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調和の技法
平成24年01月18日(水)
私たちの体には遺伝子という螺旋状の設計図があって、一個の受精卵としてこの世に誕生した瞬間から設計図に従って分裂を繰り返し、設計通りのパーツを順序よく作り出して行きます。一旦胃袋の細胞として機能し始めれば、そこで繰り返される分裂は決して胃袋の範囲を越えません。潰瘍で損傷した胃壁の細胞が増殖するときは、元の胃壁の細胞を過不足なく復元します。うっかり別のパーツの細胞を形成する余地があれば、ただれた胃袋に耳が生える可能性だってある訳ですが、突然変異といって、進化に寄与したり個体を滅ぼしたりする設計ミスが稀に発生することがあるものの、設計図は圧倒的な正確さで個々の細胞の生滅を統御しています。生命の本質は、目の前に存在してやがて消えて行く肉体ではなくて、細胞の生滅を統御しながら脈々と受け継がれて行く設計図の仕組みそのものであるのです。
私たちは自分の意思を離れて呼吸をし、意識することなく心臓を動かしています。食べ物が体内に入るや勝手に消化酵素が働き、栄養素は血中に取り込まれ、老廃物は体外に排泄されます。耳元で大きな音がすれば、驚こうと思わなくても驚きますし、素敵な人に出会えば、好意を持とうと思わなくてもときめきます。何を食べようかと迷うのは自分の意思ですが、何か食べたいと思うのは自分の意思ではありません。われ思う、ゆえにわれあり…とか、人間は考える葦である…などと、私たちは思ったり考えたりすることを人間存在の中心に位置づけていますが、それを可能にしているのは、誕生と同時に埋め込まれた設計図に従って無意識に営まれる生命活動なのです。
設計図に従って生命活動を行っているのは人間に限ったことではありません。動物も植物も魚も虫も細菌も、あらゆる生き物はそれぞれの設計図に従って生滅しています。しかも一つの個体が完璧な全体性を保っているように、生き物の体系そのものも完璧な全体性を維持しています。動物と植物の間では酸素と二酸化炭素の交換が行われていますし、生き物同志は食物連鎖という形で相互依存しながら全体の生存を可能にしています。生き物はどれも他の生き物の命を体内に取り込まなければ生存できない存在である一方で、自らもまた他の生き物に食べられてしまう可能性を有しています。弱肉強食というと残酷ですが、食物連鎖とはそういうシステムです。だからこそ生き物は、他の生命の維持のために犠牲になる個体の数を見越した上で、種を維持するのに十分な量の子孫を再生産しているのです。海の生き物たちが産み落とす卵の数は、全てが成長すれば生態系を壊しかねないほど大量ですが、孵化するや否やプランクトンとして、相当の数が他の生き物たちの食料になってしまいます。雑草は、何もこんな過酷な場所で生きなくても…と思うようなアスファルトの割れ目にさえ根を下ろして、二酸化炭素を酸素に変えながら、生き物の全体性を維持するためのささやかな役割を果たしています。一つ一つの生き物は自分の設計図に従って与えられた命を精一杯全うしようとしているにもかかわらず、全体としては自分以外の生き物の命を支える役割が与えられているのです。連鎖の頂点に立つ人間だけが他の生き物の命を奪うばかりで、奪われる運命を免れています。それどころか栽培や養殖、近年は遺伝子組み換え技術まで開発して、他の生命をコントロールするようになりました。そのような立場に立つこともまた人間に組み込まれた設計図が命じているのでしょう。
土と水と太陽の光が植物を育て、植物が排出する酸素を利用してエネルギーを燃やす生き物が発生し、食べたり食べられたりする連鎖の全体を壮大な「調和」と認識した上で、自らを調和の一員と自覚することにより存在不安からの開放を図ろうとする考え方があります。一方、生命存在の全体性を所与の事実として思考の外に置くのではなく、個々の命の設計を超えて精密な全体性が維持される背景には、全体を統御する上位の設計図が存在しているに違いないという考え方があります。全体性の維持と言っても、それは長期的視野に立った思弁的なことであって、人が日常経験するのは天変地異とか弱肉強食という不調和な出来事の連続である訳ですから、調和こそ安寧であると考える者と、背後に上位の設計図を想定する者とでは、生き方において大きな違いが生じます。
「調和」に安寧を求めようとする人々は、乱れた調和の回復を願い、あるいは調和が乱れないことを祈ります。海が荒れれば海の神に鎮まることを願い、田植えの前には田の神に順調な実りを祈ります。集団内に調和を乱す分子を発見すれば穏やかに、しかし執拗に排除します。周囲の信を得るためには、異論の生ずる可能性のある意見を述べるより、自分が調和的な人間であることを示す方が有効です。調和はあくまでも所属する集団の範囲に限定されますので、同じ集団の構成員は服装や言葉遣いや行動様式を共有することで安心します。同時に、所属集団のない状況に置かれた人々は、選択すべき行動規範を失って、たちまち憂鬱で無口で萎縮した人格を露呈します。対立する複数のセクトや派閥が成立してしまえば、所属集団への忠誠を動機として互いに瑣末な異を唱え、合意形成は水面下の談合に頼る以外に方法はありません。
全体の設計図を想定する人々は、あらゆる不都合や不可解に対して、背後の設計内容を読み解くことによって合理的対処を図ります。川が氾濫すれば川の神様に祈るのではなく、つぶさに観察し、丹念に記録を重ね、一定の周期を発見するや、季節と地形と気象との相関の中で原因を特定して対策を講じます。地球が球体であるという研究結果が発表されれば、それを実証すべく命がけで万里の波濤に帆を張ります。周囲の信頼は設計内容解読に対する貢献に寄せられますから、優れた研究や突出した勇気や抜きん出た表現力こそ評価の対象になるのであって、やみくもな調和は尊敬を集めません。人々は高い社会的評価を得るために盛んに研究し、競争し、対立意見の論破に努めるのです。
両者の違いは、どちらかが正しくて、どちらかが間違っているという問題ではありませんが、科学の進歩は圧倒的に設計図を解読する人々によって推進されました。やがて進歩した科学は、広範囲に人的な交流と情報の共有をもたらして、今では科学的進歩に対する貢献と享受については両者の間に有意な差異が見られなくなりました。しかし重要な政治的局面で両者が対立すれば、当然ながら調和に重点を置く側の一方的な譲歩と、それに伴う密かな不満の蓄積が発生します。不満の蓄積が慢性的になれば、もはや調和と臆病の区別はつかなくなって、輪郭の不鮮明な人格を形成します。そして限界を超えたとたんに調和などかなぐり捨てて自他に対して幼児的攻撃性を発揮する可能性も否定できません。
調和はまぎれもなく美徳です。しかし本来調和の実現には高度な技術を要するものです。そこでもう一度、生命の全体性が、弱肉強食のぎりぎりのせめぎ合いの果てに達成されているという現実に立ち返り、異なる原理で生きる人々に対する調和の技法を洗練する必要がありそうです。
もっとも、そのような生き方まで私たちの体内に埋め込まれた設計内容の一部だとしたら、逃れようもない宿命ということになりますが…。
終