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ドクッ、ドクッ。 規則正しいリズムで流れ出す、赤い液体。 斬り付けられた胸の傷に手をやり、泣き笑いのような表情を浮かべて彼女は言った。 「ねぇ、どうして?痛くないの……。何も、感じないの」 ……どうして? 私、どうにかなってしまったの? お願いだから、教えて下さい。 ――兄様……。 静かな部屋だった。 開け放たれた窓からは、涼しげな風と共に白い月明かりが入って来る。今日は、白の月の日。色のついていない月の日。つまりは、新月である。 部屋の住人は何かを確かめるように、まずは手を、そして自分の三つ編みにされた長い髪を見ると、縄のような(それにしては細く、取っ手がついているが)物を持つとそっと部屋を出た。 そのまま、ゆっくりと階段に向かう。 階段の下からは、淡いが光が漏れていた。 それを確認すると、手に持った物を寝巻きの内側へと隠す。 そうして、階段を下りて行った。 「……おやぁ、フェリル。一体どうしたんです、こんな時間に」 下りた先は、何やら実験室のようだった。先ほどの台詞は、そこで試験管を持って何か実験でもしている途中なのだろうと思われる薄紫色のローブを纏った男から発せられたものである。その、眼鏡をかけた優しげな風貌とローブだけを見れば、司祭か何かだと思われるかもしれない。 「……何だか、寝付かれなくて。外に出たらまだ明かりがついてたから、何かなと思ってさ」 「ああ、ちょっと実験を。月の満ち欠けによって、薬の出来が違いましてねぇ。月に魔力がある事は……フェリルの方が知っていますよね?」 「まぁ、な……」 途中で言葉をとぎらせ、止まり木の上で平和そうに船を漕いでいる九官鳥を見る。 「……白の月の日は……。俺達だってタダの人間に戻っちまうんだから。尤も、俺だけかもしれないけどな」 他のヤツラは知らないし、と九官鳥を見つめたまま続けた。黒い鳥は、相変わらず船を漕いでいる。 フェリル、と呼ばれた人物は壁に背中を預けると、実験に夢中になっている男……バティに視線を移した。両手に試験管を持ち、慎重に中身を混ぜ合わせているところである。無事に混ぜ終えて、何だか言い表しがたい青色になっている液体の入った試験管を軽く振ったりしている。 「……今日は、何の薬を?」 「人を、楽にする薬ですよ」 あくまでも、柔らかい口調を崩さずに言う。その台詞を聞いてから、フェリルは壁から背中を離しゆっくりとバティの方へと近づいて行った。寝巻きの内側に入れた物の感触を、確かめながら。 「楽にする、薬?」 「ええ」 先ほど混ぜ終えた液体の色を確認するように、手に持った試験管を明かりに透かしながら答えるバティ。こちらに背を向け、あまりにも無防備な体勢だ。 「どんな人間でも、殺す事が出来る薬です」 それこそ、どんな人間でも心から安心出来るような口調と笑顔で、バティはそう言った。 ……これは一体、どういう事……? 部屋の奥には、お父さんがいて……ドアの前には、お母さんと……知らない、男の人? ――まだ幼いリオには、目の前の光景が何を意味するのか、すぐには理解出来なかった。 だから、何もするつもりは無かったし、第一何をすれば良いのかも分からなかった。ただ黙って、母親を凝視していた。 ……いつもあたしがこうやって勝手に部屋を抜け出したら真っ先に怒るのに。何で何も言わないの――? ――珍しい。 それが、リオが最初に持った感想だった。 「あちゃあ。見られちゃいましたねぇ?まぁ、どうせ数に入っている事ですし、手間が省けましたが」 聞き覚えの無い、場違いなほど能天気な声。聞いた事が無いという事は、母親の背後にいる長身の男の声なのだろう。重ねて、途切れ途切れの母親の声が聞こえる。彼女の首に、細い紐のようなものが巻きついているのが一瞬だけ、見えた。 「……リオ……。逃げ……て……」 ……ふーん。 こういう時だけ、母親面するんだね。 あたしが普通じゃないって分かってから、名前を呼んでくれた事も無かったクセに――! 「おやおやぁ?」 リオを見つめ、男が楽しそうな声を出す。 「面白いですねぇ、貴女」 言うと、無造作な動作でひょいっと両手を持っていたものから離した。それと同時に、母親の身体がゆっくりと床へ崩れ落ちる。が、それを見ていた者は誰もいなかった。リオは男を見ていたし、男はリオ以外目に入っていなかったから。 「初めて見ましたよ。これは、殺してしまうのはいささか勿体無いですねぇ。……両親は 全く悪意の感じられない声がそんな事を言ったのを聞いたのを最後に、その夜のリオの記憶は暗転した。 「……というわけでして、私が殺しちゃったんですが」 その後、君が暴走しちゃいましてねぇ、仕方が無いから眠らせて連れてきたんです、と男は満面の笑みを浮かべて言った。 あれから、丸一日。 リオが目を覚ますと、まるで見知らぬ場所にいた。今までいた部屋とは比べ物にならないほど小さな部屋。粗末なベッド。 だが、ドアも窓も開いている。 何よりも、リオにはそれが嬉しかった。 彼女が目を覚ました事に気がついた男は、昨日の夜の事を話して聞かせた。リオの両親を自分が殺したのだと、悪意の欠片も見て取れない、虫も殺せないような優しい笑顔で。 「……悪かったですか?」 そんな表情のままこんな言葉で締めくくる辺り。どうもマトモな神経の持ち主では無さそうである。相手はまだ、年端も行かぬ小さな子供なのだ。その子供に「君の両親を殺しちゃった」などとは言わないだろう。絶対に。 「……別に。何とも思ってないよ」 「おやおや。それは良かった。泣かれたりしたらどうしようかと思っていたんですよ、本当は」 「……親だなんて思ってなかった。あの人達だって、あたしの事は血の繋がった子供だ何て思って無かったよ。いなくなって、清々するぐらい」 まだ、小さな子供だとはとても思えない、無感情な声。 「いつ捨てられるんだろうっていっつも思ってた。だけど、あの人達はそれも出来なかったの。子供なんていませんよって言うには、あたしは大きくなり過ぎていたし、いなくなったなんて言ったら、あの人達の立場に関わるから。このままだったら、貴方が殺さなくてもいつかあたしが殺してた」 「そうですねぇ。君にはそれが出来るだけの力がありますから」 あっさりと肯定し、一呼吸置くと、 「そこまで言うのなら。別にその家の名前に、未練は無いでしょう?」 「……覚えていたくないよ」 「はぁ、それは良かった。いや、君、面白そうだから連れてきちゃったんですけどね。本当は貴女も仕事の数に入っていたんですよ。もう報酬はもらってしまいましたし、どうしようかと思っていたんです。未練が無いのなら、別の名前を名乗っても良いですよね?」 ついでに、性別も偽ってくれると最高なんですが、とバティーラ=ドゥエインは続けた。 「……何故、わざわざ今日を選んだんです?よりにもよって、白の月の日を」 地下にある実験室。魔法の火が灯る部屋の中で、二人の人間が対峙している。長く白い髪を三つ編みにしたフェリルと、そしてもう一人は、柔らかそうな金髪を持ったローブを纏った男……バティである。フェリルの手に握られた細いワイヤーのような物以外に二人とも何も持っていない。先ほどまでバティの手に握られていた試験管は、中身ごと彼の足元に落ちて粉々に砕け散っていた。 「タダの人に戻れるからさ。他の日じゃあ、あっさりとカタがついちまうからね」 「それはまぁ、その通りですが。しかし、変身出来ないとなると貴女に勝ち目はありませんよ?」 それを聞いて、フェリルは軽く笑った。 「勝ち目?そんなモン、最初っからありゃしねぇよ。大体アンタは死なないんだろ?」 「いいえ」 やんわりと、だがきっぱりと。バティはその言葉を否定した。 「確かに、私は歳は取りません。それは、フェリルも知っての通りです。だけどそれは、老衰で死なないというだけであって別に死のうと思えば死ぬ事も出来るし、殺される事だって出来ます。ただ私には、今殺されるわけには行かない理由が、ありますから。……例えそれが、フェリルにだとしても」 「……え?」 意外な一言だと、思った。およそ、この男らしくない、少しは血の通った人間だと思わせるような台詞だと。 そんな思いが表情に表れたのだろう。バティは少しだけ、笑顔を作った。何時もと違う、少し寂しそうなその笑顔も、何処かこの男には似合わない。 「……いつか、こういう事になると思っていました。いくら子供だったと言っても、私のやった事に対してどういう気持ちを抱くかぐらい、分かります」 笑顔のまま言った、この台詞も似合わない。 「私はね、フェリル。貴女に、自分を殺してもらうつもりで連れてきたんです。フェリルを殺した後に」 何時も通りの、淡々とした言い方。 だけど、初めて聞く、声。 フェリルの知っているバティには、似合わない、声。 「別に、貴女がライカンスロープじゃなくても良かった。私を恨んでくれる人物でありさえすれば」 感情など。 らしくない。 ……壊れていく。 ……人形が、壊れていく。 そう思った時、急に恐ろしくなった。 壊れた人形の後に残ったものは、生身の人間だったから。 フェリルの、リオの仇の人形は、もう何処にもいなかった。 目の前にいるのはただ、生きる事に疲れながらもひたすらに生き続けるしかない、一人の人間だった。 人形の糸は切れても、人間は殺せない。 それが、リオの限界だった。 そう悟ると、彼女は試験管立てから試験管を一本取り出した。中には、血のように赤い液体が入っている。 「……人を殺す事が出来る薬……。どうして、こんな物を作ってる?普通の毒薬じゃいけない理由が?大体、何に使う?仕事以外で何か……?」 バティの裏の顔は暗殺者。リオの両親を殺したのも、仕事の内だったのだ。依頼されたから、殺した。彼にとっては、それだけの事だ。何故殺して欲しいのか、そんな事は彼にとってはどうでも良い事である。彼にとっては、どうやったら人間が死ぬのか、それだけが興味の対象なのだから。 精神が壊れたあの日から、それだけを考えて生きてきた。 ……いや。 それだけを考えて生きてきたから、精神が壊れたのか。 それすら、彼にとってはどうでも良い事だった。 だから、リオへの返答も、こういう返事になる。 「その通りです。人を殺すための薬ですよ」 ……そう。 「フェリルを殺すための、薬です」 自分への、答えでしかない、返事。 リオには、不可解でしかない、返事。 「……俺を……?」 バティの所へ来て以来、フェリルと名乗っていたリオにはこう返すことしか出来ない。 「いいえ。私の双子の妹の事です。フェリル=ドゥエインというのは、本当は妹の名前なんですよ」 ますます、リオには意味が分からない。大体、妹を殺すために薬を作るなど、そこには一体どんな意味があるのだろう? 「妹は、不死にされてしまったんです。もう、二百年ぐらい、生きていますか。もちろん、私もです。不老ですから、慎重に生きなくてはならない、という違いはありますけどね」 ……不老と不死。 わざわざ言い換えたのが、気になった。 バティの、薄い青の瞳は真っ直ぐに隣の部屋へと続く扉を見ている。 リオがここに来てから、一度も入った事の無い部屋の扉を。 「私は、死のうと思えばいつでも死ねる。しかし、妹には、それが出来ません。不死って言うのは、そういうものでしょう?だけど、不死だからって歳を取らないって事は無いんです。歳を取らずにいるという事は、言葉としては不老でしょう?」 「……不老と、不死……」 ただの、言葉の違い。 言われるまでは、そう思っていた。 しかし、言葉が違うという事は、そこに込められる意味も異なるという事では無いだろうか? ……死ぬ事は簡単に出来るが、歳を取る事は出来ないバティ。それはつまり、不老だが不死では無い、という事だろう。 ……ならば。 ――不死だからって、歳を取らないという事は無いんです、という言葉の意味は? 「……人を、殺すための、薬……」 途切れ途切れに言ったリオの言葉を聞いて、バティは扉を見つめたまま、答える。 「そう。それが、答えになります」 分かったようですね、と小さく言うと、ぽつりと一言。 「この中にいる妹は、二百年間歳を取り続けているんです」 ……貴女の名前を授けた少女が。 「私達を、殺してくれるようですよ」 その顔に浮かぶのは、普段通りの優しい笑顔。 「彼女が、貴女が眠る事が出来る方法を探してくれるそうです」 貴女を一人に出来ない、私の代わりに。 「……眠りにつけたら……私は、あの男を許せると思いますか?」 自分を迫害した両親を、憎むに憎みきれなかったリオのように。 ふふっと小さく声に出して笑い、ゆるゆると首を振る。 「そう。そうですね。そんな事は、あちらで彼に会ってから考える事にしましょうか」 それまでは。 一緒に、この時を。 ずっと、ずっと――。 |