| 2.日本武尊(やまとたけるのみこと)と白鳥神社 | ||||||||||||||||||||
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今から約1900年前、ヤマトタケルが首尾よくクマソ兄弟を討ったかと思うと、すぐに出雲の国に転進し計略をもって、その国で暴れていたイズモタケルを平らげ、喜び勇んで大和に帰ってくると「こんどは東国に行ってエゾを討て」と父景行(けいこう)天皇に命ぜられました。 途中伊勢神宮に詣で、叔母上のヤマト姫から天叢雲の剣(あまのむらくものつるぎ)と火打石をいただきました。そして勇躍東をさして進む道すがら、思い出しても不愉快な、あの焼津の原で土地の暴れものにはかられて火攻めにあったり、また上総(かずさ)へ渡る相模(さがみ)の海で、神の怒りを静めるために、弟橘姫(おとたちばなひめ)がミコトの身代わりに海中へ身を投じて入水するという悲しい目にもあいました。このように苦心惨憺(くしんさんたん)、ままならぬ東国のものどもをようやくに打ち平らげ、その帰途、鳥居峠に立ち、相模の方を眺められ、入水した姫(おきさき)を忍んで「吾妻者邪(あずまはや)妻こいし」とお叫び(さけび)になりました。このことから現在でも群馬県に吾妻郡(あがつまぐん)があり嬬恋村(つまごいむら)と名づけられた地名があります。 それから後、鳥居峠を越えて信濃国に入り、この地で滞在されました。近くの小さな海を見て、相模の海難を思い出されて、「この海も野となれ」と念じられ、それからこの地は海野(うんの)と言うようになったと云われております。 |
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| それから大和への凱旋(がいせん)の帰途、伊吹山(いぶきやま)の荒ぶる豪族との戦いに、不覚にも手痛い攻撃をこうむってしまった。この負け戦から長年の心労がどっと出て、あの山を越えれば大和だという一歩手前の鈴鹿の能褒野(のぼの)で、ついに動けない事態に陥って(おちいって)しまった。苦難に満ちた戦いの思い出が走馬灯のようにミコトの胸をかけめぐり、「ああ、大和に帰りたい、大和は美しいなあ」『大和の国は、日本の中でもすばらしい国である。山々が幾重にも重なり、青葉が茂り、山が垣のように囲み、その中にある大和の国はすばらしい。また、私のお伴の中で命が充分にある人は大和に帰り、平群の山(へぐりのやま)の茂った樫の葉をかんざしのように頭にさして、楽しく過ごしなさいよ。』こういって、ふるさとを恋いしたうミコトの声に従臣たちも目がしらを押えました。「父君に、東国を平定して参りましたと一言だけいいたいために、やっとここまで来たのに・・・・・・」ひたいには苦痛をこらえる油汗が玉のように吹き出ていました。 「あーあ死んでも死にきれないなあ」とカッと目をひらかれたミコトはとうとう息を引きとってしまいました。このとき、御歳わずか30才だったと云います。 |
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急使によって大和においでになったおきさきや子たちが、取るものも取りあえずかけつけて地をかきむしってお嘆(なげき)きになりました。 そしてミコトがおなくなりになった能褒野(のぼの)の地にお墓を築きましたが、そのお墓が出来上がった時、御陵の中から突然一羽の巨大な白鳥が舞い上がりました。 |
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(古事記より)
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| この付近には、これにまつわる地名が次のように多く残っております。 羽毛山(はけやま)・羽毛田(はけた)・片羽(かたは)・尾野山(おのやま)・羽尾山(はねおやま)・両羽(もろは)・尾撫(おなで)・羽掛(はかけ)・尾掛神社(おかけじんじゃ)等がある。 |
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当白鳥神社は境内876坪、氏子149戸。祭神は日本武尊・白鳥大明神・須佐之男命(天照大神(あまてらすおおみかみ)の弟で天の岩戸を押し開いたり、また出雲国では八岐大蛇(やまたのおろち)を退治したという方)・貞元親王(さだもとしんのう)・善淵王(よしぶちおう)・海野広道で、中世の豪族海野氏の氏神(うじがみ)であったが、現在は本海野区の産土神(うぶすなかみ)として祀(まつ)られています。 この神社は第14代仲哀(ちゅうあい)天皇(足仲彦(たらしなかつひこ))から、ミコトの大功により、白鳥大明神と贈号をたまわり、神地・神職などをさだめられ、第15代応神(おうじん)天皇(誉田別(ほんたわけ))からも、また勅額を賜りました。その後、永久2年(1114)に至り、海野広道は当地領主の祖である貞元親王を本殿に合せ祀られました。久寿年間(1154ころ)海野幸明は、また善淵王と海野広道の2霊を合祀し、巨多の神領を寄附された。 これより武家の尊信ますます厚く、文治6年(1190)海野氏幸は社殿を今の地に移して再建された。以来海野家累代から真田信之に至るまで数々社領を寄付し、盛んに祭祀を行ってきました。元和年間(1615ころ)に至り仙石忠政の領地となり社領を没収される。寛永元年(1624)9月、真田信之松代の地に移殿を再建しました。寛永17年(1640)仙石忠俊は更に3貫500文の社領を寄附された。のち寛保2年(1742)8月洪水のため社領すべて流失する。弘化3年(1846)12月には松城藩主真田信濃守幸貫(ゆきつら)より永代10石が寄進されました。 文化5年(1808)雷電為右衛門が信州に巡業のおり海野宿にも立ち寄り白鳥神社へ参拝し、そして毎年8月12日に行われている祭礼相撲のために、4本柱土俵が奉納されました。この文書は海野宿歴史民族資料館に展示してあります。それから以後、明治時代を経て奉納相撲が昭和5年(1930)頃まで続いておりました。 |
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また神事の舞の一つで、心安らぐ平安な世を願い、昭和15年(1940)皇紀2600年の記念祝典のときにつくられた浦安の舞が、女子8人の舞姫による白鳥神社境内で、手ぶり・身ぶりをしのばせる典雅で荘重な舞、扇の舞と鈴の舞とに分かれております。祭日は、毎年4月12日と11月23日に浦安の舞を奉納しております。特に11月の勤労感謝の日には「海野宿ふれあい祭り」に併せた大祭の折には赤いジュウタンを敷いた特設舞台が設けられて、カメラのフラッシュが集中します。この日近郷近在から海野宿の街並みには、ひとひとで溢れて、歩けないくらいの人が集まります。 また、この神社の社叢は、樹齢700年を越えた欅(けやき)・槐(えんじゅ)等の大木により、立派な鎮守の森となっており、町の天然記念物にも指定されております。 |
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