優先席

平成24年06月05日(火)

 電車という乗り物は、年齢も性別も生活習慣も性格も、ひょっとすると人種まで異なる他人同士が、一定の時間を共有する狭い空間ですから、目を凝らせば、常に非日常的な小さなドラマが展開しています。

 その日私は、金山駅から名鉄電車に乗り換えて、知多半島の先端に向かっていました。混雑していた車内も次第に空いて、阿久比駅に着く頃には、どこにでも自由に座れる状況になりました。そこで私は、窮屈な対面座席から長椅子形式の座席に移動して、反対側の車窓に広がる新緑の景色を楽しんでいました。

 そこへ車掌が体を左右に揺らしながらやって来て、こう注意したのです。

「お客様、ここはお年寄りや体の不自由な人の優先席ですので、恐れ入りますが、別の席にお移り下さい」

 振り向くと、後ろの窓ガラスには松葉づえをついた怪我人や妊婦のイラストのステッカーが貼ってあり、座席の色も他とは異なっていました。

「これは、気が付きませんでした」

 私は慌てて向かい側の普通席に移った後で考え込んでしまいました。

 車両には優先すべきお年寄りも障害者も妊婦もいないのです。それでも優先席は空けておくべきなのでしょうか。もしも優先席以外の席は満席で、若者が立っていて、お年寄りが普通席に座っているのを見つけたら、車掌はお年寄りに、

「あなたはお年寄りですので、どうぞ優先席にお移り頂いて、ここは若い人にお譲り下さい」

 と言うのでしょうか。

 そもそも優先すべき相手がいなくても空けておかなければならない座席だとすれば、それは優先席ではなくて、駐車場の障害者用スペース同様、ハンディのない人は使用禁止と表示すべきではありませんか。

 車掌の姿は完全に隣りの車両に消えました。

 それを待ち構えていたように、こちら側の長椅子の優先席に並んで座っていた年齢不詳のオバちゃん二人が、遠慮のない声で話し始めました。

「ちょっとあんた、私ら注意されなんだやないの」

「失礼とちゃう?あの車掌さん。私ら年寄りゆうことやもんねえ」

「まだ優先席に座る年やないよねえ」

「そやわ」

 同じ車両で、私とは全く次元の違う反応をしている人がいるという事実がおかしくて、思わず二人を見ると、二人もちらっと私に視線を送ってからほんの少し声を落とし、

「年、あんまり変わらんのやないの?」

「いや、やっぱりあの人の方が若い思うで。あんた見栄張ったらあかんわ」

「そやな、これからは若う見えるより年いって見えた方が得かも知れんしな…」

「そや、そや、間違いない」

 その笑い方こそ若くない証拠ですよと言いたくなるような音量で二人はのけぞるように笑いました。

 代謝量以上に栄養を摂取する生活が続いているのでしょう。二人とも随分お腹がせり出していました。

 咄嗟に、

「妊婦と間違われたのかも知れませんよ」

 という冗談を思いつきましたが、喉もとで呑み込みました。

 車窓には知多半島の初夏の景色が、のんびりと流れていたのでした。