| 7.臼田文書と海野庄 |
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| 臼田氏の先祖の滋野光直は小県郡海野庄田中郷の地頭頭を勤めており、それを子の光氏に譲ったという古文書が茨城県稲敷郡(いなしきぐん)江戸崎町羽賀(はが)の臼田修家にあります。それは寛元(かんげん)元年(1243)、今から約760年も前のことである。 |
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| 臼田文書によれば田中郷は貞治6年(1367)に武蔵国帷郷(かたびらごう)(横浜市保土ヶ谷区)と共に臼田勘由左衛門尉直連に譲られた。 |
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| 小県郡海野庄に領地を持っていた滋野姓臼田氏が常陸に本拠を移したのは何の時代で、どのような理由によってであろうか正確なことは勿論、未だわかっておりません。 |
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| 上杉は南北朝時代に関東の執事であった。上杉憲顕は足利兄弟に反抗し、正平6年(1351)信濃国に落ちた。その後貞治2年に関東管領に復活して下向し、憲顕の子憲方は常陸国信太荘を領地としたので、その子憲定から嘉慶元年(1387)に臼田氏は布佐郷(茨城県稲敷郡美浦村)を与えられたのであろう。臼田氏の移住したところは茨城県の霞ヶ浦南岸の大変に開けた土地であります。 |
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| 海野荘の加納田中郷(小県郡東部町田中)に所領を持っていた滋野氏の一族田中光氏(みつうじ)は、寛元元年(1243)10月6日に、自分の所領を分けて子供に譲り与えました。長男の経氏(つねうじ)、次男の景光(かげみつ)、浦野氏の女房になった女の子、孫の増御前と呼ぶ女の子、小野氏から嫁いできた光氏の妻、それに母の西妙(光氏の父滋野光直の妻)に、次のように譲り与えました。 |
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| 嫡子経氏 |
田中郷を譲るに当って、代々家に伝わっている下文(院庁・将軍政所などから下付された証文)2通、父光直から貰った譲状1通、祖母西妙から貰った譲状1通。 |
| 子息景光 |
小太郎屋敷と田1丁。 |
| 浦野女房 |
宮三入道屋敷と在家付の田6反(没後経氏知行) |
| 孫増御前 |
藤入道在家と在家付の田6反(没後経氏知行) |
| 小 野 氏 |
父道直の屋敷「堀の内」と内作田2町3反(没後経氏知行) |
| 西 妙 |
父光直の屋敷と作田および光直譲状。 |
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寛元2年
(1244)
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12月30日将軍藤原頼嗣から滋野経氏地頭職の安堵状を下付されております。 |
建長6年
(1254) |
11月5日将軍藤原家政から左衛門尉滋野経氏地頭職の安堵状を下付されております。 |
延慶3年
(1310) |
3月7日鎌倉幕府から左衛門尉滋野経氏の田中郷の内田10町と在家42宇を滋野経長に領知せしむべき安堵状を下付されております。 |
応長元年
(1311) |
2月9日武蔵の国帷の郷(現横浜市保土ヶ谷)の内、名田・在家、信濃の国の田中郷を孫の宮一丸に領地を譲られました。 |
正中3年
(1326) |
3月25日幕府金沢貞顕が臼田四郎重経に領地3分の1を返し付けられる。 |
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観応2年
(1351)
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海野庄田中郷の内
田在家 田3町5反・在家3軒を永代叔父宗氏に
大熊の女子に田5反・在家1宇、但し没後は叔父宗氏知行す
もし宗氏に子なき時は、惣領(家督をつぐべき家筋)の子孫に返して欲しい |
貞治6年
(1367) |
沙弥至中なる臼田四郎左衛門光重から滋野勘解由左衛門に田中郷と帷郷を譲る。但し没後、鶴宮丸に永代譲り渡す。 |
応安元年
(1368) |
3月23日時の幕府(将軍足利義満)から知行安堵の御教書下付。 |
応永32年
(1425) |
貞重から孫の小四郎貞氏に次通り譲る。
田中郷・惣領職定勝知行分 田畠・在家等
武蔵国師岡保小帷郷の内、岸弥三郎入道作本町6反・在家1宇等。 |
文安3年
(1436) |
政重 上杉憲景より遺跡を譲られる。 |
天正18年
(1590) |
秀吉の関東進攻は南常陸も一変させ、兵農分離が進んで羽賀に館をおいた臼田氏は、そこを離れた武士身分になろうとせず、ついてそこに土着する道を選んで現在に至る。 |
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茨城県臼田修家
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