| 13.海野氏について | |||||||||||||||
| (1)海野氏の由来について | |||||||||||||||
| 海野氏は滋野(しげの)三家といわれ、海野・祢津・望月の三氏で中世初期から活躍している信濃の名族である。 | |||||||||||||||
| 長野県東御市に滋野という地名が、祢津の新張(みはり)に滋野(新張の滋野神社の場所)と和(かのう)の海善寺に滋野原・滋野鎮(しずめ)(海善寺の滋野神社の場所)の2ヶ所にある。 | |||||||||||||||
|
|||||||||||||||
| 平安時代の延暦17年(798)に伊蘇志臣(いそしのおみ)を改めて滋野宿祢(すくね)となり、さらに弘仁14年(823)に滋野朝臣(あそん)となったと国史に見えるのが最初である。そして、この滋野氏の先祖は楢原氏であり、その楢原氏の系統については『新撰姓氏録』の右京神別の条に「滋野宿祢、紀直と同祖、神魂命五世の孫天道根命の後成」と明記されており、紀伊国造と同系であって、次の系図が伝えられている。 | |||||||||||||||
| 『続日本紀』に天平勝宝2年(750)「3月、駿河の国司楢原造東人等が庵原郡の多胡浦浜で黄金をとって献上したので東人に勤(いそし)の臣の姓(かばね)を賜った。そして12月9日には、端祥を喜び、東人に従五位上が授けられた・・・」とあり、この頃は大仏の鋳造をしている時であったので、黄金の発見と採取を促したことが知られる。 | |||||||||||||||
| この楢原とは、大和国葛上郡楢原郷(現在の奈良県御所市(ごせし)大字楢原)にある地名であり、美濃・美作等にもあるが、この楢原氏は大和出身の旧族である。『和名妙』に「奈良波良」と訓ずる。越知郷段銭算用状(春日神社文書)に「楢原庄10町5段半」とあり、中世には興福寺大乗院方国民楢原氏がみえる。 | |||||||||||||||
|
仁寿2年(852)2月の『続日本後紀』には、「参議正四位下行宮内卿兼相模守滋野朝臣貞主卒す。貞主は右京の人也。曾祖父大学頭兼博士正五位下楢原東人。云々遂に姓に伊蘇志臣を賜る。父尾張守従五位上家訳は延暦年中姓に滋野宿祢を賜う」とあり、次に貞観元年(859)12月の『三代実録』には「従四位上行摂津守滋野朝臣貞雄卒す。貞雄は右京の人也。父従五位上家訳、延暦7年(798)に伊蘇志臣を改めて滋野宿祢を賜う。弘仁14年(823)に滋野朝臣を賜う」とある。そして、この滋野朝臣貞主を祭神とする駒形大重神社(御所市大字楢原字石川)は、葛城山の東麓の九品寺(くほんじ)北方に鎮座し、祭神は二座で一座は不詳、一座は滋野貞主である。 明治40年(1907)に駒形神社を合祀したもので、大重神社は東方の字田口に鎮座していたという。大重神社は「延喜式」神名帳の「葛城大重神社」とされ、シゲノサンともよばれるため「神社明細帳」は『文徳実録』にみえる滋野朝臣貞主を祭神としている。 |
|||||||||||||||
| また、九品寺は山号戒那山。浄土宗、本尊の木造阿弥陀座像(像高123p)は平安後期の作で国の重要文化財に指定されている。本堂は明和5年(1768)の再建、寺伝では行基の開基で、もと戒那千坊に属したという。永禄年間(1558〜70)弘誓が浄土宗に改宗、中世に勢いを振るった楢原氏の菩提寺で、同氏一族の墓碑がある。 | |||||||||||||||
| 葛城山東麓に標高320mの丘尾上に楢原城跡がある。東・南・北は深い谷で、尾根は東方へ240m余り細長く突き出て、段状に七つの郭が連なっている。台地の東北方に深い谷を隔てた小山の頂上は、平地になっていて連郭があり、台地の東南・北に全長500mに及ぶ空掘の跡をとどめ、西端に三重堀跡がある。 | |||||||||||||||
| 楢原氏は大和六党の一つ南党で、すでに鎌倉時代末には伴田氏とともに春日若宮の祭礼に流鏑馬を奉納している。 | |||||||||||||||
|
(平凡社『奈良県の地名』より)
|
|||||||||||||||
| 貞主は、第53代淳和天皇の代、儒臣にして文章生より出身し、諸官を歴任した。天長4年(827)に献上した『秘府略』1,000巻を著し『経国集』20巻を撰進し、天長8年(831)文章博士、承和9年(842)参議に進み、嘉祥年中(848〜50)正4位宮内卿兼相模守となる。仁寿2年(852)の『文禄実録』に大外記名草宿祢安成に滋野朝臣の姓を賜るとある。その年2月4日68歳にて卒す。その居宅を西寺の別院に寄贈し、慈恩院と名づけられた。 | |||||||||||||||
| このような滋野氏の子孫で京にいた者は、朱雀天皇の時代に中務大丞滋野春仁、一条天皇の時代に大外記滋野善言などがいる。 | |||||||||||||||
| この頃、新張牧奈良原(長野県東御市新張)の聖地に、智光山三光院長命寺が密教の修行道場として栄えた。その寺の上人は永祚元年(989)6月に示寂している。また大日堂の大日如来地蔵尊は天平元年(729)奈良の楢原氏の菩提寺九品寺開基と同じ行基菩薩で北国辺土庶民教化のため巡回の際、一刀三礼の勤修をもって彫刻された木造で霊験著しく、未完の秘仏で国宝的価値が充分ありと昭和2年に文部省古社寺調査事務主任塚本慶尚氏は折紙を附された尊像であるが、残念なことに寛保2年(1742)の満水の時に救出の際、一方の肩を損像してしまった事である。また奈良原の地は歴史的に古く古寺跡・奈良京跡が残り、現在も楢原姓の苗字を持つ人達が30余軒おられます。 | |||||||||||||||
|
|||||||||||||||
| 前記系図の恒蔭は『日本三代実録』によると、貞観10年(868)1月16日に大外記より従五位下信濃介に任ぜられ、その子恒成は正六位下因幡介で、清和天皇の皇子貞保親王の家令となり、妹は貞保親王に嫁いだ、恒成の子の恒信は正六位上左馬允であったが、天暦4年(950)2月に信濃望月牧監となって下向し、幸俊と改名した。 | |||||||||||||||
| これを系図に示すと次の如くになる。 | |||||||||||||||
| その他の国々の滋野氏は、次の人々が文献に見える。 先ず紀伊の人で名草豊成・名草安成の両人が滋野朝臣を賜っている。元来は九州の宗形氏族の者が、紀伊の名草直氏の女をめとり、その子孫は母子によって名草宿祢となり、滋野朝臣になった。 |
|||||||||||||||
| また、鎌倉時代の人で、延慶3年(1310)に相模国(神奈川県)の人に滋野景善。元弘元年(南朝年号1331)に能登国(石川県)の人に滋野信直。元徳3年(北朝年号1331)に出羽国(山形県)の人に滋野行家などが見え、室町時代永享9年(1437)には日向国(宮崎県)に山伏滋野氏権津師定慶坊がいる。 | |||||||||||||||
|
(日本家系協会滋野一族より)
|
|||||||||||||||
|
|||||||||||||||