| (2)海野宿の成立 | ||||||||||||||||||
| 海野宿は、寛永2年(1625)に宿駅として開設された。当初は、田中宿の間の宿的性格であったらしく、問屋が置かれ田中宿と半月交代で伝馬の仕事のみ、つとめていた。 | ||||||||||||||||||
| ところが寛保2年(1625)8月の大洪水により、それまで本宿をつとめていた田中宿が殆んど壊滅状態になってしまった。この時は東北信濃にかけて殆んどの村々が大被害にあったが、田中宿の被害は特にひどいものであったらしく、死者68人、負傷者59人、流失家屋120軒、残った家は29軒であったと伝えられている。もちろん海野宿もかなりの被害を受けたが、田中宿ほどではなかったことから本宿が田中から海野に移され問屋であった藤田氏が本陣を兼任し、大名の宿泊・荷物の輸送等を一手につとめるようになったわけである。 | ||||||||||||||||||
|
その後、田中宿も次第に立ち直ってきたらしく、宝暦11年(1761)田中宿より古来の通り半月交代で人馬の継立を行うよう訴えがあり、両宿間で談合が繰り返されたが、海野宿側に古来に戻ることに大きな支障があり不調に終わった。下って文化3年(1806)再び田中宿から訴えがあり、双方談合をかさねること1年余、翌文化4年11月に上田原町の問屋、田中組の割番等の仲介でようやく決着をみている。 この時の内容は「本陣は両宿に置き、大名旅人の宿泊は、相手方の意向次第で決めてもらうこと。伝馬役は以前の通り半月交代でつとめること」といったものであった。こうした田中宿との関係は、その後江戸期を通じて変わらなかった。 |
||||||||||||||||||
| なお、これらの旅籠屋には、宿振興のため寛政10年(1798)一軒につき2人の飯盛女(めしもりおんな)の抱えが15年の期限付きで許可されているが、飯盛女の抱え置きについては、許可と禁止が繰り返されたようである。しかし飯盛女が抱えられていた頃は、海野宿に見るような出格子の家は京都の伏見あたりの女郎屋の造りと非常によく似ているもので、この格子の中に女がいて、在郷村々の若者達がこの格子を通して女をひやかして歩いたのであろう。特に、この格子を「海野格子」と、この地方では呼ばれている。 | ||||||||||||||||||
|
|
||||||||||||||||||
|
海野格子
|
||||||||||||||||||
|
||||||||||||||||||