2009年4月でなかよしクラブは創立30周年を迎えました。
職員たちの、熱くやさしい思いの一部が文章になっています。是非ご一読ください。
古い歴史が詰まった段ボール箱
古い歴史が詰まったダンボール箱があります。その中に、1979年度の手帳が入っています。4月のところを開くと、私の変わらぬ字で「5日(木)11:00より学童始まり・PM5:00より第1回保護者会・その後、阪田さん宅にて打ち合わせ」とありました。翌5日は「入学式」になっています。昔の写真を思い出しました。保護者の小堀さんの司会で、「始まりの会」をやっているのがありました。子どもが7人写っていました。その時が「なかよしクラブ」の誕生の時であり、私がこのなかよしクラブの指導員になった、30年前の第1歩でした。
スタートした時は、子どもは少なかったものの、学校の直ぐ近くの場所でしたので、学童保育所がある事を知り、少しずつ子どもたちも増えていきました。1年目で1番多かったときは、20名位だったと思います。その年すでに、おさむにい・まっちゃん・でかにいと、5年生の男の子も入ってきました。その子たちはもう、41歳になっているんですよね。
先日、なかよしの非常勤の指導員になってくれた方が言っていました。我が子を保育園に預けるために、近くの保育園を訪ねたところ、働く場所が「なかよしクラブ」なんですと話すと「私の子どもも行っていたのよ。いいところだからだいじょうぶ。」と言われたのだそうです。「それも2ヶ所行って、2ヶ所とも言われたんですよ。」と、私以上に喜んで話してくれた方がおりました。思いもかけず、いろいろな所で出くわす出会いに、やはり、長かった歴史を思います。そうそう、卒所したOGが親となり、2代続いて「なかよし」に入ってくる時代になりました。不思議な喜びと、めぐり会いを感じています。こればかりは、この仕事をやりつづけなければ向かい合えない出来事ですから、私自身の宝物のような出来事です。いっぱいの子どもたちが今、全国いたるところで、親となり、子育てに励んでいるであろう事、自立する為に頑張っている事を考えると、とても嬉しくなってきます。幸せなことだと思っています。
10年前、20周年誌を書くにあたり、私はそれまで続けてこられた中に、子どもとの結びつきを感じたこと。保護者の、子どもの為ならどんな事もいとわない力強さを感じた事。私が辞めざるを得なくなるかもしれない、社会の歪みを感じた事。学童保育の重要性も含めて書かせてもらいました。それから10年。これもまた、大きな節目でした。社会の仕組みは益々女性の労働力を確保しなければならず、また働かなくてはならない社会にもなってきました。学童保育の必要性は着実に社会に浸透していきました。そして、7人から始まった「なかよし」も、100名を軽くオーバーするほど必要性の高い施設になってきたのでした。そしてこの間も、大きなことが二つありました。
「なかよし」は開設時から、6年生まで子どもたちが居られることになっていました。児童館的なものがなかったので、必然的に「なかよし」が、そのひとつの役割を担ってきたと思います。私もその必要性をずっと思っていました。子どもたちにも、「いつまででも居ていいよ」と言っていました。それが、5年前、3年生までで100名を超える状況となりました。学校増設工事が始まり、校舎内に移転することにもなりました。公的施設になることから、やむなく町田市の基準に合わせ、3年生までの入所となったのでした。緊急保護者会総会で決定しました。4年生になったら行かれなくなってしまう子どもと、親の不安の大きさを、あの時の辛さを覚えています。そして、子どもたちの前で謝った言葉を、私は今も覚えています。「6年生まで居ていいんだよって、嘘ついてごめんなさい。」学童保育って何だろうと、ぐらりと思い続けた時でもありました。
「先生、なかよしが無くなるかもしれないってどうしてなの」。いっぱいの電話をいただきました。うわさはいっきに広がり、設立時代の方々からも連絡が入りました。「指定管理者制度」と言った内容を電話で話しきるのは難しく、土曜日の夜に時間をとる約束をしました。そしてその時、懐かしい顔ぶれの方々がいっぱい集まってくれました。でもそれは、懐かしさを感じるのではなく、重い緊張感を感じた時でした。みんなで作り守ってきた「なかよし」を、大切に思っていた皆さんの顔でした。「できることなら、なんでもするよ」と、いっぱいの署名用紙を抱えて帰っていってくれました。その後届いた署名の数には、ビックリでした。いつまでも変わらぬ暖かい重みを感じました。そんな力が、再度「なかよしクラブ」を続けていける力になったのだと思っています。ありがたい、ありがたい歴史です。
30年前、学童保育とは何なのかも理解せず、この仕事に就きました。そんな私にも、二つの夢が見つけられるようになれました。ひとつは、この仕事で定年を迎えることです。協同保育から始まり、私も苦しい生活でした。家庭を持ち、子育てをし、男として将来を見据えた生き方をするには、辛い時もありました。それでも、出会えた皆さんに支えられながら、ここまで辿り着くことができました。この最高の宝物を大切に、こんなにも充実した人生を続けられている事に感謝できる生き方をしたいと思っています。
そしてもうひとつは、学童保育が国の制度として、益々充実される運動を、続けていきたいと思っています。全国で頑張っている指導員は、やはり貧しすぎます。働く労働者の働く権利を守っている学童保育の指導員が、夢を持って働いていける仕事にしていきたいと思うのです。そのためには、まだまだもっと、頑張らねばと思います。確かに30年。重みのある長い歴史です。でも、まだ30年。ひとつの区切りとして、これからの弾みにしたいと思います。よろしくお願いします。
北島 弘昭
30周年おめでとうございます
なかよしクラブが20周年のときに仲間入りさせてもらい、あれからもう10年ですね。本当に早いです。昨日のことは忘れている事が多いのに、なぜか当時のことはよく覚えているものです。「わたしはトイレにはいるのをがまんしています。ぎりぎりまで、がまんしているのでもらしてしまうこともあります。がまんしないではいれるトイレをはやくつくってください。」「トイレにはいると、くさいし、むしがいてきもちわるいからいやです。」と子ども達が町田市へ要望として手紙を書いて対市交渉にでかけたことも懐かしいです。いまどき汲み取り式のトイレとはそのこと自体も驚きでした。こどもたちの願いは届き、水洗トイレを作ってもらうことができ子ども達も大喜びでした。
誕生カードをつくりみんなで誕生会をしました。毎回有志による出し物のコーナーがあり、ピアノやリコーダーの演奏、歌を歌ったり、お笑いやマジックショーなど芸達者なこどもたちが活躍してくれました。
おやつ作りにもこどもたちが喜んで参加しました。季節の行事にあわせた取り組みのかしわ餅、月見だんご、おはぎ、リースパン、バレンタインパン、いちご大福作りなどは声をかけなくても積極的に参加していました。手作りのものは、おやつの時間に食べないで「わたしお腹いっぱいだから持って帰ってもいい?」と食べたいのを我慢しておみやげに持ち帰る子ども達でした。次の日「きのうのおやつみんなでわけてたべたんだよ!おとうさんも、おかあさんもおいしいっていってたよ!」と嬉しそうに話すこどもの笑顔がありました。勤労感謝の日のクッキーも思いを込めて上手に作ってプレゼントしていました。
5年前から二つの施設で保育を行うことになりました。学校内の施設は目の前が校庭ということでおやつ後はすぐに校庭に出て思い切り遊べるとてもよい環境に恵まれました。卒会式も合同で行うようになり、「なかよしバザー」も「なかよしまつり」になりこども中心のおまつりに変わりました。自信に満ちた笑顔で店番をする、いつもとは違う子ども達の姿に出会えました。
「一輪車、こま、おてだま、けんだま」は自分との戦いです。こつこつと地道に練習を積み重ねないと上達しないのですがこどもたちのやる気、集中力は大変な物で(がんばって練習すると必ずできるようになる!)と毎回こどもたちから教えられています。
OBの子ども達は、校庭から手を振ったり声をかけてくれたり高学年になると「よこせん!」といいながらわたしのそばに来て背比べをして「あと5センチで追い抜ける!」「あっ、わたし勝った!!ほら、追い抜いた!」「よこせん、ちっちゃくなったね?」と誇らしげに走り去っていく子ども達をみると複雑な気持ちになりますが、でもなんだかとても嬉しいです。中学生、高校生になっても「ねえ、覚えている?!」と声をかけてくれます。子ども達も覚えていてくれたことが嬉しいです。子ども達や保護者の方にいろいろと教えていただくことはもちろん、元気や勇気も頂き仕事の励みになっています。これからも、子ども達が安全に居場所を確保でき、保護者の方が安心して働けるように、楽しく魅力のある学童保育を目指し、体力の続く限りこの仕事を続けて行きたいと思います。
横山 富士子
なかよしクラブ30周年記念誌より