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花待 4




「こんにちは、お邪魔します」
「まあまあ、麻衣ちゃん!いらっしゃい」
 玄関先で声を上げた麻衣を出迎えたのは瑞穂で、麻衣は明るい笑顔を見せた。

 予備調査に入ったのが三月二日、三日は卒業式で殆ど調査にならず、そして四日の夕方に一応の予備調査を終えた。
 今日は十五日。予備調査が終わってから、十日が経過している。しかしその間、やはり堀河の好意で置いたままの機材の保守点検と、置いているついでとばかりに延々ととり続けてハードディスクに落としているデータの点検のために、必ず、最低でも2日に1回は誰かが堀河邸に出入りしていた。作業の主体になっていたのはリンか安原だが、麻衣はその作業にに何回か同行していたから、ここには3日ぶりに来たことになる。
 何回かの訪問のうちに、麻衣は瑞穂にも香耶にも可愛がられるようになっていた。

「今日から、本調査、だったわね」
「はい。一週間、お世話になります」
「いえいえ、嬉しいのよ?私は」
 瑞穂はくすくす笑って、ちょうど入ってきたナルに視線を移した。
「よろしくお願いします、渋谷さん」
「………こちらこそ」
 一応は応えた玲瓏と響く声に、表情は相変わらず存在しない。ただ、予備調査の時点で、この美貌の青年の極端な無表情に完全に慣れてしまった瑞穂は特に動じず、申し訳なさそうに頭を下げた。
「すみません、せっかく調査を始めていただくのに主人がいなくて。今日の夕方と明日の朝一番に、どうしても抜けられない会議があるとかで、今日は東京に泊まりなんです」
「かまいません」
「そうですか?何か必要なものや欲しいものがありましたら、ご遠慮なく私に仰ってくださいね。できるかぎり、すぐにご用意しますから」
「はい」
 依頼人に対しては一応礼儀正しいナルの答えに微笑んで―――そして、瑞穂は何か意識に引っかかったように眉を寄せた。数瞬おいて、彼女はああ、と手を打って、ナルに笑顔を向ける。
「ああそうそう、渋谷さん、忘れるところでした」
「なんでしょう?」
「先ほど安原さんからお電話がありまして。少し遅れるのでお気になさらないでください、という伝言を渋谷さんあてにお預かりしています」
「そうですか。分かりました。ありがとうございます」
 ナルは軽く会釈して、麻衣に視線を向けた。
 麻衣は視線だけを受けて特に彼の言葉を待たず、頷いて瑞穂に向き直る。
「瑞穂さん、これから簡単な打ち合わせをするんですけど、そのあとにまたお時間を頂けますか?」
「わかったわ。打ち合わせは三十分くらいになるかしら?終わった頃にお茶でも用意するわね、麻衣ちゃん」
「ありがとうございます、瑞穂さん」
 麻衣は微笑ってもう一度頭を下げると、華奢な身体をくるりと翻して、彼女よりもひと呼吸早く踵を返してベースに向かった所長の後を追った。

「ナル。あたしは、何をすればいい?」
 ベースに入り、起動されたままのモニタをチェックし始めたナルに、適当な座布団を出してきて座り込んだ麻衣が、尋ねた。
「とりあえず、この後、本調査の流れを瑞穂さんと香耶さんに説明してこい」
「それは分かってるってば。あたしが聞いてるのは、いまからやる調査の内容」
「………基本的には、前回の予備調査と同じ」
「同じ?」
「気温の測定と、例の部屋の様子見。それから桜の監視」
「気温の?」
「そう。………ただ、安原さんが来てから始めた方がいいだろうな」
 怜悧な瞳にはなんの表情もなく、ただ平坦な声だけが、響く。
 麻衣は僅かに首を傾げて、考えるように少し眉を寄せた。
「他にすることがないなら、ゆっくりになるけど気温の計測始めるよ?」
 今回は傾斜を測る必要がないから、前回ほどの時間も労力も必要ではない。もちろんすべての地点を一人でやるのは大変だろうが、それでも、早く始めれば早く終わるはずだ。
 麻衣は言葉を継ぐ。
「……それとも、咲耶さんの部屋の様子、少し見ようか?」
「それは駄目だ」
 断言に近く、強い禁止がかえってきて、麻衣は一瞬きょとんとした。不必要だ、といわれることは予想していたが、駄目だといわれることは完全に予想外だったのだ。
 データを映し出すモニタから外された漆黒の瞳は、麻衣をまっすぐにとらえる。
「え?」
「え、じゃない。あの部屋に、一人で近づくな。絶対に」
「なんで」
「………霊は、前回の調査よりも活性化している可能性がある。日付が日付だからな。3年もやっていて、その程度のことも分からないのか?それとも、今度は完全に憑依されたいのか?」
 呆れたような、けれど冷たい声が玲瓏と、響く。
 麻衣はう、と言葉に詰まった。
 何と言っても予備調査の段階で同調した実績があるのだ。昼間だからあり得ないという保証も、夜になって憑依される糸口を作らないという保証も、どこにもない。
「………そのくらいわかってるけど。でも、咲耶さんの部屋に近づけないんだったら、他にあたしにできることなんてないじゃんか。だから気温の測定やるって言ったの。ナルは、どうせこれからそのデータの分析始めるんでしょ?」
 予備調査のデータのデータベース化と、新しいデータを処理するためのプログラミングが終わったのは昨夜のことで、まだ分析作業は終わっていない。
「その通りだが?」
「だったら!安原さんとリンさんはいつ着くのか分からないし、一人でなんにもしないでぼーっとしてるっていうのも嫌だし。………言われたとおり、あの部屋の中には入らないから。絶対に」
 だから、仕事をさせてほしい。
 そう言った麻衣の主張は正論で、ナルは溜息を付いた。
「好きにしろ。―――ただし、例の桜にも近づくな」
 口調を変えて付け加えられて、麻衣は首を竦める。
「はあい。分かりました、気をつけます」
「それから、日が落ちる前には必ずここへ」
 無表情のまま、変わらず冷淡な声で重ねられた言葉は、それでも麻衣を気遣うもので――――麻衣は軽く目を瞠いた。
 おもわず絡めた視線は、ナルの方から、外される。漆黒の瞳はモニタに戻され、もう、麻衣を見ようともしない。
「分かりました、ボス」
 麻衣はくすりと笑って敬礼してみせ、華奢な身体を翻して部屋から庭に出ていった。


    †


 時刻は、すでに午後六時を大幅に回っていた。
 たった一人でも、四時間もあれば気温測定は終わる。
 桜の周辺と室内の調査を禁止されればなおさら時間は短縮されるから、データの打ち込みまで片付けてしまった。
 予定よりも大幅に早く作業を終えてしまった麻衣は、所在なくベースの隅に座り込んでいた。隅、という定位置を自分に言い聞かせておかなければ、ナルのそばに行きたくなってしまうし、そばに行けば作業中の彼の邪魔になる。
 邪魔は、したくない。
 そして、邪魔だとは思わせたくない。
 それだけの想いで、麻衣は身体を壁に貼り付けて、怖いほどの美貌と真剣な闇色の瞳を、距離を置いて、見つめる。

 キーボードを叩く乾いた音と、時折響く風の音。
 それだけが空間を支配する、静寂――――。

 どのくらいそうしていたのか、麻衣は、はっとして廊下と部屋を隔てる引き戸を見た。
 可憐な容貌が明るく輝くのとほぼ同時に、扉が開いた。
「遅くなりました、所長」
「安原さん!」
 綺麗な声が明るく弾んだ。
 ぱっと立ち上がり、笑顔で駆け寄ってきた同僚の少女に苦笑して、彼は会釈する。
「お待たせしました、谷山さん。予定時間のちょっと前に、ちょっとひっかかる資料を見つけたものですから」
「資料ですか?」
「ええ。大したことはないかもしれませんが、多い方がいいですからね。明日から出歩けるかどうかも分かりませんし」
「そうですね。あれ?リンさんは?」
「車を置いて………もう来ると思いますけど」
 柔らかい表情で麻衣に返して、安原は振り返った上司に視線を戻した。苦笑混じりのその視線に気付いたのか気付かないのか―――――ナルは、完全に表情を変えないまま、闇色の瞳だけで安原を促す。
「所長が仰っていた資料はすべて揃いました。いや、ほんとに無理じゃないかと思ったんですけど何とか」
「………ご苦労様でした」
「いえ、遅くなってすみません。気温の測定は………」
「麻衣が」
 声がさらりと返って、安原は目を瞠く。
「え!?谷山さんが、ですか?」
「終わりました、安原さん」
 答えたのはナルではなく麻衣で、彼は再び振り返った。
「結局異常はありませんでした。…………便利ですね、あの入力プログラム」
「入力もすませちゃったんですか」
 ―――自分は相当遅かったらしい、と、安原は苦笑する。
 麻衣は軽く首を傾げて、笑った。
「でも、桜のまわりも咲耶さんの部屋も、近付いてないですからその辺はやってません。ナルに立ち入り禁止令を出されましたから」
「当たり前です、谷山さん」
「ナル、お待たせしました」
 安原の断言口調に、落ち着いた低い声が重なる。
「リン」
「調査の結果はまたあとで、安原さんとご説明します」 
 いわれて、ナルは眉を寄せた。
「リン?今ではいけないのか?」
「はい。…………お食事だそうです」

 リンは、硬質だが端正な顔に苦笑をかすませた。


    †


「それで、なにが分かりましたか?」
 上司に促されて、安原は座布団に座り直した。
 手元のノートパソコンとファイルを見比べて、僅かに逡巡し、答える。
「まず、桜についてです。あの桜ですが、高砂という品種の桜です。奈天、武者といった別名があるようですね。ちなみに学名はPrunus serrulata f.caespitosa、初出は一九一六年の論文のようです。すみません、これ以上はちょっと調べられませんでした」
 安原はここで言葉を切ったが、答えは待たなかった。
 一瞬だけ上司の闇色の瞳に視線を滑らせ、言葉を継ぐ。
「この品種の桜の、本来の開花期は、東京で四月の半ばになるそうです。瑞穂さんに確認しましたが、例の木以外の「高砂」は、こちらでは四月二十日前後の開花だということでした。―――この堀河邸には、桜の木が品種取り混ぜて十本ほどありますが、そのうち3本がこの種類です。どれも植えられたのはここが建てられた当初ですね」
「建築年代は?」
「登記簿を調べてみたんですが、第二次大戦前、ということしか分かりませんでした。増築や細かい補修工事は、何回か行われていますが、どれも小規模なものです。特に、建物のこちら側………玄関の南東側部分は殆ど手つかずですね。北西側については、三十年前に亨さんの結婚に合わせて一部屋が、二十年前に上のお子さんの小学校入学を機に二階部分が増築されています。二回目の増築では水回りの工事もされているようです」
「内容は、亨さんの話と一致していますか?」
「はい。瑞穂さん、香耶さんにも個別に伺いましたが、一致しています。ついでに近所の人にも聞いてみましたが、答えは変わりませんでした」
「それは予測通りです」
「はい、所長」
 安原は理知的な瞳に笑みを浮かべて、続ける。
「そもそも、堀河家はここの土着の家ではないんですよ。本来は東京に居所を持っていたのが、この家を新築して移ってきたのだそうです」
「移ったのは誰ですか」
 怜悧な、漆黒の瞳と凪いだ声。
 返されて、安原は軽く笑った。
「………流石ですね、所長。お察しの通り、全員ではありません。当時の堀河家は、亨さんのお祖父様にあたる久侑氏と妻の祥子さん、長男の久昭さんと長女の咲耶さん、という構成でした。そして、こちらの家に移ったのは、祥子さんと咲耶さんだけです。………この家を建てた目的そのものが、空気のよいところで咲耶さんを療養させるためだったようですから。久侑氏は仕事の関係でこちらには滅多に来れなかったようですが、帝大の学生だった久昭さんは相当頻繁に訪ねてきていたようですね。少なくとも週に一度くらいの割合で」
 ナルは軽く眉を寄せたが、僅かに外れたところで話を聞いていた麻衣が小さく挙手して発言を求めた。
「安原さん、ちょっと質問なんですけど」
「何でしょう、谷山さん」
「………そんな昔の話を、そんなに詳しく、一体どこから聞いてきたんですか」
 安原の笑みが大きくなった。
 よくぞ聞いてくれた、とばかりの態度に、麻衣は思わず一歩後ずさる。
「や、安原さん?」

「老人会の集まりに、潜入してみました♪」
「は?」
「いやあ、変化の少ない土地柄ですからね、大事件だったらしいんですよね。皆さんよく覚えていてくださって」

 東京からやってきた病弱な少女と、彼女を週一回の割合で見舞う兄。二昔前の少女漫画のような設定だが、だからこそ印象には強く残っていたらしく、お年寄りたちは自分の思いこみも含めて語ってくれたので、安原は大量の情報を集めることができたのだった。
 思いこみというものは、きちんとフィルタにかけて再分析してやれば様々な情報の宝庫になるものだ。
 ふふふ、とたっぷり何かを含ませて笑う安原に、ナルは軽い溜息を付いて先を促した。

「……安原さん」
「あ、はい、所長。………結局咲耶さんは、こちらに来て一年経たずに亡くなっています」
「咲耶さんの病名は?」
「………特に分かりません。色々資料を当たってみたり、香耶さんにも聞いてみましたが………生まれつき、極端な虚弱体質だったようです」

 ――――身体の動かし方が分からない。
 そう言った麻衣の声が脳裏に再生されて、ナルは内心軽く眉を寄せたが、表情は全く動かさないままに、冷たい無表情を保つ。

「ですから、結局咲耶さんは、彼女のためにこの家に植えられた桜を目にすることはありませんでした」
 そう結んだ安原に、ナルは確認のように問う。
「…………咲耶さんと、桜の関係は?随分強く関連づけられているようですが?」
「ああ」
 頷いて、安原は笑う 
「咲耶、というのは日本神話の女神の名前です。正確には、このはなさくやひめ、ですね。色々な漢字を当てる例があるようですが、火鎮めの神、そこから富士山の神、です。このはなさくや、という名前から桜の神ともされています」
「桜の神の名をもらって、咲耶、ということですか?」
「おそらくはそうだと思います。だからこそ、久侑氏は娘のために桜を植えたのでしょうから」
 安原は、ナルには示さないものの、殊にうつくしい花を、ときには香りのよい花を咲かせる品種ばかりを集めた庭の桜の品種リストを思う。
「咲耶さんはそのことを知っていたと思いますか?」
「………推測ですが、おそらくは」
 安原の回答に、ナルはしばらく考えて、それからもう一度口を開いた。
「そうだとすると、桜――――特に、あの桜と自分を、咲耶さんが同一視していた可能性がありますね」
 怜悧な、美しい声が、ベースを一瞬支配した静寂に、浸透する。麻衣の瞳がほんの僅かに翳ったことは、誰も―――麻衣自身すら、気付かなかった。



 なにをするでもなく、ただ壁にもたれて茫洋と作業を眺めていた麻衣は、自分の回りがやけに静かなことに気付いた。

 一人になることは、自分に割り当てられた部屋で一人になることは、絶世の美貌と天才的頭脳を誇る上司が、麻衣が口に出して求める前に禁止した。しかし、これといって何か仕事があるわけではなく、だからといって日付が変わるような真夜中に、依頼人であるこの家の女性たちのところへ行くわけにもいかない。
 人に危害を加える霊の場合には、依頼人を護るために付きそうこともある。けれど、今回に関しては、影響を受ける可能性がもっとも高いのは、十代の少女という共通項を持つ麻衣なのだ。
 仕方なく、ベースの片隅で、他にすることもなく――――麻衣はただ、作業を続ける3人を、見ていたのだ。
 確かに静かではあったが、重奏低音のような機械の作動音と、時折キーボードを叩く乾いた音、そして資料をめくる紙の音は、決して途切れず存在していた。
 それは、確かなのに。


 ――――耳が、痛いほどの、静寂と、闇。


「………ナ、ル………?」
 
 なぜかひどい不安に駆られて、名前が、口をついて、闇にこぼれた。

 言葉がこぼれた瞬間に、自分がなにを言ったのか思い出せなくなる。


 ――――今、誰を呼んだの?
   分からない………。

 ――――どうして怖いの?
    わから、ない…………。

 どうして、怖いのだろう。
 ――――――そばに、いるのに。

 それなら。
 そばにいるのは誰なのか――――――誰に、そばにいて欲しいのか。

 混ざっていく意識の中で、少女は答えの見えない迷宮に墜ちる。

 怖いのは、忘却。
 怖いのは、何よりも怖いのは…………………護ってくれる、存在。



 硬いつぼみが膨らむには遠い、冷気。
 今はまだ、遙かにとおい桜時。

 けれど。
 枕が上がらないほど弱った、自分の身体。
 ――――足りない、時間。


「兄さま」
 ひどく弱々しく掠れた声は、けれど向けられた瞳の光でひどく強く心を裂いた。
「咲耶?」
 声が震えないように、表情を覆い隠すのは、ひどく難しいことなのだと彼は初めて知った。もう、血の気がないどころか透き通るような、白すぎる妹の頬をそっと指先で辿る。

 枕から白い敷布に広がる長い黒髪を梳くと、力の入らない、折れそうに細い指が、兄の手に縋る。
「桜は………?」
「………早咲きの、桜は。もう咲き始めているよ」
「私の、あの桜は?」
「あれはまだ咲かない」
「もうすぐ、咲く?いつ咲くの?」
「あとひと月くらいだよ」

 黒い、澄んだ瞳が翳った。
 確かによぎった光の色は、絶望――――それは、悲しみでも、諦めでも、怒りでもなく。
 精神を引き裂く、慟哭。

「咲耶」
 彼は思わず妹の名を呼んだ。
 けれど、彼女の透明な瞳はもう兄を映さない。
 天井に向いていた頭をゆっくりと動かして、兄の反対――――桜のある庭を向いた。
「見たいの。桜の花が咲くのを、見たい………」
「見られるよ。あとひと月すれば、あの花もきれいに咲く。そのころには春も盛りだよ」

「………あとひと月も、待てないのに……………」

 呟いた細い声は、痛々しいほどに透明に、響く。
 蒼白な頬を、ただ一筋だけ、光る雫が、伝った。

 花を希う、少女の瞳と囚われた魂。
 強すぎる執着は、まるで、なにか証を残そうとするかのように、濃い影を時の流れに灼きつける。

 儚く散る桜花。
 色も褪せぬまま、ただ風に攫われて散る花はそれでも強く人の心を捕らえるから。
 だからこそ、せめて桜ほどには、自分の存在を残したいと希った。
 桜とともに散れば、桜の残像とともに残ることができると思った。
 
 花が、見たい。
 自分と重なるのだと兄が微笑んだ桜の、うつくしい花が見たい。
 

 ――――それは。
 
 散る花を見るために。

 褪せぬまま散る桜花と、ともに散るために―――――。


 少女の、本当の祈りは、未だ見えないまま―――――時の間隙に、沈む。





      …………衣……
 

 混ざり合う意識が、徐々に乖離していく。
 どうしようもない想いを、持て余す。

   …麻衣………


  麻衣?
  それは、あたし。あたしは彼女じゃない。
   呼ばれているのはあたし。

 呼んでいるのは、誰?


「麻衣!」
 
 意識が明確になった途端に、呼ぶ声も明確になる。

 強い、強い声で呼ばれて、麻衣は重いまぶたを上げた。
 最初に視界に入ったのは、見慣れた、凄絶なまでの美貌の――――今は、焦燥の色をつよく映した漆黒の瞳。
「ナル…………?」
 名前が意識に浮かび上がった瞬間に、何故か涙が溢れた。

「ベースで寝るな」
 麻衣の名を呼ぶ声に滲んでいた焦燥と緊迫の色彩を綺麗に払拭して、声は冷酷に響く。けれど、白い頬を伝う涙をぬぐう指先は、そのかわりのように、泣きたいほど優しく頬に触れ、髪を梳いた。 
 触れている指先を通して伝わる感情は、何よりも、強く深い、安堵。

「ごめん………」
「なにを見た?」
 問いかけたナルの声は、ひどく静かで、波立つ麻衣の心に浸透していく。
 まっすぐにナルの瞳を見て、そして目を伏せて―――――再び闇色の瞳を見上げる。
「麻衣」
 促すように再び名前を呼ばれて、麻衣はゆっくりと口を開いた。
「………分からないけど。多分、亡くなる直前の、咲耶さんだと、思う…………」
「それは、視たのか?それとも同調したのか?」
「視た、ような気はするけど、でも同調したのは確か」
 ナルの瞳の、漆黒の色が深まる。
 秀麗な唇が言葉を紡ぎかけ―――――その言葉は背後から飛んだ声に遮られた。
「ナル!」
「リン?どうした」
「………部屋の温度が急激に下がっています。今………ちょうど1℃下がりました。まだ下がります」
 リンの声に、緊迫の色が強くにじむ。ナルは一瞬だけ逡巡し、麻衣の瞳に視線を合わせて確認するように訊ねた。
「動けるか?」
「この前と同じ……」
 麻衣の言葉を最後まで聞かずに、ナルは彼女を抱き上げて立ち上がる。
 彼女の琥珀色の瞳の、滅多に見せない縋るような彩に、どうしても抗えない自分を心のどこかで自嘲しながら、彼は意識を切り替えた。彼女に関する葛藤は、これまで嫌になるほどしてきたし、これからもするのだろうが―――――今は、その時ではないのは明らかで。
 感情の彩は、見せない。
 それだけは、何があっても、絶対に。

「リン」
 凪いだ、声。
 その声に隻眼の視線を向けて、リンはモニタを示した。
「中央部分を中心に、気温が下がってきています。現在………1'3度下がりました」
 広い和室の中央部に、低い温度を示す青い表示が拡大していく。
「これは……………」
「ナル」
 呼びかけられて、ナルは視線だけを麻衣に向ける。
 麻衣は答えを待たずに続けた。
「ここ…………この、温度が下がっているところ、咲耶さんの布団があったとこだよ」
 麻衣の言葉を理解した瞬間、ナルの瞳が、すっと真剣さを増す。

「所長!」
 緊迫した安原の声が、まだ静穏を保っていた空気を引き裂いた。
「安原さん?どうしました」
 変わらず表情のない声が、尋ねる。
「桜が」
「桜?」
「…………咲き始めています」
 安原の指先がモニタを示した。

 モニタの中で、未だ固かったはずの蕾が、やわらかくほころんで―――――繊細な、淡い花びらを開かせる。
 夜に灯りをともすように、ふわり、ふわりと花が闇に溶けていく。

 常ならぬ、けれど魂を奪われるほどに。
 ―――――それは、美しい、光景。

 まだ厳しい冷気の中で咲く花は、ひどく澄んだ色をしていた。

 未だ、開花には遠く、固かったはずの蕾。
 現実に、まだ咲かないままの蕾は硬いまま冷気にたえて、ひと月後に出会うであろうあたたかな春の陽射しを待ち望んでいるように、見える。

 かたく瞑った、いまはまだひらかないつぼみと、冷気の中、闇に抱かれるようにやわらかな花びらを綻ばせた花と。
 隣り合う花と花を隔てるのは、あり得ないはずのときの間隙。
 ふわり、ふわりと、冷気の中に手を伸ばすようにひらいていく花の色は、昏い闇の中に溶けるように透明に澄みきって――――どこまでも異質なもののように、やわらかい光を宿して。

 それは、息をのむほどに、美しかった。


 
「ナル」

 開花が始まり、安原が注意喚起をしてからどれほどの時間が経ったのか。 
 4人ともが思わず言葉を失い、超高感度カメラのレンズを通してモニタに映る花に魂を奪われた。その沈黙を、ひどく抑制されたリンの声が、破った。そうしなければ震えてしまうとでもいうのか、感情を限界まで殺して抑制した常よりも低い声は、奇妙なほど明瞭に、響く。
 呼ばれた、深い漆黒を纏う青年は、視線だけを有能な部下に向けた。烈しいまでの疑問の色を宿した隻眼を向けられて、彼は溜息を付く。
 闇色の視線を、腕の中に抱いたままの麻衣に一瞬だけ滑らせて、今の現象が彼女に影響を及ぼしていないことを一瞬で見て取って。
 ナルの瞳は再びリンに戻された。
「…………これは、何ですか。ナル」
「分かっていれば調査の必要はない」
 白皙に皮肉な笑みが浮かんだ。
「ナル!」
 聞きたいのは結論ではない。現時点でのナルの考えだ。
 それを充分以上に理解した上で皮肉に紛らわす、ナルの態度を責めるように、リンの声が強く飛ぶ。
 
 それでもナルは、応えない。
 思考と同じほど深く、漆黒の瞳が染まる。

「所長」

 そのまま内面に埋没しそうな彼の精神を、安原の冷静な呼びかけが現実に引き戻した。

「何でしょう?安原さん」
「開花が、止まりました。もうすでに十分間、新しい開花はありませんので、とりあえずは止まったと判断して良いと思います」
「その判断の根拠は」
「今までもそれほど一気に咲いたわけではありませんでしたが、開花の間に三分以上の開きはありませんでしたので、十分の空白があれば止まったと判断できるかと思います。もちろん、次の開花が始まるのは五分後かもしれませんが」
「分かりました」
「とりあえず、最初の開花から、最後の花が咲ききるまで六十八分ほど経過しています。花の数はちょっと分かりませんが、だいたい、気象予報で使う言い方なら、咲き初め、というところかと」
「………もう少し数値的にお願いできますか」
「桜に限らず、木に咲く花の開花状態は、日本では公的な気象予報でも「何分咲き」という表現を使うんですが、「咲き始め」は、一分から三分、つまり10%から30%程度の花が咲いている状態のことを言います。ちなみに「満開」といえば八分咲き以上をさします」
「………分かりました」
 軽く伏せた瞼をあげて、怜悧な視線が安原からリンに移った。
「リン。例の部屋の気温は」
「………戻っています。0'1℃から0'2℃低いポイントが3点ほど残っていますが、名残でしょう」
「桜周辺は?」
「桜周辺の気温に異常はなくなりました。今は周辺と平均しています」

 軽い、溜息。
 秀麗な目元が一瞬だけ眇められて、彼はまた小さく溜息を付いた。

「………はっきり言って、よく分からない。こういうケースは全く初めてだからな」

 起こっているのは、確実に、桜の狂い咲きだけだ。
 人的にも物的にも、被害も、影響も、ない。
 弊害はといえば麻衣が影響を受けて、六十数年前の光景だろうと思われる「何か」を見、この家の主人の叔母にあたる夭折した少女だと思われる「なにか」と同調しているだけだし、それすらも彼女以外には何の意味ももたらさない。
 麻衣自身にとってさえ、傍目に見えるものとしては身体が萎える程度の弊害しかない。

 地盤にも磁気にも狂いはなく、局地的に気温が高いわけでもない。その上で、咲耶のものだった部屋の温度変化に連動した桜周辺の気温変化が桜の開花を促していると考えられる以上、この現象は何らかの霊―――ゴースト、あるいはスピリット―――が関係している可能性が高いだろう。
 しかし、現段階で推測が可能なのはそこまでで、何が、どのような理由で桜を促す温度変化を起こしているのかまでは分からない。そして、どうしてこの「霊」が、この日付に桜を咲かせ、散らさなければならないのかも。

 ―――――データが少なすぎる。
 溜息混じりの呟きは、声には出されない。
 ナルは無表情のまま口を開いた。

「気温のデータと開花の関係を見ていきたい。……サーモグラフィーの気温データと赤外線カメラの映像、それから例の部屋と桜周辺の温度変化、その3つをできるだけ早く分析して、それぞれの相関関係を検討する」
 当面はデータを蓄積して法則性を見つけ、それ以上は麻衣の、常にあてになるわけではないが一応信頼はできる霊視に頼るしかない。
 
 今回は、期日までに何が何でも解決しなければならないわけではない。期日までに解決できなければ下手をすると死者が出るようなケースもあるが、今回は期日まで、データを蓄積して原因を突き止めれば良いだけだし、そうしなければ有効なデータを取ることはできないだろう。
 今回の目的は、あくまで「原因の究明」であって「事件の解決」ではないのだ。
 そして。
 麻衣が影響されていることからみれば、現象の源になっているのは「咲耶」という一人の少女の霊だろうが、それも上手くすれば浄霊できるだろう。 
 精神的には大分楽だな、と内心だけで苦笑混じりに呟いて、ナルは新しい指示を出した。
「データはとり続けるが、交代で休む。一人残れば充分だろう。二時間交代でデータを監視する。何も問題がなければ、放置していてかまわない。………麻衣」
 突然呼ばれて、驚いた表情で麻衣はナルを見上げる。
「ナル?何?」
「お前は寝ていろ」
 起きていても役に立たない。
 きっぱりと付け加えられて麻衣は目を瞬き――――上目遣いにナルを睨んだ。
「役に立たないって言い方はないでしょ!!」
「たつのか?役に?」
 秀麗な口元に、皮肉な笑みを形作り、ナルは麻衣の琥珀色の瞳をまっすぐに見る。
「立たないけどさ」
「それならいちいち騒ぐな。………何か質問は?」
 少女の抗議には耳を貸さずに、彼は再び視線を戻した。
 漆黒の視線の先で、リンの隻眼が苦笑気味に、緩む。
「とくには」
「僕も特にありません。それじゃまず、所長が休んでくださいね。谷山さんを連れて行かれるなら、そのついでにですから良いでしょう。リンさんと僕の分担は、こちらで話し合いますので」
 にっこりと、鉄壁の笑顔で断言されて、ナルは溜息を付いた。逆らう理由はないし、安原を相手にこの種のことで論戦をしても途中で疲れるのは、ナルだ。

「…………分かりました。朝、七時まではこの指示で動いてください。状況によっては知らせてください」
「もちろんです、所長。お休みなさい、谷山さん」

 ナルは、笑顔のままの安原に無表情のまま軽く会釈を残して、あいかわらず肢体に力の入らない麻衣を慎重に抱え直すと、踵を返してベースから出ていった。

 時計の短針は、すでに2をわずかに回っていた。


    †


 桜にも、問題の部屋にも、夜の間には異変はなかった。


 廊下に衣擦れの音がして、安原が顔を向けるのと同時に、廊下と部屋―――ベースを隔てる障子がひらく。
 遠慮がちに障子を開いたのは絣の着物を着た香耶だった。香耶は、いつもというわけではないがたまに和装のこともある。それを数回の訪問で学習しているリンと安原は驚かなかった。
「おはようございます、香耶さん」
 安原はにっこり笑って香耶を迎え、リンも品の良い老婦人にやわらかな表情で会釈する。
「おはようございます、リンさん、安原さん」
 香耶は笑顔を見せ、そして怪訝な顔で部屋を見回した。
「あら、所長さんと麻衣ちゃんは………?」
「ああ、交代で監視をしてましたので、今は休んでます。もう起きているとは思いますが」
 五時間弱をリンと2人で分担し、結局はナルを呼ばなかった安原はそういって笑った。
 呼ばなかったことに関しては後でナルからクレームが付くだろうが、何も香耶にばらすこともない。
「夜を徹して見ていただいているのですか………。ありがとうございます」
 香耶は丁寧に頭を下げ、そして微笑んだ。
「起きていらっしゃるなら、お茶でもおいれしましょうか。それとも朝食になさいますか?支度はできていますが」
「そうですね………どうします?リンさん」
「朝食を頂けますか、香耶さん」
「ええ、もちろんですよ。やはりあちらで召し上がりますか?それともこちらへ?」
「香耶さんと瑞穂さんもこれからご朝食ですか?」
「ええ、これからです」
「それじゃ、せっかくですからご一緒しましょう?所長と谷山さんも呼びますから」
「まあまあまあ、にぎやかで嬉しいわ」
 香耶が軽く手を打って笑う。

 その笑顔とほぼ同時に。
 再び障子がひらいた。
 
「あ、所長。おはよ…………」
 現れた青年を捉えて笑顔で挨拶をしかけた安原の、語尾が消えた。
 多少のクレームが付くことは覚悟済みだった。けれど。

 漆黒の青年の、纏う冷気―――――。

「ナル?」
 リンが、庇うように香耶を自分の背後に押しやる。
「何かあったんですか?所長」
 たかが交代を知らせなかったことを咎めるにしては、ナルの様子は異常すぎる。

 答えは、秀麗な唇から、簡単に与えられた。

「麻衣が、引きずられた」

 表情を失った声が紡いだ内容を、理解するのに要した時間は数瞬で。
 リンと安原の表情が強ばった。
「ひきずられた?………意識は」
「意識は問題ない。ただ」
「動けないんですか?この前………あの直後みたいに?」
 安原の問いかけに、ナルは答えない。答えずにくるりと踵を返して、ナルは隣室に向かうと扉を開けた。
 
 部屋の中央に敷かれた、白い布団と、そこに横たわった華奢な少女。東洋人としては色素の薄い、栗色の髪、透けるように白い肌、澄んだ淡い色彩の、瞳――――。
 どれも、彼女本来のものだというのに、一瞬目を疑うほどの、違和感。

 違和感の源は、彼女が持つ、生気に満ちた輝きの欠落だと、香耶も含めて気付くのに時間は要らなかった。
「ナル………?………あ、おはようございます、香耶さん、リンさん、安原さん」
 澄んだ高い声は力無く、今にも壊れそうに脆く響く。
 
 驚愕のあまり、安原とリンが言葉を失う中で。

「咲耶さん……………」
 
 香耶の声が、落ちた静寂の間隙に、響いた。

 無意識に漏れた自分の言葉にはっとして、香耶は自分の口を覆う。
 
 髪の色も、瞳の色も、顔立ちも、身に纏う空気も。
 麻衣と咲耶に、共通点はまるでない。
 確かに、麻衣は華奢ではあるが、虚弱ではない。健康な肌の色も、綺麗に伸びた身体の線も、短い生涯の過半を病床にあった咲耶にはなかったものだ。

「香耶さん」
 感情を見せない―――けれど、落ち着いている、とか穏やかな、とは到底形容できない、声質だけは美しい声を向けられて、香耶ははっとした。
「ごめんなさい、私、馬鹿なことを言ったわ。麻衣ちゃん、大丈夫なの?」
「誤魔化さないでください。香耶さん、あなたの印象は重要なデータです」

 香耶の心を切り捨てるように。
 氷の刃のように鋭利な声が言葉を遮った。

 言い逃れを許さない、怜悧な漆黒の瞳が香耶を見据える。
 基本的に依頼人には―――少なくとも、依頼を受けた「依頼人」に対しては、特に精神的な配慮を忘れることはないナルの、容赦のない態度。
 それを、安原もリンも、咎めることはできなかった。
 ただ、ナルと香耶の遣り取りを、見守る。

 はからず落ちた沈黙を、話題の焦点でありながら疎外されていた麻衣の声が、破った。

「ナル」
 彼女にとっても訳が分からないまま萎えてしまった手を伸ばして、黒いシャツの裾を引く。
 振り返った闇色の瞳をまっすぐに見上げる淡い瞳から、彼女本来の輝きは消えてはいなかった。
「香耶さんを、責めないで。こんなところでこんな風に寝てたら、重なってしまってもおかしくないから」
「それで重なっただけなら、なにも問題はない」
 ナルは溜息混じりに部下である少女に返して、再びその瞳を香耶に戻した。
「そうなのですか?ただ、似たような状況だから――――重なっただけですか」
「香耶さん。ほんの小さな印象でも、いいんです。……我々はプロです。少なくとも所長は、優秀な専門研究者です。普通は見逃すような些細なことでも、重要な手がかりになるんです」
 相変わらず平坦なナルの声に、安原の説得が重なった。
 二人の青年の真摯な視線を受けて、そして、横たわったまま、心配しなくても良いのだとでも言うようにやわらかな微笑みを浮かべた麻衣の顔を見て。
 失礼致します、と一言断ってからナルの前に静かに座った香耶は、目を伏せて――――そしてゆっくりと口を開いた。
「所長さん、本当に些細な印象でかまわないのでしょうか」
「かまいません。どんなに些細なことでも、下らないと感じることでも結構です」
「………印象が、重なりました」
「印象、ですか」
「はい。印象です」
 香耶は大きく息を付いて、自分の、年輪を刻んだ手を見つめ、そして目の前の秀麗な青年を見た。
「麻衣ちゃんにはこの前お話ししましたが、私はこの家が建てられた当時から良く通っておりました」
「ここは、久昭さんの妹さん―――咲耶さんのために建てられたものだとか?」
「ええ。お身体が生まれつきお丈夫でなかった咲耶さんの療養のために、この家は建てられました。私はその当時、満十五歳になるやならずやでしたが、すでに夫の許嫁でしたのでよく通っておりました。同じ年の生まれで、お名前を一字頂いたご縁もあって、小さい頃から咲耶さんの遊び相手として呼ばれておりましたし」
 香耶は一度言葉を切ったが、軽い溜息を落としただけですぐに話を続ける。
「………こちらへ来てすぐはそれほどでもありませんでしたが、そのうち………そうですねえ、亡くなる二ヶ月ほど前から、咲耶さんのお部屋に入ると、なにか………飲み込まれるような気がするようになりました」
「そういう印象を、先ほどの麻衣から感じた、ということですね?」
 ぎりぎりまで抑制された声。
 糺されて、香耶は記憶を辿り直す。



 一番奥に位置する南東のはずれの部屋。
 広い廊下をゆっくりと歩いて、隔てになっている障子戸の前に正座する。
 軽く深呼吸して、障子をそっと開けると、そこに存在する絶対的な空気に、飲み込まれるような気がしていた。


 その六十数年前の記憶にある感覚は、彼の後についてこの部屋に入って、横たわった麻衣を目にした時に感じた飲み込まれるような感覚と、重なる。
「………はい」
 肯定に、ナルは息を付いた。深いのか、浅いのか、他者からは測ることすらできないそれは空気に溶けて、消える。
「分かりました、香耶さん。………参考までに伺いますが、その感覚を、咲耶さんに対して最も強く感じたのは、いつ頃のことでしょうか。………憶えていらっしゃる範囲でかまいません」
 香耶はわずかに躊躇ったが、強い漆黒の瞳と、麻衣の、やわらかい透明な微笑みに促されて口を開く。
「咲耶さんが亡くなる前、最後に二人きりでお会いしたときに一番強く感じたように思います」
「日付は憶えていらっしゃいますか?」
「正確な日付までは憶えておりません。………あの当時の記憶は、どうしてだか少し曖昧で」
 香耶は苦笑して、それでも付け加えた。
「ただ、亡くなるまで十日もなかったことはたしかです」

 周辺の記憶は、ひどく曖昧だ。
 けれど、あの、最後にふたりきり、逢ったときの記憶は、六十数年の前のことだとは思えないほど――――まるで昨日のことのように明瞭に、心に刻み込まれている。
 見たくないほど透明だった咲耶の黒い瞳の光に透けた色合いまで、はっきりと思い出せるほどに。


 広い家、その、一番奥の部屋。

 広い廊下をゆっくりと歩いて、隔てになっている障子戸の前に正座する。
 軽く深呼吸して、障子をそっと開けると、そこに存在する絶対的な空気に、飲み込まれるような気がしていた―――。


    †


 障子がひらく音に反応して、部屋の中央に寝ていた少女が振り返り、微笑む。生気の不足した美しい貌と黒い瞳は、それでも一点の曇りもなく澄みきっていた。

「香耶」

 弱い、澄んだ声。
 ふわりと微笑うその表情が心に痛くて、それでもその痛みを彼女に見せるのは赦されない気がして―――香耶は、ほんのわずかな猶予を求めてゆっくりと障子を閉める。
 障子側を向いたまま、軽く瞑目して深呼吸して。
 それから静かに向き直ると少女の枕元に正座した。

「咲耶さん」

 できるかぎり、音を立てないように、大きな声を出さないように。
 驚かせたり、不快な思いを決してさせないように。

 それは、この脆い硝子細工のような少女の周りにいる時の暗黙の了解であり鉄則だった。身に染みついた習慣に従うように、香耶の声はごくごく穏やかに抑えられる。

「良かった、香耶が来てくれて」
「咲耶さん?」 
 香耶は怪訝な顔で同い年の従姉の透き通った瞳を見返し―――そして目を瞬いて、言葉を継いだ。
「すみません、咲耶さん。………久昭さんですが、今日はどうしてもお出でになれないと」
「兄さま?良いの、兄さまは」
 一度、二度。
 驚いたように目を瞬いた咲耶は、そういってくすくすと笑った。楽しげな、けれどひどく弱い笑みは、部屋の静寂の中に溶けていく。

「咲耶さん?」
「兄さまが来られないのは、もちろん残念なのだけれど。でも、香耶が来てくれたから、それだけで、良かったの。ありがとう」
「私もお会いできて、嬉しいです。でも、何かお話でも?」
「話もあるけれど。………でも、それより、香耶にも、会っておきたかったの」

 会って、おきたかった。
 痛みを伴うほど透明な表情と共に告げられた言葉に、香耶は息をのんだ。
 視線をわずかにずらした咲耶は、香耶の表情には気付かないまま続ける。
「桜の頃には香耶も来るよ、て兄さまは仰ったけれど………それでは、おそいから………。もう会えないかもしれないと思っていたから、来てくれて、うれしい。ありがとう」
「………咲耶さん、……」
「香耶」
 香耶の声を遮るように、名を呼んだ咲耶の声は、その弱々しさとは裏腹に、ひどくつよかった。
「慰めは、良いの。………香耶、慰めるなら、私でなくて、兄さまをおねがい」
「咲耶さん、でも」
「香耶。私は、多分、桜を待てないの」
 限りなく断言に近く告げられた言葉に、香耶は息をのむ。
「そんな…………」
「わかるの。兄さまも、母さまも、そんなことは仰らないけど」
「でも、桜まではもう、あとひと月もありません………!」

 衝撃は大きく――――受け止めきれない香耶の声は、悲鳴に似ていた。
 咲耶は、力の入らない細すぎる腕を、ゆっくりと伸ばして香耶の手に触れる。

「………桜を、見たいの。せめて、あの桜の花が見たいの。どうしても、どうしても…………」

 囁くような声は澄んで、それでも今にも崩れ落ちそうに脆い響きを宿していた。

 記憶は痛みと共に刻み込まれて、咲耶を思うたびに明瞭に甦る。咲耶は、咲耶自身が予見していたように桜を待つことはかなわなかった。あれほど狂おしく望んだ桜の花を目にすることはなかった。

 色褪せないまま散った花は、消えることのない記憶になった――――。


    †


「つまり、先ほど………麻衣を見て感じられた印象というのは、亡くなる直前の咲耶さんにお会いになった時に感じた印象と重なる、というわけですね?」 
 変わらない怜悧な声が響いて、記憶を辿っていた香耶は、目の前の美貌の青年に心の焦点を戻した。
「その通りです、所長さん」
「分かりました。……話していただいたことを感謝します」
「麻衣ちゃんの、これも、桜も………咲耶さんがなさっていることなのでしょうか」
「今の段階では何とも言えません。が…………何らかの形で咲耶さんが関係している確率が高くなってきたことは、確かです。詳しくは、亨さんを交えてご説明しますが」
「麻衣ちゃんに危険はないのですか。もし、危険があるのでしたら……!」
 わずかに躊躇って、半ば必死に言いかけた香耶を、ナルは遮った。その漆黒の瞳に潜む彩とは裏腹に、低い声はひどく冷たく響く。
「香耶さん。麻衣はプロです。彼女にとって危険があるかどうかは、二の次です」
「………それはそうでしょうけれども………!」
 たかが桜の狂い咲きに、一人の少女の命を賭けるべき必然性などどこにもない。
 悲痛になった香耶の瞳に、ナルは軽く溜息を付いた。
「命の危険は………今のところ、ないと見ています。これはあくまで僕の推測にしか過ぎませんので、絶対の保証ではありませんが」
「本当ですか」
「麻衣の今の状態は、咲耶さんが原因だとするなら、憑依までは至りませんが、かなり深く咲耶さんと同調している状態です。たしかに、咲耶さんが『麻衣を呼んで』いるならば、麻衣は相当の危険に晒されていることになります」
 ナルは溜息混じりにそこで言葉を切り、漆黒の視線を傍らの麻衣に滑らせた。
「呼ばれてる感覚は?」
「今のところはない」
 即答がかえって、ナルは凪いだ瞳を香耶に戻す。
「そういうことです。…………仮に」
 付け加えるように、紡がれかけて途切れた声はどこか表情が違っていた。 
「仮に?」
「仮に。………もしも麻衣の精神あるいは生命に危険が及ぶようなことがあれば、阻止します。どんな手段を使っても、なにがあろうと絶対に」

 それだけは、絶対に、許さない。
 平坦な声、表情のない瞳――――けれど痛いほど心に響いたそれは意思と言うより感情に近かった。

 彼のそばで、わずかに目を瞠いた麻衣が、くすりと微笑って手を伸ばす。触れたシャツをまた引っ張り、視線が出合うのを待ってから、確かめるように口を開いた。
「ナル。大丈夫だからね?」
「根拠もなく?」
「根拠ならあるつもりだけど?」
「何が根拠で仰っているか伺ってもよろしいでしょうか?」
 皮肉な笑みに、麻衣は綺麗に微笑んで対抗した。
「うん。………咲耶さんはあたしを呼んでない、と思う。偶然の結果じゃないかな、この状態。もしもやっぱり偶然じゃないとしても、悪意は感じないし」
「………それで?」
「それに、そう簡単に引きずられるような訓練はされてないと思うんですが?所長」
「訓練が絶対なら誰も苦労しない」
「まだあるよ?………何より、あたし自身に引きずられるつもり、全くないから。だから平気」 
 麻衣は、にっこりと、綺麗にきれいに笑って見せた。
 ナルは溜息を付いて、漆黒の瞳を香耶に戻す。
「ということですので、ご心配なく」
 表情を強ばらせていた香耶は、思わずくすりと笑う。二人の遣り取りは、見ていて安心できた。それがどんなに根拠のないものであったとしても、大丈夫だと、確信できた。
「あなたがそばにいる限りは大丈夫なようですね」
「部下の命を粗末にしていると言われる覚えはありませんので」
 ナルはさらりと返して、一瞬だけ瞑目した。
 意図したのは、精神の切り替え。
 再びひらいた漆黒の瞳は、常と変わらず怜悧に、二人の部下を映す。
「昨夜、異常は?」
「ありませんでした、所長」
「私の方も、特には」
「分かった。とりあえず継続してサーモグラフィとカメラでの監視を続ける。並行して、昨夜のデータの分析を始める」
「谷山さんはどうします?」
 安原に指摘されて、ナルは麻衣に視線を滑らせた。
「そこに寝かせておくしかないでしょうね。ひとりにするわけにはいきませんし、仕方がありませんので」

 いつものように冷たい言葉に、安原は苦笑して頷いた。
「分かりました。仰るとおりの作業を始めます」




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