自由度の指標

平成24年09月15日(土)

 男女共同参画が提唱されて久しいですが、出産、育児にまつわる職業上の不利益については改善半ばであるものの、それ以外の日常の生活では、どう考えても女性の方が自由なように思います。髪型ひとつ取り上げてみても、その多様性は男性の比ではありません。女性が刈り上げのショートカットで登場すれば、「お!スポーティだね」と言われますが、男性が三つ編みをして出勤すれば、すぐさま別室に呼ばれて上司から注意を受けるか、複数の友人を失うことになるでしょう。スカートも、スラックスも、ジーンズも、ショートパンツも、女性はおシャレの範囲で楽しむことができますが、男がスカートを履いて出勤すれば確実に社会的逸脱者として扱われるに違いありません。服装のバラエティに関する男女の自由度の差は、デパートの服飾フロアーの面積の差に歴然です。最近でこそ眉を整えたり脱毛をしたり美容パックをする男性が出現はしたものの、ファンデーション、頬紅、アイシャドー、付けまつげ、口紅となるとまだまだ女性の領域です。きょうはスッピンなの…と微笑む女性はチャーミングでも、きょうは化粧の乗りが悪くて…と嘆く男性は想像するだに不気味です。下着、靴下、靴、バッグ、傘、アクセサリー等々、男女の間にはあらゆるものの選択肢の量に天と地ほどの差があります。そして選択肢の多さが自由度の指標だとすれば、男性よりも女性の方が圧倒的に自由なのです。

 自由度の差異は外見的な範囲にとどまりません。感情表出の自由度についても男女の間には大きな差が存在します。両手を胸の前に組んで、「まあ、嬉しい!」と女性が目を輝かせれば可愛くても、男性がすれば奇異な感じがします。両手で顔を覆って、「もう嫌!」と女性が駆け出せば絵になりますが、男性がすれば失笑を買うでしょう。「ばかばかばか!」と相手の胸を両のこぶしで叩くのも、突っ伏してわっと泣き崩れるのも、「知らない…」とそっぽをむいて拗ねるのも、「やぁだぁ」と隣りの人の肩にしなだれかかるのも、男性にはできません。 どんなに仲が良くても、男同士は手をつないでは歩けません。半日をウィンドウショッピングに費やせません。洗面所で長時間他人のうわさ話はできません。エアロビクスもカルチャーセンターも文化講演会も参加者は圧倒的に女性です。どうですか?同じ人間に生まれながら、男女は自由度においてこれほど異なる世界に暮らしているのです。

 今度生まれて来るなら女だな…と思って女性になったつもりで生活を想像したとたんに、全く別の世界が見えて来ました。

 朝起きるとまず髪を直し、顔を作り、手足の爪に色を塗り、服を選び、服に合わせたアクセサリーを身に着け、バッグを選び、外反母趾の危険性に耐えながらヒールの高い靴を履きます。ただでさえあわただしい朝に、その大変さは驚嘆に値しますが、さらに、同じ服ばかり数点のローテーションじゃ恥ずかしいという強迫観念に屈するようにバーゲンに走り、たまにはイメージを変えるべきではないかという衝動に駆られるように美容院に出かけて行きます。

 ぼそっと起きてきて、顔を洗ってパンでもかじれば、あとは昨日と同じスーツを着て出かけて行く男たちと比べて、女性は何と不自由な朝を過ごしているのでしょう。ところが戦場のような女性の朝も、結婚するとガラリと様相が変わるようです。子供の夜泣きに悩まされるようになった専業主婦の相当数は、スッピンにパジャマ姿で台所に立っているのではないでしょうか。そうなるともう夫が誕生日にショートケーキを買って帰って来ても、両手を胸の前に組んで、「まあ、嬉しい!」とは言いません。一緒に鍋を囲む約束の夫から突然残業の連絡が入っても、両手で顔を覆って、「もう嫌!」と駆け出したりはしません。夫のポケットからモモ子と書いたピンクの名刺が出てきても、「ばかばかばか!」と夫の胸を両のこぶしで叩いたりはしません。

 環境によって人は変わり、内と外で態度が変わるのは男も女も同じですが、この変わりようは尋常ではありません…どちらが本当の女性の姿なんだろうかと考えていたら、独身女性に用意されていたあの豊富な選択肢の背後に、女性らしさを強いる社会的要請と、それに乗じて流行を煽るコマーシャリズムが存在していることに思い当たりました。どんなに選択肢が多くても、自分の意思で自発的に選択して楽しめるものでなければ自由度の指標とは言えません。誰かが走らせる流行電車に乗り遅れまいとしてあわただしい朝を迎えているのだとしたら、ちょっと悲しい感じがして来ます。

 してみると、やっぱり男がいいか…。

 生まれ変われるはずもない人生を六十年余り生きて来て、選択肢の量にかかわらず本当の自分でいることの大切さと難しさをしみじみと感じているのです。