| (3)海野宿の規模 |
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| 北国街道は、中仙道(なかせんどう)と北陸街道とを連絡する街道で、金の道または加賀街道ともいわれていた。中仙道の追分宿(おいわけじゅく)から分かれて、小諸・上田・善光寺を通って越後(えちご)に入り、高田を経て直江津に至るもので延長約35里(140q)。また篠ノ井より分かれて猿ケ馬場峠を越えて、松本平を経て洗馬宿(せばじゅく)に至り、中仙道に合するものを北国西街道といい約17里(68q)である。 |
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| この街道を通った主要なものは、加賀百万石の前田侯をはじめとして北陸方面の諸大名、佐渡の金銀荷物、越後の臘(ろう)荷物などであった。佐渡には金山があり江戸幕府の大切な財源であったから、江戸との間の交通はすこぶるひんぱんであった。このようにいろいろな往来は、絶えずこの街道に影響を与え、宿場ではそれだけの責任も負わなければならなかったし、このためにいろいろな施設もほどこされた。 |
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| 海野宿は寛永2年(1625)に宿場になった。延長約6町(650m)居屋敷の表間口は、寛永17年(1640)の検地帳によると、間口3間半が11軒・7間が53軒・8間が11軒・9間が1軒・10間が1軒、居屋敷数計77軒で、裏行は25間(約45m)ずつとした。街道をはさんで両側に軒をつらね、伝馬役(てんまやく)に従うことによって地子(ちし)(年貢(ねんぐ))が免ぜられた。また宿を並家破損の節は修復籾(しゅうふくもみ)を下げて営繕させ宿の東西の入口の柵も破損すれば公費をもって修復した。街路の中央に川を通し、その南側を通路とした。 |
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| 宿役は月の下15日とした。問屋は当初武井作左衛門がつとめたが、寛永14年(1637)から藤田氏に代わった。寛保2年(1742)から問屋藤田伝左衛門が本陣を兼ね、本陣を補佐する脇本陣は矢島六左衛門と宮下彦左衛門がつとめた。問屋給は本石のうちで1石5斗を給された。 |
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| また村役として庄屋2名、組頭4名が置かれ、庄屋は組頭の中から、組頭長は百姓の中から選任され、なお宿役としての年寄は組頭が兼任していた。伝馬は問屋の統括するところであるが、問屋場には馬指2名と帳付2名が常勤していた。海野宿の伝馬屋敷は63軒であったが、本陣・問屋・庄屋屋敷を除いた59軒で勤めていた。その内訳は、25軒が馬持役、25軒が人足役であり、人足と馬が常備され、残りの9軒分は代金役で出していた。また高割で、増米といって16両集め、9軒の分と合わせて25両として馬1疋(ひき)に1両ずつ補助金を出した。馬役25軒は、文化12年(1815)宿中平均して2軒で人足1人、馬1疋あて勤めていたが、天保頃(1830)に至り「2軒で1人1疋あては、よろしくないから本役屋敷の内で見立てしだい馬役を勤められたい」と命じられた。そして人馬雇料金は人足1人1両1分、馬1疋2両2分であった。 |
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幕末になると人馬役を請負で雇ってやらせたが、道中奉行として伝馬役相続のために相続援助の被下金などを出すのものだから雇入馬や請負世話役をすることはよろしくないと指示したが、実際には行われなかった。
寛永19年(1642)の荷物は普通一駄が小諸へ75文、上田へ50文であった。天保3年(1832)町中総家数111軒で、昼夜の火の番は8人ずつ家別に勤めた。本陣・問屋・庄屋2人は諸役儀諸夫銭で全部免ぜられた。年寄は組頭を兼任し、諸人夫小役は免ぜられた。
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| 明治11年(1878)の調書によると、養蚕兼農業が135戸、工業7戸、商業1戸、僧1戸で農業余暇では蚕種28戸、質屋1戸、酒造1戸(受売3戸)、製菓2戸(受売10戸)、茶屋1戸、料理屋3戸、旅館10戸、魚夫6戸、たばこ屋1戸、水車屋7戸となっていた。 |
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白鳥神社の西に正行院青龍山地蔵寺の跡地に媒(なかだち)地蔵の常夜燈が残っている。昔、ここを往復した有名なお殿様に年頃の娘があったが、なかなか良縁が無かった。あるとき縁結びのお地蔵さんという話を聞き、参拝したところ、娘は良い男性と結婚することが出来たという。それ以来参拝者が多く来るようになった有名なお地蔵さんである。 |
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