(3)各地の海野氏について
 
 岩櫃落城後に僧となり、吾妻郡岩下村内野の天満宮別当となった海野氏がある。南北朝時代の海野弾正忠善幸(幸義)の子、法印権大僧都卓誠以来菅原神社の社掌祢宜として現在に及び、現当主海野恭斎氏は吾妻町岩下に居住している。群馬県の電話帳で海野家が64戸ある。
 
 甲斐に残った海野氏で、山梨郡勝沼村に海宝院を開いた流れがある。京都の醍醐三宝院の号を賜るよう運動したという伝えがある。現当主海野金作氏は今も勝沼町におり、遠祖は左京大夫幸義であるという。山梨県の海野家は136戸ある。
 
 「三つ蝶」「雁金」「州浜」の家紋を伝える流れもあり、現当主海野武幸氏は流山市に居住、千葉県に海野家が233戸ある。
 
 常陸の国(茨城県)に海野氏がある。来歴は不明であるが、戦国時代の永禄の頃、山野尾城(または串形城ともいい、多賀郡十王町友部にあった)の城主小野崎義昌の家中に海野安太郎あり、義昌は佐竹義昭の子で、小野崎成通の養子となったが、その際佐竹家から附入として来たという。天文13年に信州から上州に移った海野棟綱の一族が、更に常陸に赴いたともいわれている。また、同じ日立市に、代々五郎兵衛を襲名する家もあり、当初は「六文銭」の紋を使用し中途から「七曜」に改めたという。現当主海野喜七氏。日立市に120戸、水戸市に126戸、勝田市に76戸、那珂町に155戸、茨城県には海野家が721戸もある。
 
 陸奥(青森県)の三戸郡市野沢の下洗にも海野氏がおり、三戸南部氏と共に、この地に来て「笹りんどう」の紋を伝えて今におよび多くの海野氏(25戸)がおられます。
 
 なお、福島市五月町の浄土真宗康善寺略縁起によると、13代宗覚のとき、上杉定勝の臣古河善平衛尉重吉が、郡代に任ぜられ福島に住し、水田開墾に財産をつかい果たしてなお不足で、罪を藩公に詫びる覚悟であったが、子孫を絶つことになれば、祖先に対して最大不孝であるとし、兼ねて帰依せる宗覚と計り秀安寺を今の福島に移し、信州塩崎康楽寺の2男重覚を迎え重吉の第3女おまんと結婚させ第14代を継ぎ、康善寺と改称し、これ以来海野姓を名乗り、現在第24代海野篤氏がいる。当地に30戸位の海野家がおり、山形県の明善寺、北海道の札幌に覚英寺の檀家に海野家がかなりおります。ちなみに電話帳で調べると、北海道に121戸、岩手県に24戸、秋田県に6戸、福島県に101戸、山形県には150戸、栃木県に57戸、神奈川県に250戸。
 
 前にも記した海野氏の系図に、幸氏の子矢四郎助氏、その子弥兵衛泰信・泰勝・泰秀・泰頼を経て、その子弥兵衛本定(元定)は、諏訪氏の出である安倍大蔵元真の娘を妻とし、その子弥兵衛元重は寛文5年に病死したという。この子孫は代々駿河の井川郷に住したと伝えられております。
 
 この静岡県静岡市西豊田小学校玄関脇に「せいくらべ」の童謡碑がある。この童謡の作者海野厚は、本名厚一といい、曲金の大地主海野伊三郎の長男として明治29年8月12日にうまれ、早稲田大学卒、大正14年5月20日28才で没した。長頸子と号し俳句も作つた。特に「おもちゃのマーチ」「ろじのほそみち」「からくり」などは、この人の作として有名である。
この碑は、昭和36年11月3日建てられた。この歌は大正8年ころの作で、作曲は中山晋平である。奇縁というか、この作曲した中山晋平の生れ故郷が長野県中野市の間山にも多くの海野家が36戸もあり、毎年海野家の先祖祭りを執り行なっている。そのほか長野県には199戸の海野家がある。
 
 現在静岡市に1,660戸を中心にして、静岡県には2,415戸の海野家に及んでおります。
その他に東京都に554戸、埼玉県に267戸、大阪に157戸、兵庫県に64戸、愛知県に197戸、三重県に184戸、和歌山県に93戸、岡山県に100戸、宮崎県には255戸、の海野家があります。
 
 おわりに、海野氏を研究して、まだ日も浅く、これからも調査・研究を続けてまいりますので、いろいろと御教示いただければ幸であります。
 
康楽寺(長野市篠ノ井塩崎)
 
海野物語 目次   海野氏について  
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    海野氏と寺院 海野氏系図