| 3.奈良正倉院と海野郷 | ||||||||||||||||||||
| 正倉院といえば、1200余年も昔、光明皇太后が聖武天皇追善のために東大寺に献納された無数の宝物を収めた庫であります。その宝物は武器・楽器・遊具・服飾・調度品・文具等で日本が世界に誇る宝物庫であることは良く知られているところです。 | ||||||||||||||||||||
| この正倉院の御物の中に「信濃国小県郡(ちいさがたぐん)海野郷(うんのごう)戸主(へぬし)爪工部君調(はたくみべきみみつぎ)」と墨書された麻織物の紐の芯(ひものしん)があります。これには年号はないが織り方や墨書の形式から推定すると奈良時代の天平年代(729〜741)の貢物であろうと推定できます。 | ||||||||||||||||||||
| この頃小県郡に海野郷があり、ここに爪工部を名のる人々が住んでいたことを立証する史料であります。 | ||||||||||||||||||||
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どうして、このような職業身分の人たちが、この僻遠(へきえん)の地に定住したのだろうか。 次項の「日本霊異記(りょういき)」には奈良時代に、この地に大伴連(おおともむらじ)という姓をもつ忍勝(おしかつ)なる人は、氏寺までもつという大きな勢力を張っていたことを記しているが、後世信濃の名族として海野氏は、この大伴の系譜をひくものであろう。 |
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| また、当地に「県(あがた)」「三分(みやけ)(屯倉(みやけ))」等の古代の匂いの濃い地名が数多く残り、何れも古代中央の文化が盛んにおしよせてきたことを物語っております。しかもすぐ西方には、信濃国府、信濃国分寺があって、信濃国の政治・文化の中心となっていた。それらの文化とともに都から、ここに下って定住し、かなりの勢力者となったのであろう。 | ||||||||||||||||||||
| そしてまた、何れにしても、この紐は今から1200余年前、海野郷から信濃の牛か馬の背によって、はるばる奈良の都にもたらされ、そして宮中に入り、きらびやかな調度品の中につつましく身をおいて、その責務を果したものであろう。 | ||||||||||||||||||||
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(千曲20号より)
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