| 6.白鳥河原に挙兵した木曽義仲 | ||||||||||||||||||||
| 旭将軍木曽義仲は信州を代表する武将で、爾(なんじ)今現在まで義仲の如き、偉大なる人物を残念ながら見ることは出来ません。 | ||||||||||||||||||||
| 義仲の父源義賢(よしかた)は甥の悪源太義平(15才)に急襲されて討死した。そのとき義賢の次男(後の義仲)は比企部(埼玉県)大倉館で久寿元年(1154)生れて間もない、わずか2才でありました。畠山重能(しげよし)に命じ、捜し出して必ず殺せと厳命を受けました。難なく母子を捕えられたが2才の幼時を討つことができなかった。斉藤別当実盛に助けられ、それから信濃の木曽谷の土豪中原兼遠(かねとう)に、この駒王丸母子は預けられたのであります。駒王丸は、中原兼遠のもと、木曽谷ですくすく成長しました。長じて義仲と名のり、兼遠の子の樋口次郎兼光や今井四郎兼平らを家来とし、武将としての修行をしました。また、その娘をめとって義高・義基の2子がいました。 | ||||||||||||||||||||
| 治承4年(1180)義仲は27才を迎えていました。そんな折、以仁王(もちひとおう)の発した平家追討の令旨(りょうじ)は、山伏に変装し平家の目をくらまして、都を脱出した源行家によって諸国の源氏のもとに伝えられた。源頼朝のもとへは、4月下旬に、木曽の義仲へは5月上旬に到着しました。 | ||||||||||||||||||||
| 義仲が、平家討伐の旗挙げを木曽谷の八幡社でしたのは、その年の9月、27才の秋であった。かくて、10月には、義仲は上野(群馬県)に進出しました。上野国多胡郡は、20数年までは、亡父義賢の本拠地であった。上野の地は短期間に殆んど勢力圏に収めることができました。しかし、約2カ月の滞留の後、軍を信濃に帰したのである。上野から下野の武蔵など、これ以上に進出することは、従兄の頼朝を刺激することになり、加うるに大豪族として越後から出羽(秋田・山形)にかけて、偉大な勢力の平氏一族の城氏から義仲を討たんとして、北方から信濃に進入の機をうかがっていたからであります。 軍を直ちに信濃に還した義仲は、おそらく依田城(現丸子町)に入り、その年の正月をそこで過したのであろう。 |
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| あくる治承5年春、城四郎助茂(すけもち)は全兵力を集め、6万を率いて信濃侵入を開始しました。信濃国境を突破した平家の先鋒、城軍は難なく善光寺平に進出してまいりました。 一方、木曽義仲は信濃小県郡の白鳥河原に3千余騎の軍勢を集結したのであります。それは治承5年(1181)夏の6月10日前後のことであったであろう。白鳥河原で全軍の馬首をそろえたのは、木曽の樋口兼光・今井兼平・木曽中太・弥中太・検非違使(けびいし)太郎以下、諏訪の諏訪次郎・千野太郎・手塚別当以下、東信濃では根井小弥太・楯(たての)親忠・塩田高光・矢島行忠・落合兼行・桜井太郎・大室太郎・祢津神平・祢津貞行・信貞・望月次郎一族・志賀七郎一族・平原景能、地元では総大将海野幸親・弥平四郎幸広、それに上野、甲斐などにいた源氏の将が加わりました。 |
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| 東信濃の武士たちは、新張牧・望月牧・塩河牧の中心勢力者で騎馬の技術は、戦闘に進軍に予想外の威力を発揮したものであろう。白鳥河原への集結は交通の便もさることながら、義仲の旗挙げに力のあった長瀬氏の近くで、しかも集まりやすいということと、広大な河原であり地元の豪族海野一族の勢力があったと見ることができる。白鳥神社に戦勝祈願参拝、海善寺に先祖代々の霊に出陣の報告をして白鳥河原を後に出陣し、さっそうと千曲川の流れにそって横田河原に到着した。合戦は6月14日朝8時頃、木曽方の奇策により平家のしるしとなっていた赤いのぼりを持つ兵を横手から近づけたら、平家方は見かたがえたと喜んだので、やにわ源氏の白いのぼりを振りかざして攻めつけたので、大敗した城氏は奥州へ逃亡しました。木曽義仲は、初の大勝をかち得て、つづいて倶利伽羅の戦いと、つぎつぎに勝利をおさめ入京をはたし、旭将軍の称号をうけ征夷大将軍に任ぜられました。 | ||||||||||||||||||||
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現在の白鳥河原(丸子町方面より)
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永寿3年(1184)1月宇治・瀬田の戦いに敗れ粟津で討たれてしまったのです。海野氏9代海野弥平四郎幸広は寿永2年11月備中水島の合戦で、木曽義仲の大将軍として討死、また弟海野幸長(のちの大夫房覚明)は義仲の祐筆として活躍されました。この覚明こそ「平家物語」の語り手の1人ではないかといわれている、また白鳥庄に康楽寺を建立しておる。 海野氏は義仲勢が滅びても騎馬武者の生命は衰えることなく頼朝をはじめ北条・足利・真田氏等に仕え騎馬弓射の道に長じて重く召抱えられました。 |
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