特派員報告9
JHO・DAIGIN

平成24年02月28日(火)

 特派員が派遣先の国の物価の水準を知りたいときは、例えばコーラの値段を参考にします。世界中に流通している商品の値段は、ある意味、その国における物の値段の目安になるのです。

 世界の国々を比較すると、近代国家になればなるほど物の値段は合理的に決定されています。値段というものは基本的に需要と供給で決まるものですが、それはおおもとの原材料の話しであって、小売りの段階になると、毎日店頭で競りが行われているわけではありませんから、売れ残って処分価格に変更する場合以外は、仕入れ値に一定の利益と税を乗せて、一旦定価がつけば、店員の裁量で簡単に動くものではありません。

 そういう意味ではアジアの国々はまだまだ発展途上の感があります。消費者も心得ていて、決して定価では買いません。値切って、値切って、たっぷりと時間をかけて交渉したあげく、今日は見合わせるよと背を向けると、売り手が慌てて追いかけて来て値段が下がり、交渉が成立するというケースが頻繁に存在します。結果的に最初の値段の半額よりも安くなったりすると、いったいいくらの利益を見込んでいたのだろうかといぶかしくなります。それが高じれば、そもそもの商品の価値までが疑わしくなって、この国でものを買うときは値切るのが常識になり、ひいては国家の信用度までおとしめてしまいます。

 東洋でも屈指の先進国である日本では、さすがにものの値段は合理的に決められていますから、デパートでもスーパーでも値切る客は見かけません。せいぜい露店商や温泉街のみやげ物店で、大阪のオバチャンと呼ばれる特殊な文化圏の女性たちが、「これ、なんぼにしてくれるん?」と交渉する例が報告される程度です。よほどいかがわしい店でもない限り、近代国家に相応しい価格体系が確立されていると言っていいでしょう。ところがその日本で、目を疑うような看板を目撃したのです。

『スーツ二着目千円』

 紳士服の有名量販店で、これはいったいどういうことでしょう。千円で売ったスーツで利益が出るとしたら、原価は何百円の単位でしょう。とすれば一着目の三万何がしの値段には、とんでもない利益が乗せられていることになります。一着目の値段に二着目の値段が含まれているとしたら、一着だけ買う人は二着目の価格まで負担していることになって合理的な価格設定とは言えません。一着で済ませる人などいないことを前提に二着セットで値段が設定されているとしたら、あたかも二着目が安いかのような印象を消費者に抱かせるのは、決して誉められたことではないでしょう。

 かつて携帯電話で同様の商法が問題になりました。携帯電話会社は、高価な電話機本体の値段をただ同然にする代わり、その分を通話料金で回収していましたが、それでは一台の電話機を長期に使用する人にまで、新規に電話機を購入する人の購入費用を負担させることになるという点が問題視されて改善されたのでした。

 いくら千円でも二着目のスーツはいらないという人がいたとしたら、その人は二着目を買う人の費用まで負担することになるという点で両者は似ています。合理性とは純粋に理屈の世界ですから、全員が二着目を買うという想定で価格設定するのは不合理と言わなくてはなりません。

 例えばスーツ一着三万九千円で二着目千円という値段設定にしても、どれでも二着で四万円という設定にしても、利益は同じです。しかし二着で四万円という値段設定をすれば、一着二万円で売って欲しいという客の要望を排除できません。要するに二着目千円の価格設定は、一度に二着買わせることによって利益の倍増を目論んでいるわけです。

 商品の価値と価格がイコールであることが近代国家における商取引の大原則であるとすれば、二着目千円が堂々とまかり通るようになった日本は、ひょっとすると大いなるアジア返りをし始めた兆候であるかも知れません。