(2)海野氏とその子孫について
 
 はじめの海野の地は、ウムナ・ウムノとなって、海野の文字を用いられ、海野郷といい、鎌倉時代に入って海野庄となったという。
 
 奈良時代の初期、天平10年(738)頃に、正倉院御物の麻布に「信濃国小県郡海野郷」と墨書があり、この頃貢物が海野郷から信州の牛か馬の背によって、はるばる奈良の都にもたらされたことを立証する資料である。
 
 さて、海野の祖と伝えられる幸俊から幸氏に至る系図は次のようである。
 
 前記系図の2代海野小太郎幸恒信濃守の長男は海野氏を継ぎ、二男直家は祢津氏、三男重俊は望月氏と分立し、海野氏と並んで信州の雄族で、現地にあっては、相当な勢力になって支族も広く分出し、信州・甲州のみでなく、近江・甲賀にも進出して一勢力となったほか、各地の諏訪神社等の神官となった者もあり、出家して寺を開基して、諸国に赴いた者もある。
 
 孫の幸真は海野4代を継ぎ、6代幸家の弟幸房は下屋将藍として三原(群馬県妻恋村)に住し、その子孫は代々修験者となって、西部吾妻の地を開拓して、その地の草分けとなった。また、その孫は鎌原氏・大厩氏・西窪(さいくぼ)氏と西上州方面に支族が分出している。
 
 8代幸親は、保元2年(1157)保元の乱に源義朝に属し、京都に上り300余騎の左馬頭で参加する。
元暦元年(1184)に木曽義仲に味方して源範頼・義経と戦い粟津にて戦死した。その長男幸広は、治承5年(1181)6月14日父と木曽義仲に従い、白鳥河原に布陣し、横田河原の合戦に参加する。平家方城資永軍敗退、寿永2年(1183)越中倶利伽羅峠の戦いに源行家等と志雄山に向かい、同年10月水島の戦いの折、矢田義清と共に先鋒の将とし、平家の先鋒平教経と戦って討ち死にした。
(源平盛衰記より)
 
 
   
横田河原周辺図
倶利伽羅合戦図
水島合戦場
 
 二男幸長は、勧学院の文章博士・俗名蔵人通広、出家して南都興福寺で学祖の時は、最乗房信救といい、木曽義仲が挙兵した頃は大夫坊覚明と称して、その謀議に参じ、木曽没落の後は比叡山に上り、嘉禄元年(1225)71代慈円僧正の弟子となり円通院浄覚と改め、その後源空の弟子となって西仏と改名、のち親鸞に従い、親鸞の行状記を著し、その子の浄賀に授けさせ、康楽寺を開基した。仁治2年(1241)1月28日、85歳で死去した。
 
 三男幸氏は義仲の子清水冠者義高に従い、義仲死後、鎌倉に下向したが、義高に仕えて頗(すこぶる)る忠勤であったため、却って将軍源頼朝の御感を得て、海野の本領(太平寺一帯、現在の白鳥台団地)を賜り、兵衛尉に任ぜられた。当時日本で弓の上手といわれた8人の内の1人であるとされている。
(吾妻鑑より)
 
 鎌倉幕府の記録である『吾妻鑑』には、木曽義仲没落後、覚明のことをしばしば記している。これは覚明の才能を源頼朝が充分にしっていたため、覚明を高く評価していたことの現われではなかろうか。建久元年(1190)5月、頼朝が甲斐源氏の一条忠頼の追善供養を行ったときに信救得業(覚明)に導師を務めさせている。4年後の建久5年10月には、平治の乱(1159)に義朝(頼朝の父)に殉じて死んだ鎌田正清の娘が旧主義朝と父の正清の菩提のために如法経10種供養を行ったとき、願文の原稿を書いたのが、この覚明であった。つまり信救はみごとに名僧として鎌倉の連中を手だまにとっていたようである。この子・孫が次図のごとく各地において浄土真宗の寺を開基して、その子孫が現在までも続いている。
 
流鏑馬の図
徳音寺の義仲公像(木曽日義村)
 
 
 前記の諸系図にある会田・塔原・田沢・刈屋原・光などは信濃の中信にある地名で、その子孫が海野氏の支族である。そして鎌倉時代から南北朝時代にかけて、信州のみならず各地に支族が移住し分出している。
 
 覚明に継いで、末派約3,000ケ寺の大多数を持つ曹洞宗大洞院を開基した如仲天ァ(じょちゅうてんぎん)は海野氏で、貞治4年(1365)生れ、5歳のときに母を失い、9歳にして伊那谷上穂山(うわぶやま)(現在の駒ヶ根市天台宗光前寺)恵明(えみょう)法師に従って法華経を学び、感ずるところあって禅門を慕い、上野吉祥寺(現在の群馬県利根郡川湯村臨済宗鎌倉建長寺派)大拙祖能の門に入って剃髪した。のち越前(福井県)坂井郡金津町御簾尾平田山瀧沢寺開山梅山聞本(ばいざんもんぽん)の許に投じた。その後江州に南下し、琵琶湖の北辺呪山に入って洞春庵を構えて悟り、それから修行に専念すること3年に及んだ。再三にわたり閑静安住の地を見つけ出されてしまったので、遠州周知郡天宮神社神主の中村大善とその宮座衆を中心とする天宮村及びその周辺の農民たちを本願の施主として資材の寄附を仰ぎ、門下数人の禅僧を率いて協心力栄、応永18年(1411)に橘谷山大洞院(静岡県周智郡森町橘)を開創し、その後正長元年(1428)に梵鐘を鋳造している。また更埴市桑原山龍洞院を如仲禅師が応永年間に桑原郷に泊まり、北山に登ったところ、西北に龍の臥するような峰があり、奇勝絶景の地であるとして寺を建て、龍燈院と名づけたのに始まるという。
(『日本同上聯燈録』より)
 
 
 前述した如く、海野幸数・持幸父子はおのおの鎌倉で元服し、幸数は上杉憲基を烏帽子親とし、また持幸は足利持氏から一字を拝領しており、関東管領家に属し、船山郷(現在の埴科郡戸倉町・更埴市)の地頭御家人であった。その子氏幸は、応仁元年(1467)村上氏と戦い戦死する。その子幸棟を経て棟綱に至る。天文10年(1541)5月13日隣国甲斐の猛将武田信虎は、村上義清をして海野氏を攻略せんとし、同月15日武田・村上・諏訪頼重の連合軍と海野合戦のとき、棟綱の弟左京大夫幸義は討死した。幸義の遺児らは武田氏に仕えたが、棟綱と真田幸隆らは上州に逃げ、箕輪城主長野信濃守業政に身を寄せ、天文15年(1548)に棟綱死す。幸隆は天文12年武田家臣として岩尾城代となる。
 
 幸義の子幸貞は武田信玄に仕えて三河守と称す。また幸義の娘は、信玄の二男信親(のちの龍宝、盲人)の妻となった。永禄11年(1568)三河守幸貞らは越後の上杉謙信に通じる事が露顕して、誅せられ、龍宝は海野氏を継ぎ80騎の将となる。
 
 天文10年に、信州を遂われた海野棟綱は、上野に移って箕輪の長野業政の許に来たが、既に以前より長野原には、同族の羽尾氏がいた。『東艦』によれば、鎌倉時代の仁治2年(1241)に海野幸氏と武田伊豆入道が、上野三原庄と信州長倉保の境堺を争っていることが見えるので、海野氏の領地が上州にあり、一族でここに分住する者のあったことが考えられる。
(『加沢記』『羽尾記』による)
 
 永禄のはじめごろ(1563)より幸世以下の兄弟は、上州岩櫃城主斉藤憲広に仕えていたが、永禄6年(1563)10月斉藤氏滅亡後は甲斐の武田に属した。長兄の道雲は、11月末大戸城に逃げている。そして永禄9年に幸光・輝幸兄弟は岩櫃の城代となり、武田氏に属し真田幸隆の配下についていた。長門守幸光は、修験道に帰依して福仙院と号し、金剛院の法弘法師に師事していたという。弟の輝幸は強弓をひき、荒馬をこなし、兵法に秀で海野能登守と称していた。天正9年(1581)には沼田の城代になっているが、些細なことから真田昌幸と不和になり、小田原北条氏に組しているとして、11月末真田氏の攻撃を受け、21日に幸光は討死、歳75才、輝幸も沼田城を脱して、迦葉山(がしょうざん)に入ろうとしたが、22日に息子の幸貞と共に刺し違えて死んだ。ときに輝幸は73才、幸貞は38才という。

幸光の法名は、雲林院洞雲全龍といい、羽尾北小滝にその墓がある。幸貞の次女は祢津元直の妻となり、真田信幸の乳母として真田家に仕え、のち剃髪して貞繁尼と称した。その弟太郎は天正9年に僅か8才であったために助命され、長じて久三郎といい、姉婿に養育されて原郷左衛門と称した。元和元年(1615)大阪夏の陣で討死したが子孫は松代藩士となり、今も存続しておられます。
 
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