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携帯電話と正義感
平成24年06月01日(金)
金山駅で大垣行きの快速電車に乗り替えたときのことです。通勤ラッシュの時間帯にもかかわらず、降りる客と入れ替わりに私は窓際の座席に座ることが出来ました。隣りには海外旅行にでも出かけるような大きな紫色のスーツケースを引いた五十代後半と思しき大柄な女性が座りました。黄色地に黒の模様の鮮やかな上着を着て、細身のスラックスを履いた女性の茶色に縮れた髪の毛は、もうこの世に怖いものなどないと言わんばかりのボリュームで頭上の空間を占めていました。
女性はスーツケースを通路に置いて背筋を伸ばし、鳶のような目で周囲に立っている乗客たちの視線を拒絶していました。名古屋駅でラッシュは解消されて、見通しのよくなった車内には、それでもドア付近に数人の乗客が立っていました…と、女性の膝の上のバッグの中で携帯電話が鳴りました。
「もしもし、はい…はい…そうですか、分かりました。家の者に申し伝えます」
左手で携帯電話を持ち、右手で口を覆って周囲を憚る体を装っても、通話は静かな車内に筒抜けでした。近くのドアの手すりにもたれた髪の短いスーツ姿の三十代の男性が、イラッとした視線を向けましたが、女性は気付く様子はありません。
会話が一段落した女性は、一旦は電話を切ったものの、何を思い出したのか、
「もしもし、あの…先ほどの件ですが…」
今度は自分からダイヤルして小声で通話をし始めたときです。
つかつかっとドアの男性が近寄って、
「車内で通話はダメですよ」
厳しい口調で注意をしました。
私同様、周囲の乗客たちは、いい気味だと思ったに違いありません。
女性は、はっとした表情を見せてそそくさと電話を切り、しばらくは苦々しく眉を寄せて考え込んでいましたが、思い立ったように携帯電話を手に目の前のトイレに入ったまま出て来る気配がありませんでした。
やがて電車が一宮駅に停まりました。
男性が電車を降りました。
置き去りのスーツケースが気がかりだったのでしょう、女性は慌ててトイレから出てきましたが、乗り込んで来た客の一人が私の隣りに座る方が先でした。
あ…と短く女性が声を上げると、私の隣りの、三十代後半と思しきジーンズの女性は、瞬時に事態を察してバネ仕掛けのように立ち上がり、
「ごめんなさい。この男性のスーツケースかと思って…」
ちらっと私に視線を向けました。
空席ではないことを知っていたのなら、教えてくれてもいいではないかと批難されたように感じましたが、何もかも一瞬の出来事です。弁解の言葉も見つからない私をよそに、
「いえ、私は席を外していたのですから、どうぞそのままお座りになっていて下さい。構いませんから」
「いや、それはいけません。トイレに入っていらっしゃった人の席を取るつもりはありませんので、どうかあなたがお座りなって下さい」
「いえ、私は隣りの車両で空席を探しますから、もうお気になさらずに、どうそそのまま、そのまま」
携帯電話の女性は何度も頭を下げながら、大きなスーツケースを引きずって、逃げるように隣りの車両に消えました。
考えてみればついていない女性でしたが、彼女の印象は一変しました。傍若無人のように見えた派手な化粧の裏側には、少し軽率で、気が弱くて、人のいい、田舎のおばちゃんの素顔が隠されていたのです。そして、大してうるさくもない車内の携帯通話を、どんな事情があるのかも考えず、昂然と注意して、ひたすら自分の正義感を満たす男性よりは、数段付き合いやすいのではないかと思ったのでした。
終