駅前食堂

平成24年08月08日(水)

 駅まで車で送って下さった主催者が方向音痴だったため、予定の列車に間に合いませんでした。次の列車までの一時間を猛暑の待合室で過ごす勇気はなく、駅前で一軒だけ営業していた大衆食堂の敷居をまたいだとたん、異様な雰囲気にたじろぎました。まるで西部劇のように、たくさんのトシヨリたちがよそ者の私に一斉に好奇の目を向けました。中でも、テーブルに数本のビール瓶を立てて、片手にコップを持ったジイさんの視線には、

「まさか俺たちの縄張りに入ってくるつもりじゃないだろうな」

 そんな敵意が宿っていました。

 意を決して一つだけ空いていたテーブル席に腰を下ろすと、トシヨリたちの緊張はたちまち崩れて、私など無きがごとき会話が始まりました。その時のスケッチです。

 かつては寿司屋だったのでしょう。店には厨房とは別にカウンターのコーナーがありましたが、店ごとすっかり物置きと化し、本来なら握りを出すべき白木の一枚板の上には、天ぷらやコロッケなどの揚げ物にキャベツの千切りを添えた小皿が並んでいました。私はイカ焼きの乗った皿をテーブルに運んで、冷酒を注文しようとしましたが、店員が見当たりません。仕方なく奥の暗がりに向かって、

「冷やで一合下さい」

 と声をかけると、

「…」

 隣りのテーブルで愉快にジイさんとビールを飲んでいた二人のバアさんのうちの大柄な方がぬっと立ち上がりました。バアさんは無造作に私のコップに一升瓶を傾けると、溢れる寸前でピタリと止めて、すぐにまたジイさんのテーブルに戻りました。

 戻るとたちまち饒舌になって、

「こう暑いと飲んだもん勝っちゃ。熱中症予防にはやっぱり水よりもビールやで」

 もう一人のバアさんと一緒にジイさんにビールを勧めます。ジイさんも、それが礼儀のように二人のコップに注ぎ返しますから、テーブルの上にはすぐにまた新しいビール瓶が立つのでした。半紙にチョンチョンと筆を置いたようなおどけた眉をしたジイさんは、縁台将棋のように半ズボンの片膝を立てて、バアさんたちの言うことにしきりにうなずくばかりで、ついに口を開きません。

「何たって人間は飲めるうちが花よ。それに、こうして一緒に飲める相手がいるのんは幸せやで」

「あとは苦しまずに死ねれば言うことないけどな」

「それだけは無理や、死ぬときはみな苦しまんならんのやで、生まれた以上、覚悟せにゃ。フミさも最期は目え剥いて、わしらの前で点滴を引き抜きよった。苦しかったんやなあ…。こればっかりはわしらも天皇陛下も同じや。第一、苦しまなんだら、この世をあきらめられへんのとちゃうか」

「けどな…」

 と、隣りのテーブルを取り巻いた四人のバアさんが会話に加わって、

「同じこの世に生まれても、天皇陛下はこういう楽しみは知らんで」

「そら気の毒や!」

 間髪を入れない絶妙な相槌に、店内のトシヨリが弾けるように笑いました。笑うとジイさんの口の右半分には歯がありませんでした。

「あんたんとこ、またこれか?」

 一人がパチンコを打つ仕草をすると、

「あこはここよりも涼しいからな」

「涼しい言うても、こう毎日じゃカネがもたんやろ」

「昔、真面目やった分を今頃取り返しよるんやな、ああなると病気みたいなもんや」

「ここに通うのも病気やで」

「そら間違いない」

 再び弾ける笑い声は、この年齢まで生き延びれば、もう怖いものなどないという雄叫びのようでした…と、そこへ背の高い年配のタクシー運転手が入って来てカウンターに座りました。予約してあったのでしょう、すかさず立ち上がった例の大柄のバアさんは、厨房からざるそばを運んで声を落とし、

「豆ごはん要らんか?」

 と囁きました。

「何や、マメゴハンて」

 そばをすすりながら運転手には愛想がありません。

「お豆さん入れて炊いたご飯やがな」

 うまいで食べてみいと、バアさんはパックに詰めた豆ご飯を運転手に押し付けました。

「お、今日もサービスがええやないか」

 畳二枚ほどの小さな座敷から、でっぷりと太ったステテコ姿のジイさんが茶化すと、

「この人はリストラされてタクシーに乗ってるんや、あんたとは違う」

 バアさんは他のトシヨリが笑うより先に向きになって心の動揺を隠そうとしているように見えました。叱られた子供のように首をすくめるジイさんとテープルをはさんで、プリント柄のシャツを着たジイさんが、サムライのように痩せた背中を伸ばしていました。

 そそくさとざるそばを食べ終えた運転手は、豆ご飯のパックを手に炎天下の職場に出て行きました。それを合図にしたように、四人のバアさんのうちの二人が立ち上がってカウンターに向かいました。不思議なことに二人とも座っているときと背丈が変りませんでした。

 双子の小学生のようなバアさんが二人、それぞれにフライの皿をテープルに運ぶのと入れ替わりに、もう一人のバアさんが立ち上がりました。大柄なバアさんが奥からパックを持って来て無言で手渡しました。

「帰るかい」

「このイモは手付かずや、よかったら詰めてけ」

「おおき、これで夕飯のおかずはしまいや」

「はよ帰ってどうするんや?」

「水戸黄門よ、水戸黄門。黄門さんにはスジがあるでな」

 ハッピーエンドっちゅうやっちゃ、とつぶやいてバアさんは帰って行きました。

 列車の時刻が近づいていました。レジなど見当たらないため、大柄なバアさんの手に直接勘定を支払って店を出ました。

 子供の頃、裏庭の踏み板をはがすと、名も知らぬたくさんの虫がうごめいていていたのを思い出しました。こんなところにも生き物の生活がある…。

 振り返ると古ぼけた大衆食堂がアスファルトから立ち上る熱気の向こうに揺れていました。