9.武田信玄と海野氏
 
 天文7年(1538)6月、北条軍との和議が成立して3年間武田信虎は珍しく戦がなく平穏な暮らしが続いていた。天文9年5月、24才で諏訪氏を継いだ頼重に信虎の娘の祢々(ねね)(晴信のちの信玄の妹)を11月に嫁がせております。
 
 信虎が最後の合戦を飾ったのは48才の天文10年(1541)の晩春に始まった信州の「佐久攻略」であった。晴信21才の初陣説は、このあたりから出ている。「甲陽軍艦(こうようぐんかん)」「武田三代軍記」などでは信虎・晴信父子の奮戦ぶりを克明に描いている。信虎軍は1日に36の城を攻め落としたと伝えられております。
 
 武田信虎軍は佐久を通って、現在の白樺湖に近い大門峠を降り、諏訪頼重は下諏訪の和田峠から山つたいに、村上義清軍は戸石城で兵力をそろえ、いずれも血に飢えたような連合軍で戦闘をいどんだ。折からの雨期に大雨が続いて戦場は水びたし、川はあふれ、おぼれる者さえ出る中を滋野三家の前衛とする城は次々とたたかれた。双方の主力がぶつかりあい。防衛軍は歯を食いしばって戦ったけれど、5月13日に尾野山(現丸子町生田)の城が落され、翌日海野平(現白鳥団地)を占拠され、海野城の本拠は陥落(かんらく)しました。
 
 祢津元直は晴信の妹が妻であることと、諏訪神社の神官と縁をむすんでいたので特に許され、望月氏は武田軍に降伏した。
 
 この三者(武田・諏訪・村上)がどんなふうに海野討滅の計画をきめたかは、わからないが村上氏は前から海野をくつがえそうとねらっていたことは確かである。
海野一族と隣り合わせで、同じ千曲の沿岸に葛尾城を強化した村上氏は海野氏を快く思っていなかったので応仁元年(1467)に両者が激突を起こし、海野氏を惨敗し、上田川西地方に勢力範囲を広げ野望をめざしていたが、武田信玄に弘治3年(1557)2月15日火攻めで落城しました。もう1人の諏訪氏も海野城を攻め入った翌年には、信玄にはかられて悲憤の最期をとげたし、武田信虎は、わが子の信玄に追放されるという運命に立たされました。
 
 のち天文22年(1553)に、あの有名な上杉謙信との川中島の戦いとなります。
 
 

 その後、永禄4年(1561)海野氏の家名を滅ぼすことは心ならぬと、信玄の第2子次郎信親は〔母は三条内大臣公頼女で、天文7年(1538)生まれで、盲目のため髪をたくわえず別館にいた。居館は城北の聖道(しょうどう)小路。時の人お聖道(しょうどう)様という。また4男が勝頼で、5男が仁科五郎盛信である。〕海野幸義公の女子を妻として、海野民部亟龍宝(うんのみぶのじょうりゅうほう)と名乗り海野氏を継いだといわれております。

海野の旧臣80騎の将となり、性格は穏やかで慈しみ深く、人々から敬愛され、龍宝の陣代として小草野若狭守隆在に100貫から1,000貫を与え家老(のち奥座)をつとめさせた。

 
 天正10年(1582)3月11日武田勝頼・信勝父子が天目山に敗死を聞き、城南畔村(現甲府市住吉町)入明寺(にゅうみょうじ)内で自刃した。(年42才、法名長元院殿釈潭竜芳大居士)その子顕了道快は甲府長延寺に隠れ織田信長の目を逃れ、その子信正は赦免され、その子信興は江戸時代高家(大名に準ずる格式を与えられ、朝廷に対する儀式をつかさどった)の衆に列し、子孫武田家を伝承して15代目武田昌信氏となり、東京都世田谷に現存しておられます。
 
海野平古戦場之図
入明寺
武田龍宝墓所
 
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