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脱個人情報アレルギー
平成24年05月17日(木)
渡辺哲雄さんのお宅はどこですかと尋ねられて、
「ああ、哲雄さんならこの道をまっすぐ…」
と教えようとして、
「個人情報ですから、それはちょっと」
口をつぐむような風通しの悪さが世の中に広がり始めているような気がします。
京都で発生した交通死亡事故の犠牲者の連絡先を、葬儀に参列したいという加害者側に教えてしまった教頭先生が、個人情報保護法の観点から大変な批難を浴びてテレビカメラの前で謝罪をしていましたが、いい年をした大人が深々と頭を下げたり、教頭は公務員ですから、謝罪で済むと考えるのはいかがなものでしょうか、などとしたり顔で論評する評論家の映像が一般市民の脳に焼き付くことによって、日常レベルの情報交換にまで支障が生じることを懸念しています。そこで「個人情報保護法」という、ちょっとした噂話しさえできなくなってしまうような息苦しさを感じさせる名前の法律について改めて考えてみたいと思います。
道路を走るクルマには法律で最高速度が決められています。突然飛び出す赤い旗を持った国家権力に、これまでいくら罰金を取られたことでしょう。会議に遅刻しそうであろうが、身内が危篤であろうが、事情を汲んではくれません。通行の安全を図ろうとすれば、『道路交通法』という法律を設けて道路を利用する者に一定のルールを課さなくてはならないのです。
マンションのエレベーターが停まったとたんに、出てきたブルドックに吠えられて、死ぬほど恐ろしい思いをしたことが何度かあります。これこれ、吠えちゃだめじゃないのと、ロープを持った飼い主は犬をたしなめながら通り過ぎますが、犬をやさしく叱るのではなく、私に謝罪して二度と人を驚かさないように気をつけてほしいものです。犬を飼育する者には、その犬が人に危害を加えないように、オリに入れたりつないだりして安全に飼育し、移動に際しては、犬の行動を確実に制御できる者が、綱や鎖で確実に保持しなければならない義務が『動物の愛護及び管理に関する法律』に基づいて条例で定められているのです。殺傷能力のある刃物や拳銃を所持する者には、『銃砲刀剣類所持等取り締まり法』といういかめしい法律によって、危険回避のための細かい規則を守ることが義務づけられているように、およそ危険物を取り扱う者には、それを適正安全に管理する義務が課せられることに異論はないでしょう。そこには事情によって取り扱いが変わる柔軟性はほとんどありません。目の前でひき逃げを目撃したからといって、一般人が猛スピードで追跡すれば、たとえ犯人逮捕に貢献したとしても速度違反は許されませんし、子供を噛んで怪我をさせた犬の飼い主は、普段は大人しい犬であった事実をどんなに訴えても、つないでおかなかった非を免れることはできません。家に侵入した泥棒の足元に、海外から密かに持ち込んだ拳銃を発砲して撃退した場合でも、拳銃の不法所持は相当の罰の対象になるのです。
同様に『生存する個人が特定できる情報』を、悪用される可能性のある危険物とみなして、それを仕事で大量に管理している者に対して適正に取り扱うためのルールを定めた法律が『個人情報保護法』であるのです。法が対象にしているのは、「業務上」で手に入れた個人情報を、「過去六か月」のいずれの日にも、「整理した状態」で「五千件を超えて」管理している事業者です。つまりコンピューターや索引簿でいつでも特定の個人情報を検索できるようにして所有している一定規模の事業者について適用になるのです。これを「個人情報取扱事業者」といいます。同じ道路交通法でも、大型バスを運転する者だけに適用される規制があるようなものですね。つまり冒頭で紹介した、
「渡辺哲雄さんのお宅はどこですか?」
「ああ、哲雄さんならこの道をまっすぐ行って…」
といった一般市民の情報交換は、そもそも個人情報保護法の対象ではないのです。
法律の内容は、要するに個人情報の取得、管理、提供に関するルールである訳ですが、目に見えない「情報」の管理というと分かり難いので、ここでは「情報」を「家屋」に置き換えて考えてみることに致しましょう。
* * * * *
「あの…公園脇にある空き家、貸して頂く訳には参らないかと思いまして」
「貸さないことはないですが、あなたはどなたですか?」
「申し遅れました。子共会の代表をしている渡辺哲雄と申します」
「素性の分かった人がお願いにいらっしゃったのですからお貸ししますよ。いつだったか、黙って鍵をこじ開けて住んでいた人がいましてね。ああいうのは困ります」
これが『不正な手段による取得の禁止』です。仕事上の必要から個人情報を入手する場合は、事業者名を偽ったり、本人の知らない間に取得してはいけません。
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「ところで何にお使いになるのですか?」
「公園で遊ぶ子供たちのために子共会で遊具を揃えたのですが、あそこに置かせて頂けると大変助かると思いまして」
「ああ、それなら構いませんよ。しかし子供たちが中に入って遊ぶのは困りますよ」
これが『利用目的の特定と目的外使用の禁止』です。個人情報を仕事で入手する者は、その情報を何のために使うかを明らかにして、それ以外の目的には使わないようにしなければなりません。
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「お貸しする以上、家はきちんと管理して下さいよ。汚れたらその日のうちに掃除をして下さい」
これが『正確かつ最新の状態に保つ努力』です。管理する個人情報は、間違いのない状態に常にメンテナンスをしなければなりません。
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「知らない人が勝手に家に入ったりしないよう、気を付けて下さいね。それから台風や大雨の時は戸締りをして下さい。誰かに家を使わせるときは、あなたの方でしっかり監督して下さいよ」
これが『安全管理措置と従業者・委託先に対する監督責任』です。個人情報は外に漏れないように気をつけて、それを利用させる従業者や委託先がある場合には自分の責任でしっかりと監督しなければなりません。
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「もちろん私が見たい時はいつでも中を見せてもらいますよ。それから修理しなければならないところがあれば言いますから直して下さい。あ、念のために使用目的を書いた紙を頂けると安心です。こちらが求めた時はいつでも使用をやめていただきます」
これが『本人に対する利用目的の公開と、本人の求めに応じた個人テータの開示、訂正、停止』義務です。個人情報の利用目的は本人に通知あるいは公開し、本人に求められたらいつでも開示、訂正あるいは使用の停止に応じなくてはなりません。
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「とにかく、苦情はあなたに言いますから速やかに対処して下さるようお願いしますね」
これが『苦情の迅速処理』責務です。個人情報を管理する側は、本人の苦情を適切、迅速に処理しなければなりません。
どうですか?法律の文章はいかめしいですが、家を貸す場面と考えればしごく当然な条件ばかりではありませんか。もちろん生命、身体、財産の保護に必要な場合や感染症調査の場合などで、本人の同意が取れないときなどの個人情報の取り扱いについては例外扱いが許されています。何度も繰り返しますが、大切なのは誰を対象にした法律なのかということです。法律はあくまでも個人情報取扱事業者を対象にしているのであって、一般市民の日常生活上の情報交換には及びません。
前述した交通事故犠牲者の個人情報漏えい事件について、教えるのがなぜ悪いのだろうかという内容の曽野綾子さんの文章が週刊現代に『私の違和感』というタイトルで掲載されていました。マスコミはあれほどまでに教頭先生を責める必要があるのだろうかという趣旨には共感しますが、葬儀の席で謝罪したいという加害者側の気持ちに同情して、教育目的で業務上管理している生徒の家族も含めた個人情報を目的外で外部に漏らした教頭先生の判断は、やはり個人情報取扱事業者としての自覚には欠けていたというべきでしょう。スピード違反をすれば事情には関係なく反則切符を切られるのと同じです。
もちろん個人情報保護法とは別に、職業人として課せられている守秘義務に違反すれば、義務を課した法律によって罰せられますし、特定の法的義務は課せられていなくても、不用意な発言によって損害を受けた人から民事訴訟が提訴されれば、一般市民であっても損害賠償や慰謝料などの支払いを命じられることがあるのは昔から変わりません。
高齢者や障害者の安心のため、また孤立死を防止するためにネットワークの構築の必要性が叫ばれている一方で、個人情報保護法がそれを阻む壁のように立ちはだかっているとしたら滑稽です。個人情報保護法もまた市民の安全を守るために誕生したのですからね。法律の曲解によって、窮屈で風通しの悪い世の中になって行くのは困ります。まずは情報の持つ有益性と有害性を理解しなければなりません。次に個人情報保護の問題とプライバシー保護の問題を整理しなければなりません。その上で情報は有効に活用して分断された現代の生活に安心のネットを張り巡らせたいものです。そして日常の会話は落語の世界のように、互いの個人的事情に一歩も二歩も踏み込んで、傷ついたら怒り、怒られたら謝って、中味の濃い人間関係を作りたいものだと思います。
終