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銭湯と刺青
平成24年01月09日(月)
風呂のない木造アパートに住んで近所の銭湯に通っていた二十代の頃の話です。風呂椅子に腰を下ろしてシャワーを使う私の右隣りに人が座った気配がありましたが、一向に湯の音が聞こえません。洗髪を終えてちらりと盗み見ると、五十がらみの日に焼けた角刈りの男が盛んに歯を磨いていました。鏡に向かってニッと歯を見せて,学校で習った通りの方法で真剣にブラシを上下させる男の様子は何だかひどくほほえましくて、
「ほう…お風呂で歯磨きですか?」
思わず声をかけた私に向き直った男の右半身は、肩から二の腕、脇腹にかけて青々とした桜吹雪でした。
驚きのあまり声も出ない私に向かって、
「夜磨くと虫歯にならない」
男は人懐っこい笑顔でそれだけ言って再び歯磨きを始めましたが、私はその時どんな反応をしたのか全く記憶がありません。ただ、本来ならもう一度湯船に沈んで上がり湯を使う手順をすっかり省略し、そのくせ、むやみにゆっくりとした態度で洗い場を後にしたことを覚えています。脱衣場に出るや、体を拭くのもそこそこに服を着てアパートに逃げ帰ったのは言うまでもありません。間近で本格的な刺青を見たそれが最初の体験でした。
二度目の体験は息子が小学四年生の頃でした。
内風呂が普及して人前で裸になる経験がないために、修学旅行でも恥ずかしがって大浴場に入れない子供が増えているという記事を読み、息子を町の銭湯に連れて行きました。ところが時間帯が悪かったのか銭湯は貸し切り状態で、所期の目的を果たせないまま息子は洗い場で盛んにシャボン玉を作り、私は大きな湯船に長々と体を伸ばして鼻歌を歌っていました。そこへ一人の客が入って来て隣の薬湯に浸かったのです。背を向けた私には客の姿は見えませんでしたが、息子は突然焼けた鉄板の上でも渡るような慌てぶりで私の湯船に飛び込んで来て、
「お父さん、その歌、やめた方がいいよ」
と囁きました。
いぶかる私に、
「…サクラフブキ…」
息子はさらに声を落として言いました。
そっと向きを変えて隣の湯船に視線を送ると、小柄な中年男が茶色の湯から紋々の肩を覗かせていました。息子は父親が刺青の男から因縁をつけられるのを心配して歌をやめろと忠告したのでした。それか無性に嬉しくて、
「お前、心配してくれたのか」
ざぶりとかけた湯を、息子がさっとよけました。
湯はそのまま刺青の男の顔にかかりました。
「あ、す、済みません…」
震え上がる父と子の前で男はぶるぶると顔を洗い、
「今度はお父さんに冷たい水をかけてやれ」
にこっと笑って言いました。
「ぼくたち、もう出るんだよね、お父さん」
「おお、そろそろ出ようか」
この時も、ではお先になどと鷹揚に男に会釈をして脱衣場に出たとたん、逃亡者のように一目散に銭湯を後にしました。
三度目は昨年の暮れのことでした。
還暦を一つ出た私は、故郷の寒さに耐えられなくなって、二十八歳になった息子を大晦日の銭湯に誘いました。町で一軒だけ残った小さな銭湯は、まだ四時だというのに、新年を迎える準備の客で思いのほか混雑していました。そして、う!さむさむさむさむさむ…と背中を丸めて洗い場の敷居をまたいだ私たちに席を譲るように、ゆっくりと立ち上がって湯船に向かった男の体が刺青だったのです。それも半端な刺青ではありません。半袖半ズボンかと見まがう範囲が、一面、青と朱の鮮やかな彫り物で埋め尽くされていました。体を洗い、さて温まろうとして困りました。息子はかろうじて数人が沈む湯船の隙間にすべり込みましたが、もう一人入るには無理があります。隣りの小さな湯船にはゆとりがありますが、そこには刺青男が入っているのです。避けた方がいい…と思ったとたん、そんな怯えは克服したくなりました。それにこの場合、不自然に避けるのは却って男の怒りを買うような気もします。
迷ったのは一瞬でした。
周囲からは私は何のためらいもなく男の湯船に入ったように見えたことでしょう。
いえ、正確には入ろうとしたと言うべきです。
差し入れた右足に衝撃が走りました。
「わっ!」
大声を上げて飛び上がる私の姿を見て、
「ははは、電気風呂、電気風呂、知らなんだのか」
こっちがびっくりしたわいと弾けるように男が笑い、つられて周囲が大笑いしたことで気持ちが和みました。
「よくこんなピリピリする湯に平気で入っていられますね」
「体にええんやで」
「銭湯のおやじさんがうっかり電圧上げたら、う!って感電死しませんか?」
「するかい!」
笑顔で交わした会話は脱衣場に移っても続きました。
「それだけ見事な彫り物を彫るのにはどれくらいの日数がかかるものですか?」
「そう…二年半ほどかかったかなあ」
「血が出るんでしょうねえ」
「そら出るわい。毎日通って、少しずつ少しずつ彫るんや。そうやって二年半も痛みに耐えたっちゅうことが、あの世界では一目置かれるんや…けどな」
「え?」
「七十にもなって、後悔しとるんやで」
男は息子に向かって言いました。
ゴルフに行っても風呂には入れない。銭湯に小さな子共がいれば遠慮する。
「堅気になると、こいつのせいで世間が狭くてなあ…」
言外に、どんなことがあっても道を踏み外すなよ、と言ってくれているように感じられました。
波に洗われた磯の岩のように、いい顔をしていました。
男は体を拭き終わり、目の前で見事な観音様と昇り竜がラクダのシャツに覆われました。
「それじゃ、どうぞ良いお年を」
息子の言葉には返事をしないで、男は首をすくめるようにして大晦日の町へ出て行きました。
終