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渋谷のオフィスから、首都高から高速道路を小刻みに幾つか乗り継いで、およそ二時間。 まだ春は浅く、冬枯れたままの木々と常緑樹の緑の中に目的地はあった。古い、けれど広壮な日本家屋は、調和を乱すことなく、ただ、午前の硬質な光の中で、そこにごく自然にとけ込んでいるように、見える。 開かれた門の中にリンが慎重な運転で車を滑り込ませると、そこにはすでに堀河が待っていた。高速のインターチェンジを降りる時に安原が連絡をいれたとはいえ、迎えが早い。 都内とは比較にならないほど清澄な空気。 しかし都内よりも遙かに低いその気温は、外で過ごすのに快適とは言い難い。 「リンさん停めて!先挨拶してくる」 「麻衣」 リンは、制止しようとしたナルよりも麻衣の意向を優先した。減速していた車を、ゆっくりと停める。 「どうぞ、谷山さん」 「ありがと」 運転席のリンから後部座席に座った自分の表情が見えないのは分かっていたが、麻衣はにっこり笑う。 隣に座っていたナルの機嫌が微妙に下方修正されたのにも気付いたが、彼女は意に介さなかった。もとより、隣のナルに見せるためにことさら笑って見せたのもあるのだ。 麻衣が後部座席からするりと車から降りると、ついで助手席の安原も降りる。 くるりと華奢な身体が振り向くと、華奢な身体を包むオフホワイトのコートの裾が、澄んだ風に翻った。 「堀河さん」 冷たい空気に劣らず、綺麗に高く澄んだ声はよく透る。 堀河は少女に柔らかい表情を向けて軽く会釈した。 「遠いところ、よく来て下さいました」 「寒いのに、わざわざお出迎えいただいて、どうもありがとうございます」 「いえ、私は慣れておりますから。……お車には機材が?」 堀河は麻衣に微笑んで、穏やかな瞳をワゴン車に向ける。 メールで行った事前の打ち合わせで、大量の機材を使うことはすでに知らせてある。麻衣は、連絡を担当した安原を一瞬見やり、視線を堀河に戻して頷いた。 「はい。………車はどこに停めさせていただけますか?」 「車で入れるようにしてあるところであれば、どこでもかまいませんので、適当にどうぞ。………ベース、と呼ばれるのでしたか?そちらの調査の拠点は」 「はい。………ですが、それがなにか?」 「お使いいただける部屋は用意してあります。そちらにはあとでご案内しますので、お車はそのあとでまた、そちらの都合のいいように移動させて下さい。外から車で近付ける部屋ですから」 「助かります。ありがとうございます」 麻衣は笑顔で頭を下げる。 堀河はうなずき、振り返って目線で玄関を示した。 「それでは、とりあえずは中にお入り下さい。家の者にご紹介します」 「改めて、遠いところまでよく来て下さいました」 落ち着いた広い洋間。 応接室として使われているのであろうそこに落ち着くと、堀河は改めて丁寧に頭を下げた。 ナルは相変わらずの無表情のまま、それでも優雅な動作で会釈を返し、怜悧な視線を堀河の両隣に座った二人の女性に向けて――――漆黒の瞳を正面に戻す。 「………改めて。SPR所長の渋谷一也です。堀河さん、あなたがオフィスにこられた折には調査員が揃っていませんでしたので、一応は紹介を」 すい、と滑った漆黒の視線の先で、まず、リンが頷いた。 「林、興徐と」 必要最小限の、言葉。 所長に劣らない無表情にも堀河は怯んだ様子を見せず、穏やかな表情のまま問う。 「大陸の方ですか?」 「はい」 リンは言葉少なに淡々と応えて、視線を安原に滑らせる。 それをうけて、安原は頷いた。 「安原修です」 堀河は驚いたように軽く目をみひらいて、笑顔になった。 「ああ、あなたが。いろいろとありがとうございました」 安原は笑って首を振った。 理知的な彼の笑みは、ひどく落ち着いた印象を与える。 「いえ、不備がなかったようで、良かったです。一応は事務関係担当ということになっていますので、何か分からないことや確認などがありましたら、まず僕にどうぞ」 「分かりました。お世話になります」 交渉相手もしくは質問相手としては、所長よりも遙かに声をかけやすく適任であることは一目見ただけでも明らかで、堀河は僅かに安堵したような溜息を付いた。――――おそらく殆ど無意識に。 一礼した彼が顔を上げるのを待って、今度は澄んだやわらかな声が、響く。 「調査員の谷山麻衣です」 やわらかく微笑んで堀河と二人の女性に軽く会釈すると、麻衣は一瞬ナルに視線を滑らせた。 瞳の色だけで確認して、彼女は堀河に視線を戻す。 「そちらもご紹介いただけますか?」 「ああ、そうですね。…………妻と、母です」 「亨の母の、香耶と申します」 「妻の瑞穂です」 彼の声の後を追うように、二人の女性のやわらかな声が、重なる。年輩の違う上品な二人の女性は、何か似通った雰囲気を纏っている。その、おっとりしたやさしい空気に、麻衣はどこか安堵してふわりと笑った。 「お二人とも、何か質問はありませんか?」 「いいえ、私は」 「私にも今のところはないですよ」 「そうですか。では、何かありましたら、お気軽に仰ってくださいね。それから、あとでまたお話を伺いますので、よろしくお願いします」 香耶は孫よりも若い可憐な少女に、やわらかい表情を向ける。 「私の話、ですか?なにかお役に立てればいいのですけれどもねえ」 「簡単に、気付いたことを話してくだされば、それで充分ですから。お二人ともよろしくお願いします」 「どのくらいお役に立てるか、分かりませんが。………それで良ければ、何でもお話ししますよ」 「ありがとうございます」 麻衣は微笑んで頭を下げた。 やわらかい少女の声に、硬質の低い声が、重なる。 「ではそういうことで、とりあえずはよろしいでしょうか?堀河さん」 「ええ、渋谷さん」 軽く頷いて、堀河は立ち上がった。 「それではお部屋の方にご案内致しますので、こちらへどうぞ」 洋間を出て、広い廊下を歩く。 玄関前を通り過ぎると、その右手に廊下が延びていた。 「こちらです。続いて4部屋ありますので、ご自由にお使い下さい。それから、何か必要なものがあれば、できるだけ用意しますのでお知らせ下さい」 「分かりました」 「ではこちらへ」 堀河はそのまま廊下を進む。 畳一枚分ほどの幅の廊下は4部屋めの向こうで突き当たり、左に曲がってさらに右に折れる。その廊下の南側にはまるで離れのようなつくりの部屋があった。丁寧な手付きで障子を引き開けると、明るい部屋が広がる。 「こちらが、その桜が見える唯一の部屋で………亡くなった父がみだりに入ることを禁じていた部屋です」 「桜の木は、今も見えますか?」 「はい。その正面の窓から庭が見えますので、見つけるのは簡単です。どうぞ」 言って、中に入ると障子を引き上げた。 ガラス戸の向こうに、冬枯れの庭。 そして、桜の木。 探すまでもなく、その木はそこにあった。 半月後に狂い咲くというその木は、今はまだ何の異変も見せず、ただ春を待ち寒さに耐える。 暫時木を見つめたナルはゆっくりと溜息を付き、堀河に向けて軽く会釈して見せた。 「では、お邪魔になってもいけませんので、私は奥に戻ります。………1時間ほどあとに、昼食をご用意しますので」 「ありがとうございます。………その後でお話を伺いにいくと思いますので、よろしくお願いします」 口を挟んだ麻衣に頷いてからナルに会釈すると、堀河はゆっくりと踵を返した。 充てられた部屋は和室が4部屋、そのどれもが相当に広い。ナルはわずかに考えて、桜の見える部屋に最も近い、玄関から見れば一番奥の部屋をベースに決めた。 近ければ近いほど、対処がしやすいからである。 「ここをベースにする。…………リン、機材を」 「どこに何を置きますか?ナル」 凪いだ隻眼が上司の美貌を映す。 数秒間の思考を置いて、ナルは端麗な唇を開いた。 「サーモグラフィーと赤外線カメラを外の桜と例の部屋へ。集音マイクも置く」 「わかりました。モニタとレコーダーはどうしますか?」 「ベースに置く。モニタも含めて、ここの設置は僕がやるから、リンは外の機材を頼む」 「はい」 リンの回答を確認してから、ナルは視線を麻衣に移した。 「麻衣」 「はい」 「安原さんと、この一角の計測をしてきてくれ」 「はーい。この一角って外も?」 「そう」 「………気温もね」 「気温と、傾斜、それから外周と内周の確認。図面があるだけマシだろう」 冷えた漆黒の瞳を向けられて、麻衣はちいさく肩をすくめて見せた。確かに、堀河が図面を提供してくれていなければ、計測作業は数倍大変なことになっていたはずだった。 「わかりました!!」 「外の気温測定は1メートルの方眼ごとに調べてくれ。気温が異常な地点がないか注意しろ」 「了解、ボス。それじゃ安原さん、行きましょう!」 「了解です谷山さん。では所長、行ってきます」 「私も当面必要な機材を持ってきます、ナル」 麻衣の声に安原とリンの声が重なる。 それを合図に、作業が始まった。 † 屋内での計測はともかく、屋外での1メートル方眼での気温と傾斜の計測は時間も手間もかかる。 堀河に許可を取り、あらかじめ調査ポイントに小さな釘とひもで印を付けてからはじめた計測作業はきわめて手際よく進められたが、それでも屋外ポイントだけで百ポイント近い計測地点があっては、麻衣と安原の二人だけでは作業の進捗にどうしても限度がある。あらかじめ堀河から渡された図面の拡大コピーに方眼線を引き、それに書き込んでいく作業は、予想していたよりも時間がかかった。 科学的データとして扱うだけに数値の精度は考えるまでもなく最も重要で、正確を期すためにはただ漫然と測っていくわけにはいかない。そして、それが余計に時間のかかる原因にもなっている。 「9―6地点、傾斜は………3度。気温、4'13℃。高度1メートルの気温、3'97℃」 地表から離れたところの気温を測ることを提案したのは安原だった。ナルには確認しなかったが、こういうデータは役に立つことも稀にあるので、ついでに一応測ることにしたのだった。あとで計測する手間を思えば、ついでに片付けてしまった方がずっと効率がいい。 きわめて、慎重な計測と真剣な瞳。 それは麻衣も安原も変わらない。ただ、安原が数値を読み上げる声と麻衣の復唱が、冷たい空気に溶けていく。 十地点ごとに交代で行っている作業は、もはや機械的になっていた。正確さを期するにはむしろその方がいいのかもしれないが、当然のことながら、集中の度合いが強い分だけ精神の消耗は激しくなる。調査慣れした二人にしても、屋外の作業は久しぶりで、しかも冷気の中での作業では集中力を保つのはひどく難しい。 「………安原さん、あとすこしです。あと少しで方眼が全部埋まりますから。埋めたらあとは桜の回りだけです」 「そうですね。頑張りましょう」 僅かな苦笑。 集中力は、まだ、ふたりとも途切れない。 二人とも、彼らの上司にとって計測している数値がどれほど重要かは熟知している。それだけに、絶対に手を抜くことはできないし、そんなことをするつもりもなかった。 結局、麻衣と安原がすべての計測を終えたのは、途中にはさんだ二十分ほどの簡単な昼食休憩を除けば、作業を初めてからおよそ二時間十分後だった。 時刻はすでに三時近い。 「これで、終わりですか、谷山さん」 「そうですね。安原さん。………リテークが出なければいいんですけど」 「大丈夫でしょう」 安原は笑った。 男である自分はともかく、少女である麻衣が相当の無理をしていることは分かっている。 彼女の精神力と集中力の強さが自分に劣るなどとは考えたこともなかったし、絶対にそんなことはあり得ないのはよく分かっていたが、男女の本質的な体力差というものは存在する。したがって、作業にかかる労力が同じなら、自分よりも麻衣の方が消耗度は大きいはずなのだ。 そして、かの美貌の上司はそれを明確に認識している。 それは甘さや優しさでは決してありえない、冷静な認識だが――――それとは全く別に。 麻衣が必要以上の無理をすることを、彼は決して許さないだろう。 安原は苦笑して、麻衣を促した。 「いきましょう、谷山さん。これ以上こんなところにいたら、風邪引いちゃいますよ。調査の前なのに」 「そうですね。所長に遅いと言われるのも腹立ちますしね」 麻衣はわざとらしく眉を顰めてベースの方を見やると肩をすくめ、そしてちいさく笑った。 「所長、おわりました」 ベースに入ってひらひらと図面を振った麻衣に、漆黒の視線が滑る。 「終わったのか?」 「はい、終わりました」 今度は安原が応え、麻衣の手から図面を受け取ってナルに渡す。 「1メートルの方眼とおっしゃいましたので、方眼ごとに傾斜と気温を取りました。気温は地上すぐと、1メートルのところで取ってあります」 必要な部分だけを拡大コピーした図面には精密な細い方眼が引かれ、その中には小さな、けれど明瞭な数字が並ぶ。 ナルの美貌が、綺麗な笑みを形作った。 どうやら合格らしい、と麻衣と安原が同時に溜息を付く。 「それでよろしいでしょうか?所長」 「とりあえずは」 安堵に、可憐な容貌が綻ぶ。力が抜けたように手近にあった座布団に座り込んだ麻衣を見やり、安原は苦笑した。 「随分寒かったですから、谷山さんは休ませてあげた方がいいと思います。女性は、身体を冷やしすぎては駄目ですからね。………僕は、そのデータをこれからデータベース化します。そのままでは使うに使えませんから」 「よろしくお願いします、安原さん」 安原の台詞の前半は綺麗に無視して会釈すると、ナルは凪いだ瞳を麻衣に向けた。 「麻衣」 「何か仕事があるならもちろんやるよ?明日卒業式だから抜けさせて欲しいしね」 「もちろんやって貰う。人手は足りてないからな」 「うん」 麻衣の表情にかすかな苦笑がよぎる。 「で、何?」 「お茶でも飲んでこい」 端麗な唇が紡いだ言葉は、あまりにも予想外だった。麻衣は一瞬沈黙して、目を瞬く。 「は?」 「お前は日本語も理解できなくなったのか?」 「…………ナル!」 「そうでなければ耳が聞こえないのか?」 「どっちでもありません!」 麻衣は憤然と力一杯主張した。 「耳が聞こえて日本語も分かるのなら、僕が何を言ったかも分かるはずだが?」 「でも!調査中にお茶なんて!」 「誰が休憩しろと言った?…………お茶でも淹れて、香耶さんと瑞穂さんから話を聞いてこい」 無表情のまま、端正な唇が言葉を紡ぐ。 一度、二度と、彼の言葉を反芻するように目を瞬いて。ようやく、琥珀色の瞳に、理解の色が閃いた。 「あ」 「わかったか?」 「分かりました。鈍くてすみません、所長」 麻衣は悪戯っぽく笑ってぺこりと頭を下げる。 「それじゃ向こうに行ってるね」 「用があれば呼ぶ」 「はあい。それじゃ、安原さん頑張ってくださいね」 安原と、ナルに。 同じほど綺麗な笑みをむけて。 麻衣はくるりと華奢な身体を翻すと、障子をひらいて部屋から滑り出た。 † 「失礼します」 挨拶の言葉を紡ぐ、綺麗に澄んだ高い声。 台所に滑り込んだ華奢な身体と、透明な、笑顔。 表情を一瞬強ばらせた香耶は、年老いた、けれど品の良い顔をすぐに和ませた。 「あ。驚かせてしまってすみません」 「いえいえ、谷山さん、だったわね?寒い中、外で作業していたのでしょう?もう終わったの?」 「はい、終わりました」 「まあまあまあ、良かったこと。寒かったでしょう。こんな寒い中、あなたみたいに細い子が無理をして、風邪でも引いたら大変だわ」 「本当に、お義母さんのいうとおりですよ。大丈夫だったの?谷山さん?」 「はい、大丈夫です。ありがとうございます」 台所に置かれたテーブルで、お茶を飲みつつ談笑していた嫁姑は、華奢な少女の姿を認めて、優しい笑顔になった。 口々にねぎらわれて、麻衣は微笑む。 こういう暖かい雰囲気は好きだし、彼女にとっては、きちんと年を経た女性の、母を思わせる包容はそれだけで安らぎになる。 「結構慣れてますから、このくらいでは風邪を引いたりしないんです」 「慣れてるって言ってもねえ。まあ、そこにお座りなさいな。温かいお茶でも飲みなさいね、淹れてあげるから。今はいいのでしょう?」 「谷山さんはお茶は何が好き?私たちはお煎茶を頂いていたのだけれど、何でもありますよ?」 麻衣は、心のどこかがほわりと温かくなるのを感じて、わらう。つい数時間前にあったばかりの二人の暖かさが、心遣いがたまらなく嬉しいと思う。 「お二人から話を聞いてこいと、所長に言われて伺ったんです。少しだけ、お時間いいですか?」 一抹の罪悪感を含めて問うと、それでも笑顔が返った。 「まあ、大変ね。私たちで本当にお役に立てるかなんて分からないけれど、ご協力はしますよ。主人にもそう言われてますしね」 「それにしても、所長さんってあの綺麗な男の子でしょう?厳しいわねえ」 ごく自然にでた香耶の言葉に、麻衣は一瞬言葉を失った。 あの、綺麗な男の子。 間違いがあるとは言えないが――――それにしても、年の功は偉大だ、と胸裡に呟いて、麻衣はまた微笑む。 「そうなんです。無駄を嫌うんですよ、うちの所長は。だから人使いが荒くて」 人使いが荒い、といいながらもくすくすと漏れる笑い声には、恨み言めいた翳りも非難じみた色彩もなく、ただ純粋な好感情だけが覗いていて、香耶も瑞穂も笑みを返した。 「まあ」 「でも、私、実は明日高校の卒業式で、こちらの調査も半日休ませていただかなきゃいけないんです」 麻衣は軽く肩をすくめた。 香耶と瑞穂は軽く目を見開き―――そしてやわらかな笑みを少女に向ける。 「それはおめでたいわね」 「おめでとう、谷山さん」 「ありがとうございます」 今度は軽く頭を下げて、麻衣は小さく笑った。 「だから、今日できることはやってしまわなければいけないんです。時間もないですから」 「じゃあ、谷山さんが所長さんに怒られないように、お話ししましょうか」 「そうですね、瑞穂さん。谷山さん、とりあえずお煎茶でよろしいかしら?」 「はい。ありがとうございます。…………それから、お二人とも、あたしのことは麻衣、って、名前で呼んでくれませんか?」 「そう?それじゃ麻衣ちゃん、て呼ばせてね」 一瞬怪訝な顔をした瑞穂はゆっくり微笑んで、息子より若い少女を見て、やわらかくわらう。 少女のためのお茶を淹れるために、彼女は立ち上がった。 「それで、麻衣ちゃん?」 「はい」 「聞きたいことって何かしら?」 お茶を配られ、出されたお菓子を遠慮しながら受け取った彼女を、変わらない穏やかな笑みで香耶が促した。麻衣は驚いたように目を見開いて、そして、僅かな苦笑を浮かべる。 「はい、ありがとうございます」 麻衣は、軽く頭を下げた。 やわらかな、相手を安心させるような表情はそのままに、琥珀色の瞳に宿る光が、すっと硬質なものに変わる。 「それじゃ、少しだけ、お話を聞かせて下さい。気軽に答えて下さってかまいませんから」 麻衣は、微笑む。 「気軽に、でいいの?」 「はい。分からなければ分からないでいいんです」 「それなら麻衣ちゃん、何でも聞いて下さいな」 「ありがとうございます、香耶さん。それではお二人に、伺いますが。………こちらに住まれるようになったのはいつでしょうか?」 「私は、結婚して、だから三十年くらい前よ、麻衣ちゃん」 先に答えたのは瑞穂の方だった。香耶はゆったりとした微笑を浮かべて、息子の妻の表情を見つめる。 「そのころ、桜の狂い咲きのお話はありました?瑞穂さん」 麻衣に問われて、瑞穂は軽く首を傾げて何か考えるように目を細め――――頷く。 「はっきり覚えてはいないけれど。聞いたような気はするわねえ。でも、今ほどあからさまなお話じゃなかったわ」 「あからさまなお話ではない、というのはどういうことなんでしょう?」 「そうね。別に禁句だとかそういうのではないのだけれど、あの桜、見えるのがあのお部屋だけでしょう?特に桜の時期は、誰もあのお部屋の回りには近づかなかったから、話題にもしにくかったし………。なにより、お義父さまが嫌がられているようだったから、なんとなく、話題にしてはいけないような雰囲気があったのよ、麻衣ちゃん。………お義母さんはどうですか?」 ゆっくりと、考えながら言葉を紡いだ瑞穂は、麻衣に優しい笑みをみせてから義母に視線を向けた。 その視線を受けて、香耶が頷く。 「麻衣ちゃん、すこしいいかしらねえ?」 「はい。どうぞ」 ふわりと笑った麻衣をひどく優しい―――どこか懐かしそうな眼差しで見つめて、香耶は軽く息をついて口を開いた。 「私はね、瑞穂さんよりは、ここの家のことをよく知っているの。もちろん、亡くなった主人―――久昭さんと結婚したのはもう六十年も前で、私は二十歳のころだけれど、ここの家には、もっと前から出入りしていたの。親戚ですからね」 老いた、品の良い顔に笑みを浮かべて、香耶は懐かしそうに宙を見つめた。 「若いあなたには、きっと想像がつかないでしょうけどね?麻衣ちゃん。あのころはまだ身分、てものがすごく大事な時代だったのよ。だから、本家の敷居は高かったの。私は分家筋の娘でも、久昭さんの許嫁ではあったから、他の人たちと比べれば随分出入りしていたと思うわ。………あのころは、咲耶さんもまだいらっしゃって、同い年の私は親しくしていただいていたし」 「咲耶さん、ですか?」 麻衣の瞳の彩が真剣さを増した。 十五歳で亡くなった、久昭の妹の咲耶。 堀河から直接には何も聞かなかったが、安原の調査では何度も出てきた、重要人物の、名前である。 香耶は、懐かしそうな表情でどこか遠くを見つめたま、言葉を継いだ。 「そう、咲耶さん。久昭さんが、誰よりも大切にしていらっしゃった妹さんがいらしたのよ。………とても聡明な、美しいお嬢さんだったけれど、お身体が弱くて…………。十五歳で、亡くなってしまったの」 「十五歳で、ですか?」 「そう。十六歳のお誕生日はもうすぐだったのに、まるで散り急ぐみたいに…………」 それは、咲き急ぎ、散り急ぐ桜花のように散った―――――美しい、うつくしい花。 「亡くなる三日前くらいからは、ただ、桜が見たい、それだけで……………」 桜が見たい。 散らなければならないなら、桜の花とともに散りたい。 そう繰り返す、囁くような細い声の鮮明な記憶と、透き通るような咲耶の顔を枕元で見つめる、久昭の瞳の光。 ただそれだけが、何よりも強く強く、印象に、焼き付く。 「桜、ですか?」 高く澄んだ声。それを極力抑制した問いかけに、香耶は瞳を向けて―――かすかに笑った。 「そう、桜ですよ、麻衣ちゃん。………咲耶さんが亡くなったその次の年から、あの桜は狂い咲くようになったのですからね」 咲耶が息を引き取った、それに合わせるように散る桜。 一周忌、まるで時刻まで合わせるように散った狂い咲きの桜を、凝然と見つめる久昭の瞳を、自分の心を。 痛みとともに鮮明に刻み込まれた記憶を、香耶は想う。 「でもね。あの桜は、咲耶さんの御霊を慰めようとしてくれていると思っているのよ、私は」 そう言った香耶の透明な瞳と微笑みを、絶対に忘れないだろう、と、麻衣は思った。 「それで?」 麻衣が、香耶と瑞穂から聞いた話を整理して説明し終えると間髪入れず、平坦な声が響いた。 漆黒の瞳が向けられて、麻衣は軽く息をついて総括する。 ナルが求めているのは麻衣自身の意見だ。 「あたしは。香耶さんが言ってることは一理あると思うの」 麻衣の言葉に、漆黒の瞳が複雑な色を一瞬かすませて―――――軽い溜息を付いた。 「つまり。植物が何か意志に似たものを持っている、と?」 「………植物の意志っていうほどはっきりしたものじゃなくても、咲耶さんの意志か、もしくは霊が桜に影響している可能性だってあると思う」 ナルはまた、軽く溜息を付く。 「日本の自然物崇拝だな。………まあ、確かにあり得ないことじゃない。………今夜と明日、桜と例の部屋を監視する」 「はあい」 麻衣は肩をすくめて溜息を付いた。 † 「ナル!」 「所長」 サーモグラフィのモニタを監視していたリンと、「例の部屋」に追いやられた麻衣を監視するための高感度カメラのモニタを見ていた安原が、ほぼ同時に動いた。 「どうしました、安原さん。麻衣の様子に何か?」 漆黒の瞳が最初に向かった先で、安原がモニタを示す。 「谷山さんが、明らかに何かを見ています。ですが、モニタには何も映っていません」 安原の声が、硬い。 モニタの中、驚いた表情の麻衣の瞳は、部屋を通り越し、桜の木に、向かう。 「リン。どこの温度に異常がある?」 モニタを見つめたまま、怜悧な声だけがリンに飛んだ。 「大まかにいえば、桜の周辺です。しかし、低い部分が動いています」 「どのくらい低い?」 「ばらつきがありますが、0.5℃から2℃程度低くなっています。それから、その冷気が遠ざかると逆に僅かに気温が上がります」 「僅か?」 「0'1℃から0'5℃ほどです」 モニタの中で、麻衣は桜を凝視する。 今はまだ、冬枯れたままのはずの桜の木 それを、陶然と―――まるで、それが満開に咲き誇っているかのように、瞳を奪われる。 吸い寄せられた琥珀の瞳に、狂おしい焦燥を、感じた。 † 冷たい、広い部屋。 整って美しく――――けれど、ひどくよそよそしい。 麻衣は思わず自分を抱きしめた。 寒いからでは、ない。 覚悟していた以上に冷えた部屋はひどく寒かったが、それでも、充分以上に調査済みの気温に相応した服装をしてきた麻衣が凍えるほどではない。 凍えたのは身体ではなく心で、凍えさせたのは、何よりも強い、寂しさ。 充分な手入れはされていても、六十五年にわたってここに人が住んだことはない。 ただ、咲耶という一人の少女の記憶だけを宿した部屋。 たった十五年で、短すぎる命を散らした彼女の魂は、大切にされるあまりに孤独を抱えただろう。 彼女の記憶は、他の人間の痕跡によって散らされることも癒されることもなく、ただ時の流路に落とした影を濃くしていっただろう。 ここで一人、十五の少女は、桜を望んだのだ。 そう、麻衣は息をのむように想う。 真夜中、というには、まだすこし早かった。 けれど、部屋の中も外も、夜の帳に覆われて、闇に沈む。 空気にのまれそうな気がして、麻衣は息をついた。溜息というよりもむしろ軽い深呼吸のようなそれは、ゆっくりと冷気に溶けて拡散していく。 ナルが麻衣を一人でこの部屋に行かせたのは、麻衣が何かを「視る」可能性があるからであって、のみこまれる可能性がないからではない。 時間の空隙に囚われているのは、時間の絶対的な流れを歪めているのは、一人の少女で―――だからこそ、多少の差はあるとはいえ同じ年頃の少女である麻衣なら、部外者に対する反発は最小に押さえられるだろう。 ナルの意図は、ただ、その予測に根拠を持っている。。 だから、危惧するべきなのは、反発ではなく同調。 一時間という時間の限定を行ったのは、麻衣を必要以上の危険に晒さないための配慮であり予防策であって、それは充分に有効であるはずだった。 けれど、部屋にしみこんだ孤独の翳りが、心をひきずる。 ナルが危惧していたであろう方向とは全く違う方向に引きずられ始めていることに、麻衣は僅かに苦笑した。頭の中でループしはじめた、解くことなどできない縺れた思考を振り切ろうとするかのように、頭を軽く振る。 色素の薄いやわらかな髪がふわりと宙を舞い――――そして、その動きは唐突に、止められた。 麻衣の、淡い色彩の瞳に映ったのは、桜の木。 今はまだつぼみも堅いその木は――――闇の中。淡く浮かび上がって見えた。 「え?」 瞠いた、琥珀色の瞳。 驚愕は―――――すぐに、納得にとってかわられる。 問うまでもなく、すでに用意されてあったかのように、その答えが心に響く。 ――――桜が、咲いたの。 ああ、桜の花は闇のなかに浮かぶから。 ――――闇の中の、花も綺麗。 でも、桜には早い……… ――――そう?だってあんなに綺麗なのに。 耳に、響く、少女の声。くすくすという綺麗な笑い声は高く澄み切って、響く。 それが、自分の声なのか、それとも違うのか―――それさえもう分からない。 裡から聞こえるのか、それとも外から聞こえるのか、どちらかも分からない声に促されるまま、麻衣は瞳を再び窓の外に向けて。その瞳は、淡く色づく、美しい花を満開に咲かせた桜を、映す。闇の中に浮かび上がる桜の美しさに、瞳を、魂を、奪われた。 心を満たした安堵と喜び。 泣きたくなるほど、ただ、狂おしいほどに。 「待ってた…………やっと、咲いた」 闇に溶けた、小さな呟きは、誰のものなのか―――――。 今はまだ、冬枯れたままの桜の木。 それに、陶然と麻衣の瞳が引き寄せられて――――奪われる。瞳を、心を、奪われる。 桜に、闇に、吸い込まれるように囚われた。 「所長、これ、まずくないですか」 「………リン」 緊迫の度合いを増した安原の声には答えずに、ナルは漆黒の瞳を部下に向ける。胸裡の焦燥は、一片たりとも外には出さずに、ひどく凪いだ瞳だけが、その漆黒の色を増す。 「はい、ナル」 「気温は」 「………先ほど言ったとおりです。それから………谷山さんの回りが」 「低いのか」 「はい」 リンは短く答え、言葉を継ぐ。 「ナル、危険です。彼女が憑依されては、落とせる人間はいません」 憑き物落としが得意なジョンは、いない。 霊視のできる真砂子もいない。 麻衣自身が憑かれた場合には、当然のことながら麻衣の力はあてにできない。 そして、この一年で訓練を積んだ麻衣の精神の防御は強いはずで、だからそう簡単には憑依されないはずなのだ。 たとえジョンか真砂子がこの場にいても、その麻衣が憑依されるほど強い霊を落とすのは、考えるまでもなく容易ではないだろう。 「今は、影響は受けていてもまだ憑依には至っていないはずです、ナル」 常に落ち着きを保っているはずのリンの声の端に、強い焦りが覗く。 ナルは軽く息をつき、立ち上がった。 「ナル?」 「リン、そのまま気温の監視を続けろ。安原さんはモニタで見ていてください」 「分かりました」 「了解です、所長」 「ナル。気をつけてください」 リンの言葉には応えず、ナルはゆっくりとベースを出た。 ベースから、咲耶の部屋―――いま、麻衣のいる部屋までは、十メートルもない。ナルは歩調を乱さず廊下を歩き、廊下と部屋を隔てる障子を引き開けて――――目を、瞠いた。 サーモグラフィーのデータを見るかぎり、気温はわずかに下がっているはずだが、皮膚感覚としてはっきりわかるほどではない。 ナルの視覚には冬枯れているようにしか捉えられない桜の木に、魅入られたように瞳と心を奪われて、少女は広い和室の中央に立ちつくす。 その姿に、どうしようもない違和感を感じた。 見慣れたはずの、よく知るはずの彼女の気配が根本にあることは間違いないのに、見た瞬間に思わず目を疑うほどの、差違の源は―――――。 綺麗に澄んだ、明るいはずの麻衣の瞳。 それが、黒く、染まりかけていることに気付いた瞬間に、ナルは動いた。可能な限り反発を招かないようにという配慮に、下手をすれば反発を強めるだけだという危惧に、感情に近い衝動が凌駕する。 「麻衣!」 数歩で距離を埋め、細い手首を強引に掴んで振り返らせた。名前を呼んだ、強い声が停滞していた空気を切り裂く。 冷気を孕んでふわりと髪が揺れて、そして。 ―――細く開けられたままの障子の隙間を通して廊下から僅かに漏れる光をはじく。 黒く、澄んだ、瞳。 それはナルを捉えて、ゆっくりと、その色を淡くする。 唇が僅かに動いて、声にならない呟きが落ちる。 胸を裂くような痛みと、頬を伝った一筋の涙を残して、麻衣の瞳は澄んだ琥珀色に、戻った。 「麻衣」 繰り返し、強く呼びかける声。 半ば呆然としていた少女は、華奢な身体を一瞬震わせて、白皙の美貌に瞳の焦点を結ぶ。 「……………ナル………」 「分かるな?」 「………うん、ごめん」 「別に謝る必要はない」 再び、彼の声から表情が消える。 掴んだままだった手を離すと、支えを失った華奢な身体が崩れ落ちるように、麻衣は床に座り込んだ。何が起こったのか判らない、というように一瞬驚いたように周囲を見回し、それからナルの瞳を見上げた。 「……ナル、なんか変、かも」 「力が入らないのか?」 「あはは…………そうみたい………」 「立てないか?」 「………う。分かんない」 「分からない?」 秀麗な眉が顰められて、麻衣は首を竦めた。 「なんか、どこに力を入れて良いのか分からない、っていうか………どうやったら力が入るか分からないっていうか。どうやって立つのか分からない」 ナルは漆黒の瞳からやや皮肉な表情を消した。 「引きずられてるのか?」 「…………かも」 麻衣は微妙に視線を逸らす。 ナルは軽く溜息を付いた。 「仕方ないな」 「え!?ち、ちょっとナル!?」 「話はベースに戻ってから聞く。この部屋にこのままいれば風邪を引くと思うのは僕の気のせいか?」 いきなり抱き上げられて呆然とした麻衣に、皮肉混じりの視線が返る。 反射的な抵抗すらできないほど麻衣の手足が萎えていることに内心だけで眉を寄せて、ナルは麻衣の答えを待たずに、冷ややかな部屋から足を踏み出した。 モニタで様子を見ていた安原がベースに仮眠用の布団を敷いていて、ナルはそこに華奢な身体を慎重に下ろした。防寒のために着込んでいた上着を、力の入らない彼女から脱がせて、そのまま横たえる。 「ごめん、ナル」 「………別に。………リン、気温は」 「今は平常に戻っています」 「桜の周辺もか?」 「はい。あなたが谷山さんを引き寄せた………一、二秒後くらいには、冷気のポイントが消滅しました」 「データは?」 「とってあります。現在も記録はしていますが………監視を続けますか?」 「今はずっと見ている必要はない。一応十分おきに確認は続けろ。………安原さん、あなたは何か見ましたか?」 「いいえ」 「………異常は、全く何も?」 「はい。………所長は何かご覧になったんですか?いきなり谷山さんの腕を掴んだりするから、驚いたんですけど」 安原は頷いて、そして反問した。 霊をいたずらに刺激するような行動は、特に様子見のいまの段階では避けるべきだ。それをあえて強引な行動に出たのは、ナルが、機械の目には映らないような何かを見たからだ、と考えざるをえない。 ナルの瞳が深くなる。 安原の言葉は、信用できる。そして、その言葉を信じるならば。 未だに心に焼き付いた、黒く染まった麻衣の瞳。 それは、自分しか見なかった、機械の目には感知されない変化だということになる。 「ナル?」 少女の声に呼ばれて、ナルは視線を麻衣に戻した。 澄んだ瞳の色彩は、彼女本来の淡い色合いで――――そのことに、ひどく安堵する。 ナルは安原には答えずに、麻衣に問いかけた。抑えられた声は内奥の感情を映すことはない。 「記憶は?」 「多分大丈夫だと思うんだけど…………分かんないよ?」 「途切れている感覚はないんだな?」 「それはない」 「断言できるな?」 「うん」 「それならいい。今、話はできるか?」 問われて、麻衣は少し躊躇った。 「話はできるけど…………動けない。どうしてか分からないんだけど」 「谷山さん、どこかが痛いとか重いとか、そういうのはありませんか?」 「ないです、リンさん。どこもおかしくないのに、動かし方が分からないんです」 ナルは溜息を付いて口を挟んだ。 「麻衣、とりあえず、部屋に入ってから僕が行くまでのことを、覚えている限りでいいから話せ」 「………部屋にはいって、しばらくは寒かったの。暖房入ってないんだし、当たり前だけど。それがそのうちに………気温が冷たい、というよりも、何だかとても寂しくなって、頭の中がぐるぐるしてきたから気持ちを切り替えようとして、それでふっと外を見たら――――あの桜が、見えたの」 麻衣の言葉は、ひどくゆっくりと紡がれる。 記憶を、心を見直すように、途切れそうになりながらも言葉を紡ぐ彼女を、ナルは急かさなかった。 「桜が?」 「うん」 頷いた麻衣の瞳に、切られるような痛みを含んだ寂しげな色がよぎった。 「ぼうっと光って見えた。花が咲いているみたいに」 「谷山さんが、首を振って、いきなり止まったところですね。桜が視界に入るとしたら」 「あ、安原さんはカメラで見てたんですよね。多分、そうだと思います」 麻衣はぱちりと目を瞬いて、瞳を上司に向けた。 「そうしたら、意識が二重になったような感じがした」 「二重?どういうことだ」 「………光ってるように見えて、びっくりしたんだけど、すぐ、やっと咲いた、てすごく嬉しくなったの」 「それで?」 「分かんないけど、ああ、桜の花は闇の中に浮かんで見えるから、木が光ってるように見えるのかって納得した」 「それから?」 「………はっきり覚えてないけど………やっと桜が咲いた、て思って、すごく嬉しくて、ほっとした」 「ほっとした?」 「うん。やっと咲いてくれた、って」 やっと、咲いた。 ―――――やっと、散れる。 心に響いた想いは重くて、麻衣は気取られないように息を落とした。 ナルは溜息を付く。 「つまり、完全に同調していたわけか」 「完全にってほどじゃないと思うんだけど」 「危なかっただろう」 「…………そうでも、ないと、思うんだけど」 布団に横たわったまま、上目遣いに見上げてくる麻衣の瞳を見返して、ナルは皮肉な笑みを形作る。 「何を根拠に?」 「意識も飛ばなかったし。リンさんも安原さんも別に異常なかったって言ってるし」 「…………僕は、あなたの目が黒くなっているのを見ましたが?谷山さん?」 皮肉な声のあとに、沈黙が落ちた。 「何か恨みを残した悪質な霊じゃなくてよかったな」 「………悪質な霊でも人を一人で放り出すのかあんたは!」 「場合によるが」 さらりと返して、ナルは安原に瞳を向けた。 「安原さん、いまの麻衣の話と映像とを合わせて、時間を整理して下さい。それからサーモグラフィのデータに突き合わせますので」 「今からですか?」 安原の問いかけに、ナルは軽く溜息を付いて漆黒の視線を麻衣に滑らせる。麻衣は闇色の視線を受け止めてまっすぐに視線を返した。 「ナル?何?」 「………やっぱり行くのか?」 「卒業式?」 「そう」 「行く。行きたい」 「その状態で?動けなくても?」 「動けるようになる!何が何でも行く。できるだけのことはするってナル、言ったよね?」 「言った。………ということです、安原さん」 安原は溜息をついて、聞かなくてもわかっていることを確認する。 「つまり、彼女が出る前にデータの照合をすませろと?」 「そういうことです」 無表情のまま答えが返って、安原は溜息を付いた。 現在の時刻は、すでに午前0時を僅かにだが回っている。これから、この状態の麻衣と映像を見ながら詳細に検討していけば、軽く三時は回るだろう。 確かに麻衣がいなければ照合作業はできないし、麻衣自身が希望している以上、この所長を説得するという無為な努力はするだけ時間の無駄だ。 「了解しました、所長。…………頑張りましょうね、谷山さん」 「すみません、よろしくお願いします」 安原の、諦め混じりの声には特に気を留めないまま、一瞬だけ漆黒の視線を麻衣に滑らせて、ナルは立ち上がった。 深夜。 時間を完全に無視した分析作業は、未だ春分にはとおい凍り付いた冬の空が白むまで、続いた。 † 徹夜明けの午前五時すぎ。 堀河が好意で用意してくれた車に乗り込み出発したナルと麻衣を見送って、リンと安原は苦笑混じりに溜息を付いた。 「それにしても若いですねー、二人とも…………」 「そうですね」 「何しろ、十代ですからね………」 「ああ、確かに。とにかく谷山さんが動けるようになってよかった」 リンが苦笑混じりに付け加えて、安原は笑った。 「そうですね。やっぱり動けなくなったのは、例の咲耶さんの影響なんでしょうか」 「どうでしょう。憑依とは違うように感じましたが」 「そうなんですか?………でも、桜の狂い咲きと谷山さんのあの状態って、どういう関係なんでしょうね」 「それは、ナルが考えるのでしょう………」 「そうですね。………ところで、朝食まで、まだかなり時間ありますよね?」 「そのはずですが?」 朝食は八時に用意します、と香耶は言っていた。それは安原も聞いていたはずで、リンは瞳に怪訝な色を浮かべる。 安原は苦笑して、それから言葉を返した。 「それまで僕たちは少し寝ませんか。このままでは若者についていけませんから」 ナルとは一歳しか違わない安原の冗談に、リンはまた苦笑をうかべる。 「そうですね、そうしましょうか」 リンにとっても安原にとっても、ただ徹夜するだけなら、一晩や二晩は大した問題ではない。 それでも、昨夜のようなアクシデントは相当に精神に負担を強いる。大事にならなくてよかったという安堵は大きく、同時に精神的な疲労も大きい。 澄み切った、夜明けの近い藍色の空を見上げて、リンと安原は苦笑を交わし、家に入った。 つかのまでも、緊張を解かれた穏やかな休息に、はりつめていた精神は、癒される。 |
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