桜が、1本だけ必ず三月の半ばに咲いて………同じ日付に、散るのです。咲く日には1日2日のずれがありますが、散る日は必ず同じです。私が物心ついた頃から毎年同じでしたから、おそらくその前もそうだったのでしょう」
 再び、おそらくは息をつぐために言葉が途切れ、その間をとらえて怜悧な声が響いた。
「一本だけ、ですか?」
「そうです。庭には何本か桜の木があります。問題の桜と同じ品種の木も、直線距離にすれば十メートルほどしかないところにあるのです。そして、他の木は本来の季節に咲きますが、その1本だけがどうしてか、そのように規則的な狂い咲きを繰り返すのですよ」
「同じ日付と仰いましたが、何月、何日ですか?」
「咲くのは三月の一五日ごろ、散るのは必ず二十一日の夕刻です」

 ナルはごくかすかに―――堀河には気取られない程度に、ちいさく溜息を付く。
 これは確かに、植物学の範疇でも、まして園芸業者の領域でもあり得ない。
 確信に近い思考はそれでも全く表に出さず、彼は頷いた。

「お話は分かりました。……それで、あなたはそれが何か、霊、あるいはそれに類するものが原因だと思っていらっしゃるわけですね?」
 堀河は僅かに驚いたように顔を上げた。彼は、ナルの白皙を見つめ――――苦笑を浮かべて会釈する。
 それは、謝罪するような、表情。
「………こちらは本当にきちんとした研究機関でいらっしゃるようだ。失礼しました」
「すぐに霊現象と断定すると思っておられた?」
「失礼ながら。…………ぶしつけな言い方ですが、そういうものだと」

 何か、「科学」では説明できないもの、解析不能な現象、そういうものはすべてなにもかも、根拠も求めずただ盲目的に「霊現象」と断定する。
 心霊調査とはそういうものだと堀河は考えていた。
 それを、その調査事務所のトップから、霊現象だと考えているのか?と糺されるとは、予測しないどころか、彼は夢にも思っていなかったのだ。

「こちらを私に紹介してくれた知人は、確かにきちんとした研究機関だから信用できると言っていたのですが、やはりどこかで先入観があったようです」
「それで、どうなさいますか」
 依頼をするのか、しないのか。
 堀河の言葉には直接反応せず、選択肢を示したナルに、堀河は頷いて口を開いた。
「正式にお願いしたい。うけて頂けるでしょうか」
「堀河さん。あなたは、依頼の目的は―――その桜の狂い咲きが霊現象であったと仮定すれば、ですが―――原因である霊を祓うことではないと言われましたね。それは、その現象を起こらなくすることが目的ではないと理解しても?」
「ええ。私はただ、一体何故そのように奇妙な現象が起こっているのか知りたいのです」
「調査の結果、霊が原因だと我々が判断したらどうなさいますか」
「………その霊が。何かの苦しみのために何十年も桜を狂い咲きさせているなら、その苦しみの源をとりのぞくことができればいいとは思います。…………もし、霊だとしたら、その霊は、おそらくはうちの親族ですので」
 微苦笑を含ませた、言葉。
 それにナルは頷く。
「分かりました。……こちらとしても、霊現象が植物に、しかも数十年にもわたって影響を及ぼしているのだとしたら、それは事例として非常に興味深い」
「依頼を受けていただけますか。渋谷さん」
「お受けしましょう。………麻衣、説明を」
 すい、と滑らされた漆黒の視線の先で、麻衣が頷いた。
「はい、所長。………堀河さん、基本的なことを幾つかお伺いします。もし答えたくないことがありましたら、かまいませんのでそうおっしゃってください。それがどうしても必要なことであれば、あとで所長が伺いますから」
「分かりました」
「では――――堀河さん、桜の狂い咲き、と仰いましたが、それが起こっているのはご自宅ですか?」
「自宅です」
「ご自宅に住んでいらっしゃるのは?」
「私と妻、それに私の母だけです」
「失礼ですが、お子様はいらっしゃらないのですか?」
「息子が二人おりますが、一人は留学中、一人は遠方の大学に行っておりまして一人暮らしをしています。したがって、二人とも今は自宅におりません」
「他に、頻繁に通っていらっしゃるような方は居られませんか?例えばご親戚などは」
「比較的客の多い家だとは思いますが、頻繁に来ているというのは………特にはありませんね」
「ご自宅に住んでいらした方は他にいらっしゃいませんか?ご存じの範囲で」
「息子たち以外でしたら………私の父が。二年前に亡くなるまで、ずっと住んでいました」
「ずっと、ですか?」
「ええ。あの家が建てられてからずっとです。直後からなのかは知りませんが」
「建物が建てられてから何年ほどになりますか?………だいたいでかまいませんが」
「増改築を何度か繰り返していますから、同じ部分がどの程度残っているか分かりませんが、六十五年ほどです」
「お庭の作り替えなどはなさっていませんか?」
「私が知っている限りでは、ほとんど変わっていません。建物の増築に伴って変更されたりした部分はあるのですが、庭を作り替えた、ということはないはずです。………特に、その問題の桜がある一角には、確実に手を付けていません」
 強い、断言。

 手際よく、けれど丁寧に、手元のメモと堀河の瞳を交互に見ながら質問を続けていた麻衣が、一瞬手を止めた。視線を上司に流して、何事もなかったように質問を続ける。やわらかな声はかわらず、不安感や不快感を相談者に感じさせることはない。

「それは何か理由でも?」
「父が嫌がりましたので」
「亡くなられたお父様が、ですか?」
「ええ」
 明らかに、含みを持たせられた、笑み。
 それまで流れるように続いていた麻衣の質問が、止まった。琥珀色の澄んだ瞳が今度ははっきりと上司に向けられ―――そして、堀河に戻される。

「お父様が、何故嫌がられたか、堀河さんはご存じでしょうか」
「私は、確かなことは知りません。ただ、父があの桜と、あの桜が見える部屋を本当に大事にしていたことを、知っているだけです。………母は何か他にも知っているかもしれませんが、父は私たちがあの部屋に用もなく入ることすら嫌がりましたので」
 堀河の言葉に、麻衣は答えを返さなかった。
 琥珀色の瞳は再び上司の白皙に向けられ、暗黙のうちに質問の終了を問う。ナルは軽く溜息を付いて頷き、視線だけで麻衣に応えて堀河に向き直った。

「状況は分かりました。あとはこちらで調べさせていただきますが、よろしいですか?調査結果を含め、部外秘の徹底はお約束しますし、そちらから請求があれば集めた情報は提示します」
「どうぞ、ご自由に」
 堀河は笑って、続ける。
「あなた方に調べていただいて困るようなことは何もありませんので」
 ナルは軽く頷いて、漆黒の瞳を依頼者に向けた。
「調査に関してですが、2、3日の予備調査と、本調査を一週間ほど行いたいのですがかまいませんか?」
「かまいません」
「日程的に、桜の開花まで迫っていますから、予備調査は三月早々にでもしないと間に合いませんが。ご都合は?」
 問われて、堀河はしばらく宙を見据えて考え、それから視線を戻す。
「………二日から、四日ではいかがでしょう?あと一週間ありませんので、調整が困難でして、申し訳ない」
「分かりました」
 依頼人の謝罪には特に反応せずに、無表情のままナルは続けた。
「調査に当たる人員は4人になりますが、よろしいでしょうか?」
「かまいませんが。………4人とおっしゃると?」
「僕と、彼女、それにメカニック担当と周辺調査担当の調査員が各1名です。祓う必要も危険もないのであれば、増えることはないと思います」

 遺恨を残し、人に危害を与える可能性が高いような霊に関する調査ならいつものイレギュラーメンバーの力を借りる必要があるが、祓う必要もなく、祓うとしても浄霊が可能である公算が高ければ、彼らを呼ぶ必要はない。
 浄霊であれば――――麻衣で充分以上なのだ。多少の負担が彼女にかかることは否めないとしても。
 ナルは、精神の襞をちりりと灼いた焦燥に似た痛みに―――もはや慣れてしまった感覚に、一瞬だけ眉を寄せて、変わらず凍り付いた無表情を堀河に向ける。
 堀河は美貌の青年の揺らぎには気付かぬまま、穏和な表情に笑みを浮かべて頷いた。

「かまいません。………4人くらいでしたら、寝泊まりしていただく部屋も用意できます」
「そうですか。詳細については今日中に文書にしてご連絡します。………連絡手段のご希望は?」
「先ほど仰った、情報の取り扱いを含めて、規約に関しては正式な書面を別途頂けますか?」
「当然です」
「では、細かい打ち合わせはメールが早くて確実ですね。それでかまわないですか?」
「かまいません」
「それでは名刺をおいていきます。メールアドレスが書いてありますので、連絡はそれで」
 内ポケットから名刺ケースを取りだし、一枚をテーブルに置いて堀河は立ち上がった。
「………申し訳ない、今日はここで失礼します」

 平日昼間。
 スケジュールを調整してあけた時間のリミットは、もう間もなくに迫っていた。

 ナルは特に感情を見せず優雅な動作で立ち上がる。
「分かりました。今日中に連絡します」
「SPR、安原修、という差出人名でメールを差し上げることになると思います。安原はうちの調査員ですので」
 少女の澄んだ声が説明を付け加えた。
 今まで所長と依頼者の会話に口を挟まず聞いていた麻衣の言葉に、堀河はやわらかく微笑んで頷く。
「分かりました。連絡をお待ちしています」

 身軽い動作で立ち上がった少女に視線だけで会釈して、ナルにもう一度軽く一礼すると、彼は余裕のある態度は崩さないまま事務所を辞去した。
 


 静かに閉められた、扉。

 それを見つめて、麻衣は溜息を付いた。かすかなそれは、音にすらならずに彼女の胸裡だけに、落ちる。
 ほんの一瞬翳った瞳はすぐに明るい色を取り戻して、麻衣はくるりと振り返った。

「今回はみんなには連絡しないの?ナル」
「今のところ必要ないだろう」
 変わらず平坦な声に、麻衣はくすくす笑った。
「うん、そーだね。………久しぶりに静かにできるとか思ってるでしょ」
「別に」
 誰がいようと調査内容に変わりがあるわけではないし、誰がいようと同じ調査をするだけだ。
 ナルは軽く溜息を付き、漆黒の視線を滑らせた。
 その視線の先で、麻衣が躊躇いがちに口を開く。
「ねえ。予備調査って何?いつもはそんなのしないよね?」
「日付が決まっているから」
「日付?現象が実際に起こる?」
「そう。いくら何かが起こっていても、それが起こっていない時と比較しなければ、何とも言えない」
「比較のためのデータを取るの?」
「他に何かあるのか?」
 表情の見えない声で問い返されて、麻衣は溜息を付いた。
 この程度のことで怒っていてはナルの相手などできない。
 しかし、溜息を付くくらいのことはしたくなるのだ。

 その、麻衣の反応を、ナルは無視した。

「麻衣」
 彼女の答えを待たず、名前を呼ぶ。
 美しい瞳の漆黒の色彩が、ほんの僅かに深みをます。
「ナル?」
 何?、と小首を傾げた彼女の淡い色合いの髪が、やわらかな頬にさらさらとかかる。
「何、じゃないだろう」
「ないだろう、といわれても」
「いいのか?」
「何が?」
 きょとんと、まるで理解の色の見えない表情で問い返されて、ナルは呆れたように溜息を付いた。
「……二日から四日の予備調査。参加するつもりなのか?」
「………なんで?」

 依頼者である堀河にすでに伝えた調査メンバーに、麻衣の名はすでに含まれている。そして、そうでなくても、所長であるナルが参加するように「命じれば」、麻衣は基本的には拒否しないし、これまでも拒否したことはない。
 今更確認するようなことではないはずだった。
 麻衣は、ナルの瞳を見上げる。

 純粋な、疑問と――――――確実に存在する、期待。
 二つの感情が入り交じる、心。
 けれど、それは表には出されない、想い。

 一瞬だけ絡んだ視線は、すぐに外れた。

「三日。………卒業式じゃなかったか?」
 溜息混じりの怜悧な声が、落ちる。
 麻衣は目を瞠いた。
「覚えてて、くれたの?」
「それほど驚くようなことか?………その程度のことは把握しているつもりなのですが?谷山サン?」
「………研究一辺倒の所長様が、たかがバイト調査員の予定を考慮してくださるとは思わなかったものですから!」
 皮肉を交えた声に、これも皮肉で返して、麻衣は溜息を付いた。
 ナルを見上げる瞳の色を翳らせて、ふいと視線を逸らす。

「麻衣?」
「卒業式には、出たい。どうしても」
「出ればいいだろう」
「でも調査が」
 澄んだ声が固くなったのを感じて、ナルは苦笑した。
「一応はお前の名前も堀河さんには言ったが、好きにすればいい。どうせ予備調査でデータをとるだけだ」
「好きにすればいいって……」
「行ってもいいし、行かなくてもいい。行かなければ確実に卒業式に出られるだろう」
「でも、ナルは行くんでしょ?」
 思わず反射的に言葉を返して、麻衣ははっとしたように付け加える。
「それにリンさんも、安原さんも」
「それは当然」
「………あたしは、必要ない?」
 逸らされていた琥珀色の瞳が、再びつよく、漆黒の瞳に向けられる。ナルはその視線を変わらない無表情のまま受け止めて――――ほんの僅か、漆黒の瞳を緩めた。
「必要ないと言った覚えはない。植物に影響する霊現象は、僕にも経験がない。だから、どういう状況なのか全く予測が付かない。多少でも霊視ができる人間はいた方がいい」
 ナルは、かるい溜息を交えて言葉を切った。
 一年近く訓練を重ねた麻衣の能力は、その質も限界も未だ未知数な上にあまりコントロールできないにしても、必要な時にある程度使えるものになってはいるのだ。
「ただ、調査に行けば、保証はできない。わかっているはずだが?」

 おとなしかったはずの霊が、調査が入った途端に反発するというのは今までにも何度もあったことで、だからこそ絶対の保証はできない。いくら、現時点では何の問題もなかったとしても、調査に入ってもその状況が変わらないとは言えない。それは麻衣自身、この3年間で何度も経験したことだ。

「………それは、分かってるけど………」
「だから、好きにしたらいい」
「……調査に参加しても、卒業式には出させてくれるの?」
「可能な限りは協力する」
 それは、ナルにしては最大限の譲歩と言うべきだった。
 麻衣はくすりと笑う。
「随分親切なんだ」
「…………こういう時に、一人はいやだと言ったのは、麻衣だろう」
 ナルは溜息のように返して、麻衣の反応を待たずに踵を返した。
「安原さんが来たら所長室に」
 硬質な声だけを残して、所長室の扉が、閉められる。

 ぱたん、と乾いた音が響いて、麻衣は苦笑した。

 こんな会話をしても、何の意味もない。分かっているのにあえて無視する理由は、きっと一生消えないのだろう。
 所長室に消えた上司が自分と同じ溜息を付いているだろうことを心のどこかで確信しながら、麻衣は目を伏せた。


    †


「なるほど、分かりました」
 オフィスに着くなりコートを脱ぐ暇もあらばこそ、麻衣から依頼の話を聞いた安原は頷いた。理知的な瞳にはやわらかい笑みを浮かべて、年下の同僚の澄んだ瞳を見返す。
「当面の僕の仕事は、今日中に契約の詳細を依頼人の……堀河さんでしたっけ?」
「そうです」
「その堀河さんに送って、詳細を詰めることですね。それから、予備調査ですか?」
「はい。比較データを取るそうです」
「なるほど。予定はわかりました。それなら、いつもの周辺調査は、予備調査までに、少なくとも最低限必要な調査をやればいいんですよね」
「そうです。よろしくお願いします」
「予備調査の日程はもう決まっているんですか?」

 途切れることなく流れるように続いていた遣り取りに、空白が生まれた。
 かるく目を瞬いて、麻衣はにっこりと笑ってみせる。
「決まってます。二日から四日です。三月の」

 最後の単語に、安原の笑顔が凍り付いた。

「はい?」
「ですから、三月の、二日から四日です」
 にっこりと、笑顔を崩さずに麻衣は繰り返した。
「三月、ですか?四月ではなく?」
「そんなに先なわけないじゃないですか、安原さん」
 安原は苦笑する。
 ―――――これでは、いつもと立場が逆だ。
「谷山さん………」
「何でしょう?」
 麻衣はにこりと笑ってみせる。
 その笑顔に、安原は盛大な溜息を付いた。
「…………ということは、最低でも一日には報告は出さなければいけないということですよね?」
「基本のものは、いつものようにお願いします」
「ということは、二十八日中には僕は報告をまとめなければいけないということですよね?」
「そうなりますね」
 予測通りの笑顔が返って、また溜息を付く。
 抵抗の余地はないらしいな、と内心だけで苦笑混じりに呟いて、彼一流の笑みを浮かべた。
「時に、谷山さん」
「何でしょう?安原さん」
「今日は、何日でしたっけ?」
「二十六日ですね」
「………今日、事務作業をやれば、調査にかけられるのは明日と明後日だけですか」
「その通りです」

 麻衣の笑顔は完璧だ。
 ―――この辺りは所長の影響か、それとも本部の森まどか女史の薫陶か。
 ちらりと思考を巡らせてから、意味もない原因論に走っても仕方がないな、と苦笑して。
 安原は溜息を付いて頷いた。

「分かりました。鋭意努力します」
「すみません、お願いします」
 軽く頭を下げた麻衣の表情が苦笑に変わった。
 華奢な腕が伸びて、所長室の扉を指す。
「納得していただいたところで。………ナルが待ってます」
 苦笑混じりに告げた麻衣の、どこか困ったような瞳に、安原は苦笑を返す。
「分かりました。………参考までに、僕はどのくらい所長をお待たせしてます?」
「2時間くらい、です」
「所長のお話の内容は予想できます?」
「………多分、今あたしがお願いしたのと内容はかわらないとおもいます」
「分かりました、ありがとうございます、谷山さん」

 内容を知っているのと知らないのとでは、対応のしやすさが大分変わってくる。
 だから、いまの話は純粋に麻衣の心遣いなのだ。
 同僚の少女の配慮に感謝をこめて会釈して、安原は上司の待つ所長室に、向かった。


    †


「所長、お待たせしました。周辺調査の第1回報告です」
 二月最後の日の夕刻。
 いつもより少し遅れて事務所に出勤した安原の第一声はこれだった。

 珍しくオフィスのソファセットでお茶を飲んでいたナルの瞳が鋭くなる。
「何か確認できましたか?」
 安原は上司の正面に腰を下ろすと口を開いた。

「取りあえず、今の段階で分かったことをご報告します、所長。…………まず、依頼人についてですが。依頼人の亨さんは、確かに今は奥さん、お母さんと3人暮らしですね。奥さんは瑞穂さん、お母さんは香耶さんとおっしゃるそうです」
「家族間の関係は?」
「今はいない息子さんたちを含めて、とくに悪くないようです。少なくとも、近所の人の話によれば」
「………亨氏の亡くなったお父さんについては、何か分かりましたか?」
 堀河の話を聞くかぎりにおいては、彼の父親は何かの鍵を握っているように見える。
 ナルに問われて、安原は頷いた。
「はい。とても十分だとは思いませんが、一応多少は」
 手元のファイルを確認するように見直して、言葉を継ぐ。
「……久昭さんとおっしゃるそうです。香耶さんよりちょうど五歳年上で、従兄に当たるようですね。確かに、二年前に八十三歳でなくなっています」
「久昭氏に、兄弟姉妹は?」
「妹さんがひとり。…………六十五年前、十六歳になる少し前に病気が元でなくなっているのですが、咲耶さん、という方が。………香耶さんと同じ生まれ年です」

 僅かに考えるような光を宿して、それから漆黒の瞳がすっと真剣さを増した。

「鍵になりますか?所長」
「……可能性はありますね」
「では、久昭さんと咲耶さんに関する話を、集中的に調べてみます」
「お願いします」
 ナルは軽く会釈して、話題を切り替える。
「ところで、建物の方は?」
「堀河さんが仰ったというとおり、およそ六十五年ほど前に建てられたものです」
「六十五年ですか?」
「はい。増築や改修はされてますが、最初に家が建てられたのは六十五年前です。これは間違いありません」
「増築の時期と理由は、分かりますか?」
「はい。………二十年前、お子さんの部屋のために増築したようですね。ただ、本当に家の方では何も問題は起こっていないようですが」
 漆黒の瞳に怜悧な色を湛えて、ナルは頷いた。
「わかりました。………久昭さんと咲耶さんについてを中心に、調査を継続してください」
「はい、所長。…………予備調査は予定通り、ですか?」
「二日の午前中から始めたいと思っていますが?」
「分かりました。………亨さんにも確認してみますが、建物と敷地の図面が手に入らないか、ちょっと努力してみます。今回は人手が少ないですから、計測も大変だと思うので」
「………たしかにそうですね。お願いします」
 軽く笑った安原に、ナルは苦笑を返す。

 予備調査は、すでに二日後に迫っていた。 




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