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第四章



 堀河が帰宅したのは午後六時を回っていた。

「お帰りなさい、亨さん」
「ああ、ただいま」
 玄関先で迎えた妻の笑顔に、疲労のにじんだ声を返す。
 本当は二時間もあれば充分だったはずの会議がその3倍に延びれば、いい加減嫌にもなる。
 家族用の居間に入って、身体を投げ出すようにしてソファにどさりと座ると、瑞穂は眉を寄せた。
「……随分疲れているのね」
「………ちょっとトラブルがあってね。片付けてきたから大丈夫だよ」
 心配げな瑞穂に笑みを向けて、言葉を継ぐ。
「それより、あっちの方はどうなってる」
「調査のこと?」
「そうだ」
 軽い肯定。それに、瑞穂の表情が曇った。
「瑞穂?」
「調査は順調に進んでいると聞いているわ。渋谷さんが、亨さんが帰られたら第1回目の報告をしたいと仰ってたし」
「夕食をご一緒できれば良いんだが」
「………リンさんと安原さんは大丈夫かもしれないけれど、渋谷さんと麻衣ちゃんは………」
「何かあったのか?」
「………ええ」
「私がいない間に何があったか、お前が知っている範囲でいいから教えてくれ」
 座り直した夫に問われて、瑞穂は頷いた。
「昨夜、例の桜が咲き始めたのだけれど」
「それで?」
「徹夜で監視して、データも遺漏なく取れているみたい。この調査は今夜以降も継続するということで」
「それに問題でもあるのか?」
「いいえ。………調査に問題はなかったそうなのだけれど。ただ………麻衣ちゃんが、引きずられた、って………」
「引きずられた?どういうことだ」
 堀河は眉を寄せて、傍らに立った妻を見やった。
 瑞穂は瞳を翳らせて、首を振る。
「私にはよく分からないの。………ただ、あんなに元気だったあの子が、今朝から起きあがれなくなってしまって」
「谷山さんが、起きあがれない?」
「ええ。何が変わった、というわけではないのに………上手く説明できないけれど、まるであの子じゃないみたいに弱々しくて」
「わからんな」
「見てみないといくら説明しても分からないと思うし、見ればどういうことかすぐ分かるわ。私もお義母さんから聞いた時はよく分からなかったけれど、行ってみて納得したの」
 非常に感覚的な印象を、言葉にして説明するのは非常に難しい。まして、それを他人に理解させるのは不可能に近い。
 堀河は溜息を付いて頷いた。
「わかった。あとで行ってみる。………どちらにしても、そんな状態なら見舞いに行かなければいかないしな」
「あの子が精神的には元気なのが救いなのだけれど」
 瑞穂の顔がまた曇った。
 自分の子供たちより若い麻衣を妻が可愛がっていることは知っているから、堀河は宥めるように妻の掌を軽く叩いた。
「それで、引きずられたというのはどういうことなんだ?」
「………私には、正直言ってよく分からないの。お義母さんがおっしゃるところによれば…………その、例の、咲耶さんと似ているそうなのだけど、それは何とも…………」
 言葉を濁した妻を見て、堀河は溜息を付いた。よく理解していない彼女に尋ねても、結局は埒があかない。
「分かった。あとで渋谷さんに直接聞いてみよう。………渋谷さんがでてこられないのは、谷山さんのそばに付いているからか?」
「ええ。いま、あの状態の麻衣ちゃんを一人にしておくのはとても危険だとかで」
 
 いつ、またさらに深く引きずられるか予測が付かないし、そうなった時に最も適切な対応をとることができるのは所長だから、離れることができないんですよ。
 そう言って、現時点で外渉窓口になっている安原は、笑った。理知的な彼の瞳にはそれほど緊迫感は漂っていなかったから、瑞穂はそれほど緊迫感を抱かなかった。

「どちらにしても、渋谷さんから聞いた方が良さそうだな」
「ごめんなさい。そうして」
 溜息混じりの夫の言葉に、妻は苦笑して同意した。

 廊下に出て待っていた安原は、予告した時間ぴったりにやってきた依頼人をみて苦笑して頭を下げた。
「すみません、堀河さん。本当なら、こちらからご説明に伺うのですが」
「いえ、お気になさらずに。そうでなくても谷山さんのことで大変なのですから」
 安原が、静かにひらいた障子の向こうに。
 横たわる少女と、やや距離を置いてノートパソコンをひらいた美貌の青年とを認めて、堀河は息をのんだ。

 機器の点検のために訪れていた麻衣と、最後に顔を合わせたのはほんの4日前。
 特にやつれたところもなければ、他に何一つ変わったところはない。だというのに、思わず目を疑うほどの違和感は、妻の話を聞いて予測したものを遙かに越えていた。

「堀河さん」

 玲瓏と響く、声。
 麻衣の姿に釘付けになっていた堀河ははっとして、ナルに目を向けた。
「昨日は、帰宅できず失礼しました、渋谷さん」
「お気になさらないで結構です」
「しかも、この調査のために谷山さんがこんなことになり、申し訳ありません」
「それも、お気になさらないで結構です。こちらの調査の結果としてこうなったのですし、彼女はプロですから」 
 ナルはさらりと返して、それより、と言葉を継いだ。
「現時点での調査結果をお知らせしたいのですが?」
「ああ、そうですね。お願いします」
 ナルは、無表情を保ったまま、テーブルの上のPCをくるりと堀河の方に向ける。液晶画面にはグラフと表が表示されていて、堀河はそれを一瞥してナルに視線を戻す。
「これは?」
「昨夜の、問題の部屋と桜周辺の気温変化の相関図です。部屋の内部からは3地点、桜周辺からは5地点を選択し、それぞれの昨日の午後十時から今日の午前四時までの気温データをサーモグラフィの情報から抽出してきたものです」
 平坦な声の説明通りの内容が、ディスプレイの中のグラフには表示されている。要素や項目はすべて英語で表示され、膨大な数の数字が羅列されたデータは、堀河にとっては特に難しいものではない。
「これはあくまで抽出データだと?」
「はい。今説明するのに全データを提示しても無駄だと判断しましたので。もし堀河さんがご希望なら、すべてのデータを提供しますが?」
「………いえ、必要ありません。経済データならともかく、こんなデータは、処理してあれば理解することはできますが、自分ではとても扱えない」
「そうですか」
 苦笑した堀河に無感動な相槌をうって、ナルは続ける。
「グラフの、この垂直の赤いラインが、昨夜、桜が咲き始めた時間です」
 日付が変わって十数分経った時点に、赤いラインがすべてのデータを通して引かれている。
 そして、ラインの引かれた時刻を十分ほど遡る時点から気温の変動が激しくなったことを、そのグラフははっきりと示していた。
 部屋の気温を、特に部屋の中央のデータを示すグラフは急激に下降を示し、逆に桜周辺の気温データははっきりと上昇傾向を示す。その上下幅は、自然現象の範囲内とは、言い難い。まして、気温変化の幅が狭い夜間では、降雪もなく降水もない状態でこれほどの変化はあり得ないだろう。そして、室内の気温変化が、十数秒の間をおいて、桜周辺の気温変化に先行している。それは、桜周辺の気温変化が室内でのそれに連動して起こっていることを示しているように見えた。
「……この気温変化が、桜の開花の原因になっていると?」
 堀河の声はひどく真剣で、ナルは視線を彼に滑らせる。
「今のところ、そう考えています。………予備調査中にも、例の部屋の中と桜周辺で連動した気温変化は確認していますので、それを含めたデータを、多方面から解析しました。その結果、ある法則性の仮説を提示できます」
「仮説、ですか」
「現時点では、その連動した気温変化のデータは、一晩分、百あまりしか揃っていないですから、仮説としか言いようがありません」
「なるほど。………それで、その仮説とは?」
「このデータに拠れば、室内のポイントで0'5度の気温低下が見られると、桜周辺のどこかのポイントで0'73度の気温上昇が確認できます。そして、桜周辺での気温の上昇が4度を超えると………つまり、室内での気温低下が2'8度を超えた時に桜の開花を確認できます。したがって、これは法則として考えて良いのではないかと僕は考えています」
 堀河は知らず溜息を付いた。
 数値で示されると、異常さがことさら強調されて見える。

「気温変化が桜の狂い咲きに影響されている、というのは分かりました。………桜周辺の気温の変化、上昇ですか、それが、室内の気温の低下に連動して起こっているとお考えなのだと言うことも理解しました。しかし、そもそも、室内の気温の低下は一体何故起こっているのでしょうか。なにかあればきかせていただきたい。仮説でもかまわないですから」
 堀河はゆっくりと、ナルの説明を反芻するように、自分に納得させるようにまとめて、そして視線を正面に戻した。
 堀河の視線を受けて、軽く息をついてナルは口を開く。
「考えられ得るあらゆる要因を探査しても原因不明の気温の低下は、霊によるものである可能性が高いと僕は考えています。これは過去の調査でも、実証されていると考えます」
 ナルは一度言葉を切って、最初からずっと、強く自分を見つめている麻衣に一瞬だけ視線を流して言葉を継いだ。
「彼女の状態も、これまでの調査データから、霊と同調したのが原因だと考えています。客観的に見て、それが最も妥当で無理がないでしょう」
「つまり。渋谷さんは、桜の狂い咲きの原因は、「霊」であると考えているわけですね?」
「現時点では、その通りです。先ほども言いましたが、桜に関するデータはまだ一晩分しかありませんので、蓄積する必要がありますが」
「………谷山さんは、大丈夫ですか」
 どこまでも凪いだ声を半ば強引に遮るように、堀河は言葉を挟んだ。
「もちろん、データの蓄積は、充分だとあなたが判断されるまでやって下さい。こうなった以上、原因ははっきりさせていただきたい。しかし、彼女は」
「………身内なら霊を慰めたいと仰いましたね?」
 答えた、変わらない、声の色。
 質問を無視したそれは、ひどく冷たく―――冷酷に、堀河の聴覚を打った。
 瞳の、深い闇の色彩は、変わらず何も映さない。

「渋谷さん。今は私は彼女のことを言っているのです」
「あなたは依頼して、僕は依頼を受けた。彼女の状態は単にこちら側が受けた弊害であって、あなたには関係がない」
 ひどく低く、声は響いた。
 冷たく、感情の片鱗さえ滲ませず、答えるべき言葉を失った堀河を見る瞳にも、表情は見えない。

「堀河さん」
 聞き慣れていた快活さからは考えられないほど弱い、けれど綺麗に澄んだ声が、緊張を孕んだ沈黙を破った。
「所長の言うとおり、あたしのことは気にしないで下さい。堀河さんには何の責任もありませんから。ただ、これが霊と同調しているからなら、それは多分、咲耶さんなんです」
「咲耶、ですか?」
「ご存じないですか?」
「いや。早くになくなった父の妹の名前ですが。………つまり、問題の霊は叔母、だと?」
 堀河は躊躇いながら尋ねた。霊、という存在は彼には遠く、生まれる前に他界した咲耶の存在も、また遠い。

 麻衣はちらりと上司に目をやって、特に咎められる様子がないことを確認してから口を開いた。
「………今のところは、その可能性が一番高いです」
 弱い声が紡ぐ言葉は、明確で―――けれどそれは、今の彼女には負担になる。細い眉を僅かにしかめた麻衣を手で抑えて、ナルは言葉を引き取った。
「そういうことです。一連の問題の、すべての原因は霊によるものである可能性が高く、そして、その霊は咲耶さんのものである可能性が高い」
 平坦な声が、広い室内に、透る。
「そして、堀河さん。あなたの依頼は、「桜の狂い咲きの原因を特定すること」でしたね?」
「ええ」
「そのために、二十一日までは、先ほどお見せしたような気温の観測と開花の状態を中心とした調査を継続します」
「それは、諒解しました」
「………ですが、咲耶さんの霊が原因であった場合に、咲耶さんの浄霊あるいは他の何らかの対策を行わない限り、麻衣はこのままの状態から抜けることは恐らくない」
 ナルの瞳の色が、強くなった。

 麻衣が、咲耶と同調しているなら。
 咲耶の浄霊あるいは残された想いの浄化をしない限り、同調を解くのは難しいだろう。
 そして、香耶の印象と、麻衣が見る「夢」を考えあわせれば、彼女が同調しているのは亡くなる直前の咲耶なのだ。同調の程度によっては、六十数年前の咲耶の状態をトレースする可能性がないとは、言えない。
 香耶に対しては否定したが、最悪の場合、麻衣は咲耶と同じ道を、辿る。

 堀河は一瞬怪訝な顔をして―――表情を強ばらせた。言葉どころか、表情にも出されないナルの思考を、理解する。
「………それを行えれば?」
「………まだ未調査ですが、咲耶さんが亡くなった時間までに浄霊を行うことができれば―――少なくとも、同調を解くことができれば、最悪の事態は回避できるはずです」
 ナルは言葉を切った。

 怜悧な視線を一瞬だけ麻衣に―――困ったように、けれど微笑んだ彼女の瞳に滑らせて、堀河に向き直る。
「―――できる限り、そうなる前に手段を尽くしますが。最悪の事態になりそうな場合、僕は手段を選びません。その場合の周囲の被害は保証できませんが、一応は同意を頂きたいのですが?」
「手段を選ぶ必要はありません。回避してください。たかが我が家の桜の狂い咲きのために、谷山さんが危険に晒される必要はどこにもない。桜はどうでも良いですから、彼女のために最善を尽くしてください」

 瞳の、漆黒の色を深めて、ナルは頷いた。


    †


 夜を重ねるごとに、ひらいていく桜の花と。
 日を追うごとに、眠る時間の増えていく少女と。

 桜が満開を目前にする頃には、麻衣は一日の殆どを眠ったまま過ごすようになっていた。


 何時間ぶりか、ふ、と目を開けた麻衣は、目を醒ませば必ずそこにある白皙の美貌をまた見つけて、ふわりと微笑む。
「ナル」
 呼びかけると、漆黒の瞳が返った。応えは返らずに、麻衣は言葉を重ねる。
 彼女自身の自覚症状として何か問題があるわけではないので、今、メンバーの中で一番精神的に落ち着いているのは麻衣自身なのかもしれなかった。

「そういえば、今、何時?」
「午後三時過ぎ」
「何日の?」
「………二十日」
 表情を見せない、のではなく、隠した、漆黒の瞳。
 麻衣はくすりと笑って、言葉を重ねる。
「明日だね」
「………状況を分かっているのか?」
「分かってるけど。大丈夫だよ」
「………根拠は?」
 最初の日に、心配する香耶に示した根拠は、非常に希望的観測だったことは、ナルも、麻衣も、充分に認識している。
「何となく」
 表情を欠落させた上司の問いに、麻衣はさらりと答えた。
 ナルは美貌に皮肉な笑みを浮かべる。
「何となく?………そんな根拠が有効とは、存じませんでしたが?」
「女の勘って言うでしょ?」
「あいにく、日本語には詳しくないもので」

 皮肉に冗談で返せば、また皮肉が返る。
 日常の遣り取りは、日常ではない状況から目を逸らすためなのか―――。
 この日常を失う気はしない。危惧するべき「最悪の場合」など絶対にないと確信している。
 それでも、その確信の根拠は、ナル自身も示せない。

 0'1%の可能性すら見たくはない。
 根拠などない「確信」の最大の根拠は、それなのかもしれなかった。

「ナル」
「麻衣?」
「………なんか、いつもと違うよね」
「何が」
「霊、というには、稀薄な感じがする。もちろん、あたしはナルほどよく知っているわけじゃないけど、でも、何か………今までみた「霊」って、もっと………」
「人格が残っている?」
 纏まらない、細い言葉を、怜悧な声が救った。
「え?」
 驚いたように見上げてくる少女の瞳に苦笑して、ナルは頷いた。
「それは僕も感じていた。妄執だけが残ったとしても、もっと何か「性格」が残っていて良さそうなものだが、あるのは桜とお前の状態だけで、「咲耶」という意志がない」

 咲耶、という存在の、桜に対する強い想いと、彼女の存在だけが灼き付いたように、それだけが残っている。

「悪意も恨みもないから当然なのかな、ってあたしは思ってたんだけどね」
「………何か考えたのか?」
 問われて、麻衣は軽く首を傾げる。
「考えたってほどじゃないけど。………咲耶さんは、結局何を望んでたんだろう」
「桜を見ることじゃないのか?」
「うん、そうなんだけど。ここまで桜が見たかったのはどうしてだろう。別に、見たことはあったはずなのに」
「…………確かにそうだな」
 漆黒の瞳の色が、深くなる。
 彼にとっては新鮮な視点だったらしいことを見て取って、麻衣は微笑った。
「もしかしたら最後に一目見たかったのかもしれないけれど、その程度の感情が何十年も残るほど強くなるかな、て思うの。香耶さんの話の、桜を見たいっていう咲耶さんの執着っていうのも、ほんとに凄まじいくらいだし」
「それで?」
 ナルは、先を促す。
 麻衣はもう一度、きれいに笑って頷いた。
「うん。………今、このまま死ななきゃいけないとして。自分だったら何が一番心残りだろう、て考えてみたの」
 大切なひとを、おいて逝かなければいけないとしたら、何を想うだろう。何を、懼れるだろう。

 咲耶は、何を一番おそれていただろう。

「…………それで?」
 どうしても脳裏に浮かぶ存在は、今は思考の脇に置いて、ナルは問いを重ねた。それに、透明な声が答える。
「怖いのは、忘れられること。記憶にも残らないで、消えてしまうこと」
「それはそうだろうな」
「でも」
 ナルの同意を遮るような麻衣の声は、やわらかいものから真摯なものへと、変わる。澄んだ、琥珀色の瞳が潤むのに気付いて、ナルはわずかに目を瞠った。
「一番、怖いのは………嫌なのは。大切なひとが、自分に囚われてずっと哀しむこと」

 忘れられたくはない。
 けれど、同じくらい、大切なひとの心を悲しみで塞ぎたくはない。縛りたくは、ない。
 悲しみに塞がれた心は、自分の未来を見ようともせずに、確実に流れていく時間の中で、ただ一点に囚われてしまう。
 それは心当たりがありすぎた。

「そんな思いを、多分大切なひとにはさせたくないと思う。少なくともあたしは」 
 自分自身の心当たりは今は措いて、ナルは息を付いた。
「………咲耶さんもそうだったかもしれない、と?」
「うん。………それで、咲耶さんがあの桜と自分を同一視していたかもしれない、というのと、久昭さんがずっとあの部屋を立ち入り禁止状態にしていた、ていうのを考えるとね」
「……久昭さんに、自分に囚われ続けて欲しくなかった?」
「と、あたしは思ったの」
 ふわりと微笑って、麻衣は続ける。

「あたしも、ナルには、ずっと哀しんで欲しくないな………って………………」 

 呟くようなことばは、不明瞭に途切れる。
 意識を失うように突然に眠りに落ちるのは、ここ数日はいつものことで、ナルは溜息を付く。

「………哀しむような事態にはなって欲しくないな………」

 知らず、落ちた呟きは。
 彼が初めて漏らした本心かもしれなかった―――。


    †


「それじゃ、お花見をしましょう!」
 ナルが麻衣の話を伝え、それを聞き終わった瞬間に、そういったのは安原だった。
「は?」
 いぶかしげに眉を寄せたナルを責められる人間は、恐らくいないだろう。
「安原さん?」
 上司と同様、意表をつかれたリンもまた、悪戯げな安原の瞳を見直す。
「花見です」
 繰り返した安原に、ナルにしては我慢強く問いを重ねる。
「それはわかりました。ですが、何故そこで」
「別に、宴会をしようといってるわけじゃないです、所長。花見の宴って言うのは、桜を愛でるんですが、それは、散る花を惜しみ、来年に咲く花を望む意味もあると思うんです」
「つまり?」
「ですから。花見を終えますよね?そうしたら思うのは、これでもうおしまいだ、じゃなくて、また来年の花も、じゃないですか」
「同意を求められても僕は日本人ではないですので、日本人の桜へのこだわりは分かりませんが」
「じゃあ、やってみましょうよ。どうせ他に手はないんですからね。リミットは明日ですし、それでどうにもならなかったら、松崎さんとブラウンさんに連絡しましょう」

 明日はタイムリミット。
 そうなればもう、強行手段をとるしかない。
「私も安原さんに賛成です、ナル。………特に香耶さんと、谷山さんを。谷山さんの言うように、咲耶さんのそういう想いが残っているのだとしたら、この、咲耶さんのためだけの聖域を解く意味は充分あると思います」
 リンまでが安原に賛成し、ナルは溜息を付いて了承したのだった。


    †


 季節はずれの満開の、桜。
 この種の桜にはまだ早いとはいえ、あたたかな地方の桜の便りは届き始めている、
 まだ冷たい、けれどたしかに春の陽のなかで、美しく美しく咲く、桜花。
 香耶は、ゆっくりと桜に歩み寄り、花に触れた。
「初めて、ですねえ………この桜に、触れたのは…………」
「香耶さん」
 漆黒の青年の腕に抱かれた少女が、微笑う。
 香耶は笑顔を返して、そして桜をもう一度見上げた。
 その、老いた顔に浮かぶ――――純粋な、懐かしさ。
「ああ、咲耶さんそっくりだわ。そう、綺麗で、やわらかい方でしたよ………。久昭さんも、近くでご覧になればよかったのに」 
 妹を思わせる桜にどうしても近づけなかった、亡き夫を思えば、悲しみは胸を占めるけれど、記憶は時の流れと共に、純化されるのだ。
 戻らない時間に、囚われさえしなければ。
 麻衣は、微笑む。
「そうですか。よかった。
            ……………ありがとう、香耶」

 語尾で、変わった口調。 
 誰一人、その主が誰かを、疑わなかった。
 麻衣よりもややトーンの高い、壊れそうな、けれど綺麗に澄んだ響き。聞いたこともないそれは、六十数年前の少女のものなのだろうと、理屈ではない部分で納得する。

 そうして、麻衣の纏う空気が変わる。
 それをいち早く―――当然ながら真っ先に感知して、ナルは麻衣の身体を下ろした。
「ということは、もう自分で立てるな」
「いきなり落とさないでよ!ずっと寝てたからふらつくんだから!」
「それは僕のせいじゃない。自分で立つんだな」
 耳に入った遣り取りに微笑った香耶の瞳から涙が溢れて頬を伝い、けれど彼女は穏やかな顔で桜を見つめ続けた。
 ずっと――――空白になってしまった時を埋めようとするかのように。


 もう、二度と、この桜は狂い咲きなどしないだろうから。きっと来年からは同じ時期に、この庭は、桜色に染まるだろう。




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