特派員報告11
JHO・DAIGIN

平成24年03月14日(水)

「スプリングファッションをコーディネートするスペシャルセールは、エレガントなレディーからチャーミングなガールに変身するためのキュートなアイテムがラインアップ」

「スポーティーなボディは毎日のトレーニングから。ウォーキングとスウィミングのパーフェクトなマッチングに加え、ナチュラルなカロリー制限でヘルシーライフをゲット。あとはトライあるのみです」

「シャープな走りのカーライフ。しかも驚きのエコ燃費。カラーも4つのタイプからチョイスできて、リーズナブルな価格設定。お近くのディーラーへ今すぐゴー」

「ポイントを集めてゴージャスなランチクーポンをプレゼント。このチャンスにあなたもチャレンジしませんか」

 これはこの国で普通に使われている日本語です。それにしても不思議な言語ですね。スプリングファッションをコーディネートする…と日本語読みで発音されても英語圏の人には伝わりません。もちろんカタカナで表記されていたのでは英語圏の人には読めません。そして当然、カタカナは読めても単語の意味を知らない日本人には理解できないのです。

 街で見かける看板も本当に珍奇です。

『ヘアメイクサロンなおみ』

『ショッピングモール1番街』

『フラワーショップさくら』

『田中フルーツ』

『鈴木クリニック』

 英語圏の人には読めない文字で、英語の発音が日本語読みで記されていて、それを日本人は英語であるかのように理解しているのです。そこで何人かの日本の若者にインタビューして見ました。

「ヘアメイクサロンと美容室とはどう違いますか?」

「美容室って言うとオバさん的っつうか、ダサイ感じする」

「ショッピングモールと商店街とはどう違いますか?」

「商店街っつうと、やっぱ、並んでる商品までダサいっつうか、ぶっちゃけシャッター街って感じっしょ」

 花屋はフラワーショップよりセンスが悪く、田中フルーツに並ぶ高級メロンは田中果物店では手に入らず、鈴木クリニックで治る病気も鈴木医院では治らないのでした。

 島国である日本では、文明は常に海の外からやって来たために、外国語には新奇で進んだ印象があるのですね。表記から受ける印象が少しでも古くなると、新しい外国の言葉に言い換えることで、語感に新鮮な光沢が加わると同時に、耳慣れない外国語を使う人を進歩的と思わせる効果があるようです。

 しかし専門分野で使われるカタカナ英語をヘアメイクサロンと同列には論じることには慎重でなくてはなりません。

 例えば『インフォームドコンセント』などと難解なカタカナ英語を使わずに『十分な説明に基づいた合意』と言えば良さそうなものですが、実は『インフォームドコンセント』という言葉が誕生した背景には、長い間、患者の主体性をないがしろにして来た医師の優位性に対する医学界の猛省がありました。病気は患者のものであり、患者には自分の病気について知る権利があります。どんな治療を受けるかについても十分な説明の下に自分で選ぶべきです。患者の自己決定権が保障されたとき、初めて患者が治療の主体となりうるという思想が『インフォームドコンセント』という言葉の背後には存在しているのです。これを、

「治療は病状も治療方針も十分に説明した上で、患者の納得と同意のもとに進める時代になりました」

 という平易な言葉で表現すれば、

「確かに治療は患者との契約関係ですからね。十分な説明と同意に基づいて行うことこそ訴訟回避の最良の方法です」

 返って来る反応も非常に平易な現実処理レベルのものになりがちですが、

「これからの治療はインフォームドコンセントが大切ですよ」

 と言えば、

「もちろんです。治療の主体は患者であって、医師や看護師ではありません。我々はあくまでも患者の意思決定に関与する専門スタッフという位置づけですからね」

 言葉が意味する思想を理解している人からは、格調高い答えが返って来るのです。

 日本語はどんな外来語でも自国の言葉の文脈で自由に使いこなすことのできる大変柔軟な構造を持っています。それだけに、単なる新奇さを狙ったカタカナ英語であるのか、新しい思想を示す「表題」として使われているのかを見極めなくてはなりません。専門家を自負する研究者たちが、専門用語としてその種のカタカナ英語を用いるのは当然ですが、専門外の人を対象に話しをするときは、背後にある思想について分かり易く説明する誠意が必要です。反対に専門外の人たちは、聞き慣れないカタカナ英語に接したときは、言葉の背後に書物一冊分の思想があると思わなくてはなりません。ところが変幻自在な言語を持った民族は、頻繁にカタカナ英語を用いるうちに、専門用語とヘアメイクサロンの区別がつかなくなって、

「おい、やなやつだねぇ。分かんない横文字使えば専門家だと思ってやがる。気取ってんじゃねえっつうの」

 シロウトを自認する人々は、初めて出会ったカタカナ英語が理解できない不安に腹を立てて、話す側の専門性について的外れの評価を下すのです。