5.平将門(たいらのまさかど)と善淵王(よしぶちおう)
 
 平貞盛は平将門が反乱を企てておると、時の政権をバックにして、ライバルの将門をたおそうと考えておりました。さらに将門が製鉄所をつくり、武器や甲胃(かっちゅう)を製造して、反乱を企てていると朝廷に訴えようとしたものであろう。地方に居って、醜い争いのまきぞいを食うよりも、将門を中傷するため上京し、それをきっかけに立身出世をしようというものであった。
 
 そこで平貞盛は、承平8年(938)2月中旬、東山道を京都に向けて出発しました。これを聞いた将門は、100余騎の兵をひきいて、まだ碓氷峠には厳雪のある季節これを蹴散らして峠を越え追撃した。当時の東山道は小諸・海野・上田を経て、そこで千曲川を渡り浦野・保福寺峠と過ぎて松本にはいるのが順路であった。貞盛はこの経路をとり、小諸の西、滋野の総本家の海野古城に立よって、善淵王に助けを求めてこられました。
 
 善淵王と平貞盛との関係は、貞盛がかつて京都で左馬允の職にあった時、信濃御牧の牧監滋野氏と懇意でありました。
 
 この滋野氏は信濃の豪族で「続群書類従」によれば海野氏の祖であります。
 
 清和天皇--貞保親王--目宮王--善淵王 延喜5年(905)はじめて醍醐(だいご)天皇より滋野姓を賜う
 
 また、以前に将門上京の際、貞盛の依頼によって宇治川を布陣、将門を亡きものにしようとした縁故があった。この協力を謝し、再び、ここでその厚意によって、一息つこうとしたものであろう。
 

 貞盛が海野に助けを求め、海野古城に滞留していることを知った平将門は先まわりして信濃国分寺付近に待機して、神川をはさんで千曲川合戦が行われたのであります。この日は冬まだ寒い2月29日のことであったといわれております。この戦火で旧信濃国分寺が焼失してしまったという。貞盛方上兵他田(おさだ)真樹はこの時矢に当って戦死、この他田氏は信濃国造の子孫であるとしているから、郡司として国府にあり、貞盛の危急を聞いて、一族郎党をひきいて応援にかけつけたものであろう。

従来この上田には国分寺のみあり、国府は松本に移っていたという、貞盛は運よく山中にのがれ、将門は空しく引きあげました。
 「千たび首を掻(か)きて空しく堵邑(とゆう)に還りぬ」と平将門は、その落胆ぶりを「将門記」に記しております。

 
   
 
 旅の糧食を失って飢(うえ)と寒さに悩まされ、やっとのことで京都にたどり着いた貞盛は、太政官に訴え出ており、将門に対する召喚状(しょうかんじょう)が出されました。
 
 承平2年(932)平将門返逆の時に勅にして滋野姓を名乗っていた善淵王に御幡を賜りました。これが滋野氏の「州浜」の家紋となりました。
 

 清和天皇の第4皇子に貞保親王という方がおり、「桂の親王」とか「四の宮」とも呼ばれておられました。
貞保親王は琵琶がお上手でありました。ある日、親王が琵琶をお弾きになっていたところ、その演奏の妙なる音色に誘われて1羽のツバメが御殿に入ってきました。

そのツバメは曲に合わせて飛び回りました。あまりにも優雅に飛ぶもので、周りの人達は驚きの声をあげたその瞬間、貞保親王は目を開いてツバメを見上げた時、ツバメの糞が目に入り、痛み出し名医に見てもらったも治りませんでした。そのとき信濃国の深井の里のむすめが「信濃国に不思議なほど病に効く加沢温泉があります。」と申し上げました。そこで親王は信濃国へ下向され、深井の館にお入りになって温泉に浴されたところ、お痛みはとれましたが、御目は不自由になられたので、そのまま海野庄に住みつくことになりました。深井某の娘は、盲目であった親王の身の回りの世話をしていましたが、やがて御子が生まれ、この御子が成長をして善淵王と称するようになりました。醍醐天皇の延喜5年(905)に善淵王は滋野姓を賜りました。

善淵王は真言宗に深く信仰があり、寺を建立した。貞保親王を宮嶽山稜(みやたけさんりょう)に葬り、神として奉祀りした。これが祢津西宮(現東部町祢津)の四之宮権現である。
天慶4年(941)1月20日に亡くなられ、善淵王の法名(海善寺殿滋王白保大禅定門)を取って海善寺と称された。

 

 600有余年を経て、永禄5年(1562)11月7日武田信玄が本寺を祈願所として寺領若干のほか、なおまた隠居免5貫文を寄附しております。翌年7月28日には、10坊ならび太鼓免36貫100文を寄附しております。

その後天正15年(1587)頃、領主真田昌幸の時に至り、上田城より丑寅の方が鬼門に当るを以って、本寺を現今の地(上田市新田)に移し「大智山海禅寺」を再建して上田城の鬼門除けとなり、海善寺は廃寺となりました。その後江戸時代の大洪水すなわち、寛保2年(1742)の「戌の満水」によって大部分が流失しました。その廃寺跡の畑から「廃海善寺石塔基礎」が掘り出されて、いま曽根の興善寺本堂の西側の建物軒下に保存されている。

その1面に「文保□□□月十□ 比丘尼沙弥恵」と刻印され、何年であるかわからないが、文保は2年間しかないので1317年か1318年である。鎌倉時代末期であり、その頃すでにあったことがわかる貴重な資料であります。

 

 真田信之が元和8年(1622)松代西条にこの寺を移し、金剛山開禅寺と改め白鳥神社の別当とした。今の本堂は慶安3年(1650)7月に再建し、境内の経蔵は万治3年(1660)の建築で内部の八角輪蔵に天海版一切が納められている経蔵は県宝であります。

また北御牧村下之城の両羽神社に善淵王の木造が安置されている。

 
(左)貞保親王・(右)船代木像=ダッタン人
(両羽神社)
   
海善寺跡
 
海野物語 目次 海野史について    
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