| 1.海野宿について |
| (1)海野宿のあらまし |
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| 当宿の地は、非常に古くから海野(うんの)と言われていた。海野郷が記録として、最初に出てくるものは天平(てんぴょう)年代(740前後)に正倉院御物(ぎょぶつ)の中に麻織物の紐の芯(ひものしん)に墨で書かれていることでわかる。 |
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| その後、荘園制下に入ってからは海野庄として近衛家領となり、南北朝期になるまで続いた。こうした海野庄の領地を支配してきたのは海野氏であり、海野氏が木曽義仲に従い、ここ白鳥河原に挙兵した事は、海野氏の力の大なることを示すものである。鎌倉幕府になっても武勇をもって重く用いられ、北条氏まで長い間にわたって仕え、弓の名人として流鏑馬(やぶさめ)の射手として活躍している。 |
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| 天文10年(1541)武田・村上・諏訪氏の連合軍に攻め入られて滅亡するまで、海野氏を中心として、非常に大きな勢力を誇る信濃きっての名族であった。 |
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その後、村上義清、武田信玄の所領となる。こうした海野氏の本拠・居館が当宿北の段丘(現白鳥台団地)にあることから、当宿の地は、海野氏の城下町的性格をもって古くから、かなりの集落形成がなされていたものと思われる。
このことは、鎌倉後期文永11年(1274)の高崎円性寺(たかさきえんしょうじ)の地蔵菩薩背名に「小県郡(ちいさがたぐん)白鳥宿住人」とあり、また下って天正10年(1582)以前のものと思われる武田氏の伝馬文書に「海野町」とあることからも裏付けられる。また室町時代から戦国期にかけて六斎市が立っていたことも、当宿の御蔵小路(おくらこうじ)にあった市神もこの市の存在を裏付けている。以上のことから、当宿の地はかなり古くから海野氏の本拠として、またこの近辺の交通上・交易上の中心地として栄えていたことが判明できる。
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こうした背景があったからこそ、真田昌幸が天正11年(1583)に上田城を築き、その城下町を形成するにあたって、真田氏にゆかりのある当地海野から、その住民を招き寄せ、上田に海野町を形成して、そのもとの地を「本海野」と称され、ほかに、この近辺から鍛治町・大工町・紺屋町等も形成して職人らも移住させた。
また北国街道が開通した慶長年間に田中宿が開設されたにもかかわらず、それからわずか西へ1.6qしか離れていないこの地に宿場が設置されたのである。 |
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| 海野宿が、成立当初からその規模は殆んど変わっていなかったと思われる。それが寛保2年(1746)に田中から本宿が移ってからは戸数の増加と関連して宿自体も次第に拡張されていったわけである。 |
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| 明治に入っての海野では、養蚕・蚕種製造が盛んになったが、その芽は江戸末期に、この地の副業の中に大きく育っていったとみることができる。現在の海野は、道路中央部を流れる用水路、うだつ・格子戸のついた出桁(でけた)構造の美しい家並み等、旧北国街道宿場町の景観をそのままに、静かなたたずまいをみせている。このように、海野宿が宿場町の景観を保ち得ているのは、明治21年(1888)に開通した国鉄信越線が宿の北側を通り、駅が当地から離れた大屋と田中の地に開設されたこと、また戦後開通した国道18号線が宿北方の段丘上を通ったこと等、いわば近代主要路線からはずれたことが大きな理由として挙げられる。こうした旧宿場には、近年この地を訪れる観光客・写真家・画家・研究者等の数は、年を追って増えてきている。 |
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| それとともに、宿場町のたたずまいを色濃く残している当地の家並みや景観が文化財として価値を高く評価され、保存を望む声も高まってきて、昭和61年3月に町保存条例が施行され、8月に建設省の「日本の道百選」に、翌昭和62年4月には文部省の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、宿場一帯を「歴史の里」として、行政の積極的な援助・助成により、街並みの保全・修復また資料館・歴史公園やコミュニティ広場の計画が進められてきております。 |
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