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花待 6




 春は盛り。
 季節感とは縁遠く、アスファルトとコンクリートで固められた渋谷でも、ビルの隙間や空から注ぐやさしい陽光と、みどりに芽吹く街路樹が季節をつげる。

 オフィスの、無機質なブルーグレーの扉がひらいて、くるんと振り返って立ち上がった麻衣は笑顔を浮かべた。
「あ、堀河さん、こんにちは。お久しぶりです」
 入ってきた数週間前までの依頼人は、穏やかな表情でかるく会釈する。
「こんにちは、谷山さん。突然にすみません」
「いえ。すぐ所長呼んできますね。そちらにお座り下さい」
 麻衣は堀河にソファを勧めて、完全防音の所長室にノックもしないで滑り込んだ。

「あの時は、本当にお世話になりました」
 正面に座った美貌の青年に、堀河は丁寧に頭を下げた。ナルはかすかな苦笑を端麗な唇にのせる。
「いいえ。こちらの調査が入ったことで、余計にお騒がせしたかと思います」
「ほんとです」
 澄んだ声が響いて、堀河はティーカップを運んできた麻衣を見上げた。
 調査の最終段階の危うい気配は、もうどこにもない。輝くような生気に溢れて、まぶしいほどに見える。
 思いのほか洗練された仕草で、麻衣はティーカップを堀河の前に、そして彼女の上司の前に置いた。
 白磁のカップを取って、堀河は馥郁とした香りを楽しむ。
「ありがとう、谷山さん。元気そうで、安心しました」
 トレイを脇において自分もソファに座った麻衣は、深々と頭を下げた。
「あの時は堀河さんにも、瑞穂さんや香耶さんにも、ご心配をお掛けして、本当にすみませんでした」
「とんでもない。谷山さんが謝るようなことはありません」
 堀河は穏やかに笑って、そして、同じ言葉を繰り返す。
「ほんとうに、とんでもない。感謝しています」
「堀河さん?」
 訊ねた麻衣と、僅かに怪訝な彩を瞳に映したナルを、堀河はもう一度確かめるように見直して、口を開いた。
「私は、あの家に生まれた時から暮らしていながら、今まで何一つ知らなかったのです。調査をしていただかなければ、おそらく一生知らないままだったでしょう。父の思いも、母の思いも、あれほど強く残されていた叔母の思いも何一つ、知らないままだった」
「香耶さんは、今までほんとうに何も?」
「はい。………母には、最期の印象があまりにも強烈だったのでしょう。何も聞いたことはありませんでしたし、母も、話すつもりはなかったそうです。……今回のことで、自分たちは間違っていたことを知った、と母は言いました。忘れないことと、封じてしまうことを一緒にしていたと」
「封じ?」
 深い闇色の瞳に、堀河は頷く。
「母が言うには。父は、母に対しても叔母のことを一度も口にしなかったそうです。祖父母が亡くなってからは特に、叔母の名前は禁句同様になり、あの部屋や遺品の手入れさえ暗黙のうちに指示をして、叔母に関することがらは父の手で封印されたも同然になったのだと。母も、亡くなる直前のことを思うと、父の心を思うと、どうしても触れられなかったのだそうです。………事実、私は叔母がいたことは知っていたのですが、名前は戸籍謄本で偶然知ったようなものですし、あの部屋が叔母のものだったことも知らなかったのです」
「それは、徹底していますね………」
 呟いたナルは、軽く目を伏せた。

 その脳裡で。
 堀河は知らない片割れの名が、咲耶にかさなる。

「はい」
 ナルの内面も、沈黙を保ったままの麻衣の想いも知らないままに、彼は言葉を重ねた。
「今年は、あの桜は一度に散りませんでしたから。寒いせいなのか、ふつうよりも長く保って、先日散りました。ちょうど入れ替わるように庭の桜が咲き始めて、今は満開になっています。…………今年の、あの桜が散りきる頃に、母が叔母の遺品をひとつひとつ見始めました。機械的な手入れではなく、きちんと整理をしたいと言って」
「香耶さんが?」
 麻衣の声が、常よりもひどく透明に韻いたことに、堀河は当然気付かない。
「はい。懐かしそうに、瑞穂も加わって見入っていますよ。遺品も記憶もぜんぶ見直して、父の分まで時間を取り戻すのだと言っていました。来年はあの桜も今の時期に満開になるでしょうから、花を見るのが楽しみだと。そして、それもみんなこちらのお陰だと」
 笑って、堀河はもう一度頭を下げる。
「本当にありがとうございました。母は心にずっと抱えてきた傷を癒すことができたうえ、封じられていた時間を取り戻すことができました。………私も、学ぶことが多かった」
「いえ」
 応える言葉はすくない。凍り付いたような白皙に慣れた堀河は特に気にせず、紙袋をテーブルの上に置いた。
「これは、どうぞ。紅茶です」
「………あ。ありがとうございます」
 漆黒の視線に促されて、一拍遅れて受け取った少女は、それが某紅茶専門店のものであることに気付いて、目を瞬く。
「えっと。よくお分かりになりましたね?」
「見事に淹れられますから。お好きなのだと思いました」
 笑って答えた堀河は、ついで、使い込まれた革の鞄から書類封筒を取り出す。
「事務書類の残りです、渋谷さん」
「わざわざありがとうございます。のちほど確認した上でまたご連絡します」
「それから、その封筒に、心ばかりですが、お礼も入れておきましたのでお受け取りください」
 ナルは軽く目を眇めて、漆黒の視線を堀河に向ける。
「母と、私の気持ちです」
 年輪を重ねてしか絶対に持てない、穏やかな笑顔は変わらない。重ねて言われて、ナルは苦笑して頭を下げた。
「それでは、いただいておきます。ありがとうございます」
「こちらこそ、ありがとうございました」
 堀河はそういって、それから苦笑する。
「今日はこれで失礼します。仕事の途中でして、毎回お騒がせして申し訳ない」
「いいえ。お忙しい中ありがとうございました」
 立ち上がった堀河に合わせるように、ナルも立ち上がる。
麻衣が先回って扉を開いて、年輩の紳士を通した。
「それでは堀河さん、香耶さんと瑞穂さんによろしくお伝えください」
「伝えておきます。谷山さんも、元気で」
「ありがとうございます。お気をつけて」 
 深々と頭を下げた麻衣と、奥で見送る漆黒の青年に会釈して、堀河は踵を返した。


    †


 依頼人の気配が消えて、ナルはソファに座り直した。
 麻衣は静かにドアを閉めて、それから、振り返る。
「ナル?お茶、淹れなおす?」
「いや、いい」
 ナルは抑えた声で答えて、そして、言葉を継ぐ。
「麻衣」
 声の纏う空気が、微妙に変わる。その変化を確実に感知して、一瞬だけの躊躇をおいて、麻衣は答えた。
「なに?」

「………ジーンを、覚えてるか?」

 ナルからは滅多に口には出されなかった、名前。
 調査中でも「あの馬鹿」か「浮遊霊」としか呼ばなかったそれを、抑制した声が紡ぐ。
 麻衣は息をのんで目を瞠って、そして溜息をついた。
 溜息と一緒に涙がこぼれそうな微苦笑を浮かべて、ソファに座り込む。澄んだ瞳が、まっすぐに白皙をみつめる。
「忘れるわけないと、思わない?ナルだって、絶対に忘れないでしょ?」
「…………好きだったと言ったことは?」
「随分ストレートに聞くよね」
 麻衣は苦笑を深めて、唐突に、表情を消した。
 琥珀色の瞳が、ひどく透明になる。
「もちろん、覚えてるよ。………当たり前だよ。ナルと会ってからのことは、きっと全部覚えてる」
「全部?」
「うん。多分、忘れたことなんてひとつもない」
 真摯な、瞳。
「忘れた方が楽だったんじゃないか?」
「まさか。そんなわけないじゃん。忘れたいなんて思ったこともない」
 麻衣は言葉を切って、そしてまた声を紡ぐ。
「大切なものは、大切にしたい。記憶も……おかーさんも、ジーンの笑顔も、そういうのは宝物だから、絶対になくせないけど。でも、今あるものの方が、いまのあたしにとっては大事だから。……あたしは、生きてるから」
 表情の消えていた貌に、綺麗なきれいな笑みが浮かぶ。
「ジーンの笑顔が好きだったって、あの時言ったよね?」
「ああ」
「その気持ちはかわらないよ。………でも、あの時と違うこともあるから」
 忘れようにも、非常識にも今でも出てくるジーンの顔は忘れようがないということに気付いて、麻衣は小さく笑った。琥珀色の瞳は一点の曇りもなく、ナルを見つめる。

 視線が、絡まる。

「違うこと?」
「うん。……あの時は、ナルとジーンの区別、ついてなかった。でも、今は区別できるっていうこと」
 笑った麻衣は、まっすぐにナルの瞳を見つめたまま、瞳をそらさない。絡んだ視線は、ほどけない。
「もう、絶対に間違えない」
「………だろうな」
「でしょ?」
 綺麗に澄んだ声が、空間に韻く。
 密やかな笑い声は、鼓膜よりも心の琴線に強く触れる。
「いつから、わかっていた?」
 低く抑えた声に問われて、麻衣は軽く目を瞠った。
 どこまでも透明だった表情が、変わる。
「同じこと、聞いてもいい?」 
「麻衣」
「……知ってたから。だから、知らない振りしてたんだよ」
 ナルが、どうしてジーンの名前を呼ばないのか、呼べないのか。それを知っていたから、そして、自分の想いは絶対にそれと関わらずにはいられないから、今まで気付かないふりをしていた。
「でも、あたしは、ちょっと時間はかかったけど、ナルはナル、ジーンはジーンに、ちゃんと区別しなおした」
「知ってる」
「よね」
 気付いていることも、気付かれていることも、わかっていた。見直したことも、その結論も、きっと分かっていて、その上で気付かないふりをしていることも知っていた。

「どうして?」
 何故、自分の心に気付いていて、麻衣の結論を分かっていて、知らないふりをしたのか。
「………自分の性格程度は把握している」
 抑制した声が、問いかけに答えを返した。
 反応が返ってくることも予期していなかった麻衣は、瞠目して、闇色の瞳を見上げる。
「は?性格?」
「だから、敢えて動いて、引き留めようとは思わなかった」
 その先で、傷付けて散らすだろうと分かっていたから、手を伸ばして心を絡めて、捕らえようとは思わなかった。
 こたえる言葉も声も、限界まで抑制される。それでも、それはつよく心に響く。
「………あたしを?」
「そう。………泣いただろう」
 あの、夏の夜に。
 胸に響いた慟哭は、いまも心に焼きついている。あの夜を境に麻衣は麻衣として心に在るけれど、記憶を辿れば痛みは伴った。
 軽い溜息を落として、ナルは華奢な少女を、見つめる。漆黒の瞳は色を深めて、表層に、僅かに深層の彩を映す。
「………泣いた、けど。確かに」
「泣いた理由は?」
 問われて、麻衣はしばらく考えてから苦笑した。
「改めて聞かれると、答えに困るけど。………どうしようもないくらい辛かったから。痛くて、苦しくて、どうしても泣くしかできなかった。あの時は、ナルにも迷惑かけたよね」
「迷惑だったのは、麻衣じゃなくてジーンだ」
 ジーンが、最初からナルのふりなどしなければ。そしてせめて、最後にきちんと自分自身で幕を引けば、麻衣はあれほど激しいショックを受けることはなかっただろう。―――麻衣にとっても、そしてナルにとっても、あの月の夜の痛みはなくなりはしなくても、軽くはなっただろう。
「僕が隠していたことを、麻衣が知らなかったのは当然だろう。だいたい、あの馬鹿が余計な真似さえしなければ、麻衣が苦しむことはなかった」
 滅多になく深いいろの、声が韻く。仮面のような表層の美貌に、感情の波が掠める。
 それでも麻衣はかぶりを振った。
「でもあたしは、ジーンを迷惑だったなんて思ってないよ。たしかに……あの時は、辛かったけど。でもそれが悪かったとは思ってない」
 身を切るような痛みと慟哭はまだはっきりと覚えているけれど、それを感じなければよかったとは思わない。
「心の広いことだな」
 皮肉めいたナルの声に、麻衣は小さく笑う。
「そうだよ。……だから、もう泣かない」
「どんな思いをしても?」
「それは問題が違うでしょ。自分で考えて決めて、それで傷つくなら、それを怖がって最初から逃げるよりずっといい。それで結果的に泣くかもしれないけど。でも、それは誰かの責任じゃなくて、あたしの自由」
 さらさらとこぼれたやわらかな淡い髪の隙間から、ナルを見つめる瞳はどこまでも靱い。
「違う?ナル」
「………いや」
 問われて、ナルは溜息をついて―――応える。

「それなら?」
 空間に、ひどくすきとおった声が、韻いた。
 漆黒を纏ったしなやかな身体がゆっくりとした動作で立ち上がる。一歩、踏み出して、ナルは麻衣の正面に立った。
「ナル?」
 見上げてくる瞳を、こづくりの白い貌を、華奢な姿を、彼は見下ろして、そして口を開いた。
「先を懼れないなら?」
「………どうする?」
 問いは重なる。瞳は、どちらからも逸らせない。
 空間に張りつめた緊張を解くように、ナルは息をついた。
「………触れても?」
 問いかけに、麻衣の表情は変わらなかった。答えはないまま、瞳に拒絶の影は映らない。
 ナルは腕をのばして、長い指先でやわらかな髪に触れた。髪を梳くようにそのまま滑りおりて、肩から腕を辿る。指先を追うように片膝をついて、彼はひどくゆっくりと細い指先を自分の指に搦めて、持ち上げる。その華奢な手の、白く浮き上がった指の関節の頂に、誘われるように唇で触れて、琥珀色の瞳を見上げた。
 深い闇色の瞳と、透明な琥珀の瞳。
 引き寄せられるように麻衣が躰を屈めて、距離が縮まる。吐息が混じって、掠めるように唇が触れる。

 言葉はないまま、応えが交わされる。

 麻衣がゆっくりと躰を戻して、手が、ほどける。温もりを離して、ナルは立ち上がった。
「ナル」
 名前を呼んで、麻衣はまっすぐに漆黒の青年を見上げる。
「もう、知らなかったふりはしない?」
「できないだろう」
 顕れた心も、交わした想いも、もう二度となかったことにはできない。
 白皙の美貌に、妍麗な笑みが浮かぶ。
「ジーンはジーンで、僕は僕なんだろう?」
「うん。ジーンを忘れないし、ナルを見失ったりもしない。そうじゃなきゃ、ナルを好きになんてなれない」
 二人を間違うことを懼れて、混乱することが怖くて、心と向き合うことなどできないだろう。
「だからあたしは迷わないよ」
 白い貌に、綺麗な笑みが咲く。
「それならいい」
「なにが?」
「躊躇わない」
 彼女の涙と、兄の記憶に囚われて、自分の心から目を背けることはしない。麻衣が迷わないなら、躊躇う必要もない。
「どうせ、もう見なかったことにはできないからな」
 ナルはそう言って、麻衣から壁の時計に視線を移して、それから漆黒の長身を翻した。
「部屋に戻る」
 麻衣は小さく笑って、それから視線を壁の時計に、そしてテーブルの上に滑らせる。
「あと三十分くらいで安原さんが来るはずだけど、その前に書類チェック終わらせておこうか?」
「ああ。終わったら所長室に。それから、その前にお茶」
「了解」
 答えて立ち上がった麻衣を確認するように振り返って、ナルはそのまま所長室に入る。麻衣はそれを見送ってから、給湯室に向かった。


 灼きつく記憶はそのままに。
 けれどもう、心は拘われずに前を見つめる。
 




 花は散る。
 惜しまれ、嘆かれて舞い散る桜は色褪せぬまま心に残る。

 けれど。
 散った桜に、いつまでも囚われる人は、いないだろう。
 散った桜への哀惜は消えることなく、けれど心は翌春の新しい花に、まっすぐに向けられる。
 
 花は、散る。
 けれど、また新たに花は咲くから―――――。


 花とともに散りたい。
 桜のように、散りたい。

 限りない哀惜を持って送られて、心に残る花のように。

 そして、
 残された人が新たな花を望めるように。


 母さま。

  ―――――父さま。

 兄さま。

 どうか、哀しみを引きずらないで。

 咲耶は、名前を貰った桜のように散るから。
 ひととき、惜しんでほしかったの。
 色褪せないで散る桜みたいに、心に残して欲しかったの。

 けれど、悲しみ続けないで。

 また、新しい花は咲くから。
 咲耶は、木の根本に散り敷いて、また新しい花を咲かせるから。
 咲耶は散るけれど、桜はまた咲くの。
 だから、哀しまないで。

 咲耶は、幸せだったから、どうか――――。
 どうか。


   幸せに。


 母さま、父さま。
 そして………、兄さま。

 どうか、お願いです。
 咲耶の桜のそばで、笑ってください。
 咲耶は、あの桜になるのだから―――――。





 
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