特派員報告8
JHO・DAIGIN

平成24年02月25日(土)

 どこの国に行っても、楽しみなのは食べ物ですが、日本という国はまるで食の博物館のように、居ながらにして世界中の料理が楽しめる珍しい国です。和洋中と言って食事のジャンルは、和食、洋食、中華の大きく三つに分類されています。洋食の代表は長い間フランス料理とイタリア料理でしたが、今ではスペイン料理、インド料理、タイ料理、ベトナム料理、ブラジル料理、台湾料理、韓国料理…と何でも揃っています。

 料理だけ見ると国際国家ですから、外国人に対してよほどフレンドリーな国かと思うと全く違うので注意が必要です。町で日本人から話しかけられることはほとんどありませんし、こちらから話しかけると、片手を顔の前でワイパーのように振って見せる謎の仕種をしながら、そそくさと逃げて行ってしまいます。アパートを借りるのも仕事を探すのも大変苦労する、実はとても閉鎖的な国でもあるのです。

 さて和食で最もポピュラーなのは寿司ですが、日本の友人に初めて寿司屋というところに連れて行ってもらった時の驚きは生涯忘れることはありません。店に足を踏み入れたとたん、番犬が吼えるような勢いで怒鳴られたのです。

「ヘラッシャイ!」

「シャ〜イ!」

「シャ〜イ!」

 吼えたのは犬ではなくて、白い半袖の上っ張りを着た店員たちでした。

 最初に聞こえたヘラッシャイという言葉も意味不明でしたが、それに続くシャ〜イ、シャ〜イという叫び声は人間のものとは思えませんでした。包丁を握っている短い髪の人たちが、決してにこやかではない表情で怒鳴るのですから、ひょっとしたら殺されるのではないかと体を固くする私をよそに、友人はゆうゆうとカウンター席に腰を下ろしました。目の前には刃渡りの長い細身の包丁を握った人がいます。私はもっと安全なテーブル席がいいと思いながらも、仕方なくおずおずと隣りの席に着くやいなや、

「ヘ、アガリマチド!」

 再び意味の解らない日本語の怒鳴り声と共に、カウンター越しにぬ〜っとおしぼりとグリーンティーが出ました。どうして寿司屋では客が怒鳴られなくてはならないのでしょうか。私は恐ろしくて、怒鳴られる度にビクッ、ビクッと首がすくむのをどうすることもできませんでした。出されたティーカップは無意味に分厚く巨大なもので、表面には「魚」という文字の右側に色々な漢字を配した模様が全面にズラリと並んでいます。

 グリーンティーを口に運んで、そのむやみに熱い温度に危く唇を焼きそうになったとき、

「ヘ、ナンニシマショ!」

 カウンターの中の男が怒鳴った言葉は私にも理解できました。何にしましょうと注文を聞いているのです。どうやら寿司職人が何かしゃべる時には、「ヘ」という接頭語を付けて怒鳴るルールがあるようです。してみると、店に入ったとたんに言われたヘラッシャイは、イラッシャイという歓迎の言葉だったのでしょう。しかし、シャ〜イ、シャ〜イという若い店員たちの叫び声と、アガリマチドだけは理解できませんでした。それでも友人が注文する度に店員が怒鳴る声を聞いているうちに、寿司屋の店員たちが従っている独特の文法が少しずつ分かって来ました。

 友人がイカ下さいと言うと、

「へ、イカッチョウ!」

 マグロ下さいと言うと、

「ヘ、マグロッチョウ!」

 と怒鳴ります。つまり「へ」は接頭語で、「チョウ」は注文を聞いたときの接尾語なのです。注文したものをカウンターに出すときは、

「へ、イカマチド!」

「ヘ、マグロマチド!」

 店員はそう怒鳴りますから「マチド」は客にものを出すときの接尾語なのでしょう。ここに至って私はようやく「ヘ、アガリマチド」の意味を理解しました。アガリはグリーンティーのことなのです。

 友人は私の寿司も一緒に注文してくれたようで、目の前に出される握り寿司は必ず同じものが二つずつペアになっていました。友人の親切に感謝しながら、私は遠慮なく自分の分を最後まで食べ続けましたが、寿司は二つで一人分なのだということを後から知って、随分恥ずかしい思いをしたものです。そういえば寿司は二人の間ではなくて、友人の真ん前に出されましたし、最初に手を伸ばしたとき、友人は一瞬変な顔で私を見たような気がします。

 お腹がふくれて支払いをしようと立ち上がると、案の定、

「ヘ、オアイソ!」

 という暗号のような怒鳴り声が響きましたが、もう私は驚きませんでした。そして、

「へ、アリガトアシタ〜」

 という声に続いて、

「シタ〜」

「シタ〜」

 例の人間のものとは思えない叫び声に送られて、大変刺激的な寿司屋初体験を終えたのでした。

 後日、築地という魚市場を見学したときも、喧嘩のような怒鳴り声が飛び交っていましたから、怒鳴り声は市場の雰囲気の延長で、魚の新鮮さをアピールする手法として定着したのかも知れません。