あるじの器

平成24年08月08日(水)

 金曜日ということもあって、小料理屋は仕事を終えた勤め人たちで珍しく混んでいました。カウンターで話し込む上司と部下らしい二人連れの若い方が私に気がついて、椅子の上のカバンを足元に移してくれたので、かろうじて一番端の席に腰を下ろすことができた私は、いつものように目の前に並ぶ大皿の煮物を数品注文して熱燗を傾けました。すっかり出来上がっている店内の客たちは、それぞれの会話に夢中で、時折りビールの注文が飛ぶ程度です。包丁を持て余したあるじは、一人で飲んでいる私の前にやって来て、

「相変わらず夏でも熱燗ですか」

 カウンター越しに話しかけてくれました。

「ビールは腹が張るからね。年だよ」

「何か作りましょうか?」

「何ができるの?」

「夏でも牛鍋ってのはどうですか?」

 あるじは、こういうところが巧みです。リズムのいい会話につい乗せられて、

「いいねえ」

 ぐつぐつと湯気を立てる土鍋をはさんで、ここから先はあるじと私の会話です。

「明けても暮れてもいじめのニュース。どうなってるのかねえ、日本の教育現場は」

「今の子供ときたら、いじめる側は程度を知らないし、いじめられる側はすぐ死んじゃいますからね」

「板前だって職人の世界だから、修業中は先輩のしごきや、いじめがあったんじゃないの?」

「もちろんですよ。私なんか十八で家を出て、随分たくさんの店を渡り歩きましたからね。和食、洋食、中華、旅館、ホテルからドライブインまで経験しましたが、店を変わる度に新参者でしょ。いじめられないように随分工夫しましたよ」

「工夫って?」

「トイレ掃除を志願するんですよ。みんな嫌がりますからね」

「そういえば、大手の会社なんかで、管理職が率先してトイレの掃除をする運動があるみたいだよね」

「トイレは任せて下さいって言うと、それゃあ可愛がられましたよ」

「なるほどねえ…」

「便器なんか、こう…抱きかかえるようにして、素手で磨くんです」

「偉いなあ、若いのに苦労したんだ」

「無理やりやらされるのなら苦労でしょうが、志願するんですからね」

 あるじは笑って、

「しかし、私は器の小さい人間でしてねえ…」

 少し声を落としました。

「うつわ?」

「便器を抱くときは、トイレのドアを大きく開けとくんですよ。先輩や店のオーナーから見えるように…どうです?セコイ人間でしょ?」

 だからこの程度の店やってるんですよね…と、弾けるように笑うあるじに、隣りの二人連れが驚いたような視線を向けました。六十五歳のあるじが修行中といえば四十年以上も昔の話です。いじめから身を守る行為の背後にちらっとかすめた心の影を、老齢年金を受け取る年齢になった今も、恥ずべきこととして記憶するあるじの器はセコイのではなくて清潔なのだと思いました。清潔だから、駅前の一等地にビルを持って立派に店を張っているのです。私はこのままもっとあるじの話を聞いていたくなって、

「お代わりもらおうかな」

 一杯だけのつもりの熱燗をもう一つ注文したのでした。